雨の夜、拾った約束
しまえび
雨の夜、拾った約束
雨の匂いってやつは、どうにも昔を思い出させる。
夜の素材採取を終えた俺は、外套のフードを深くかぶって、森の小道を急ぎ足で歩いていた。
雨に降られたのは計算外だったが、まあ、珍しい話でもない。
濡れた土のにおいと、冷たい雨がじわじわと足先から這い上がってくる。
そのとき、雨音の向こうに、かすかな泣き声が混じった気がした。
目を向けると、ボロ布を羽織った小さなガキが、しゃがみこんで震えていた。
五つ、六つくらいか。濡れた髪が額に張りついている。
「ったく、こんな夜に置き去りかよ。ロクでもねぇな」
俺が声をかけると、びくっと肩を揺らして、泣き腫らした目がこっちを向いた。
怯えと安堵がごちゃ混ぜになったような顔で、ガキはかすれた声を漏らす。
「……お、おねえちゃん……?」
その言葉に、思わずまばたきする。
俺のことを見て、最初にそれかよ。
「ちげぇよ。俺は――……いや、もういい。とにかく立て。死にたくなきゃな」
俺は舌打ちしながら外套を脱ぎ、ガキの肩にかぶせてやった。
「転ぶなよ。……抱える気はねぇからな」
びしょ濡れのまま歩き出すと、ぴちゃ、ぴちゃと小さな足音が後ろから必死についてくる。
うっとうしい音が背中にまとわり付くようで、思わず肩でため息をついた。
俺はほんの少しだけ歩調を落とした。
塔に戻ると、濡れた外套を脱がせて、暖炉に火をくべた。
ぱちぱちと音を立てて火が灯ると、ガキはまん丸い目でそれを見つめ、すこしだけ震えをおさめた。
タオルを放ってやると、もぞもぞと体を拭き始めた。
「腹、減ってんだろ。……ほら」
俺が温め直した鍋の残りを差し出すと、ガキは一瞬、びくっとして固まった。
そして、小さな声でぽつりと。
「……い、いただきます」
そのまま両手で器を受け取り、こぼさないように口をつける。
最初は震える手でちびちびと口をつけていたが、一口、二口と飲むたびに表情が少しずつゆるんでいった。
そして、気づけば夢中で器にしがみついていた。
小さな手のひらが湯気で赤くなっていた。
泣き顔のままでも、必死に生きようとしてる顔だ。
「……ガキ、名前は?」
「……ユウト」
「ユウト、ね。……ったく、めんどくせぇガキ拾っちまったな、俺は」
ぼやきながら毛布を放ってやると、ガキはうれしそうにそれにくるまり、ちいさく「ありがとう……おねえちゃん」とつぶやいた。
「……俺はお姉ちゃんじゃねぇっつの」
ぶっきらぼうに返して、食器を片付け始める。
外はまだ雨が降り続いていた。
けれど、この塔の中は――妙に静かで、あったかかった。
* * *
塔の外は、もう春の匂いがしていた。
雪解け水を含んだ風が、森をざわりと鳴らす。
焚き火の薪を組みながら、俺はちらりと視線を横へ流した。
ユウトが、荷物を背負って立っている。
ちびっこかったガキが、今じゃ腰の剣をまっすぐ吊るして、俺と目線を合わせられるくらいには伸びた。
十歳そこら。……まったく、子どもってやつは、あっという間に伸びやがる。
「……行くのか」
俺の声に、ユウトはこくりとうなずいた。
震えていたあの夜と違って、今はちゃんと、自分の足で立っている。
それが少しだけ癪に障るのは――まあ、気のせいだろう。
「俺、強くなりたいんだ」
「はぁ? またそれかよ」
「もっと強くなって……姉ちゃんを守れるくらいに」
「勝手にしろ。俺は誰にも守ってもらうつもりはねぇ」
「うん。知ってる」
ユウトはまっすぐに俺を見た。
目の奥に、妙に芯のある光が宿っている。
拾ったときの、雨の夜の泣き顔なんて、もうどこにもない。
「……ったく。ガキのくせに、言うようになりやがって」
そう吐き捨てながらも、手元の焚き火がやけに滲んで見えた。
なにを湿っぽくなってんだ俺。
「さっさと行け。……すぐ戻ってくるんじゃねぇぞ」
「心配すんな、姉ちゃん!」
ユウトはにかっと笑って、拳を握った。
「ぜってー強くなってやるから!」
小さな背中が、森の道を踏みしめていく。
声はまだ子どものままなのに、歩く足取りは、もう俺の知らない先を向いていた。
焚き火の火がぱちりと弾ける。
春の森は、静かだった。
* * *
雨の匂いは、あの夜と同じだった。
春の森を歩きながら、俺は外套のフードを指先でつまむ。
ずいぶんと久しぶりに、この匂いをまともに嗅いだ気がする。
「……ったく、こんな夜にまた雨かよ」
ふと顔を上げると、塔の前に立つ影に気づく。
夜の闇を背景に、濡れた外套を羽織った男がひとり。
肩幅が広く、剣を携え、昔の面影をぎゅっと引き伸ばしたような顔。
目が合った瞬間、喉の奥がちくりと鳴った。
「……よぉ、姉ちゃん」
ユウトの声は、もう少年のものじゃなかった。
低くて、張りがあって、胸の奥に刺さるような響き方をする。
あの夜、泣きじゃくっていたガキと、どうしても重ならねぇ。
「……お前、でけぇな」
「鍛えたからな!」
にかっと笑う顔に、昔のまんまの無邪気さが残っているのが腹立たしい。
「……チッ、ますます生意気になりやがって」
扉を押し開けると、塔の中の灯りが外の雨を押し返した。
ユウトが俺のあとをついてくる。
でももうあのときみたいな小さな足音じゃない。
俺と同じ高さの、落ち着いた足音だ。
ユウトは黙って外套を脱ぎ、暖炉のそばにかけた。
その仕草が妙に自然で、思わず視線を外した。
火をくべると、ぱちぱちと小さな音が塔の中に広がる。
雨の音と混ざって、心のどこかをやけに静かに撫でていった。
「……久しぶりだな」
ユウトがぽつりとつぶやいた。
低い声が、昔よりずっと深く響いてくる。
あの頃は見下ろす側だったのに、いまは俺が見上げる側だ。
その事実が、胸の奥をじわりと熱くする。
「……よくまぁ、こんなとこまで来る気になったな」
軽く吐き捨てるように言った言葉に、ユウトはまっすぐ視線を向けてきた。
「約束、覚えてるからな。――俺、強くなって、姉ちゃんを守るって」
その声は低くて、真っすぐで、雨音の奥まで届いた。
あの夜の震える声じゃない。
胸の奥を一撃で刺してくる声だった。
そのまま、沈黙が落ちた。
火のはぜる音と、外で降り続く雨だけが、静かに部屋を満たしている。
「俺、本気だよ」
ユウトの声は低く、でも揺れがなかった。
「昔みたいに守られる側じゃなくて、今度は――俺が、姉ちゃんを守りたい」
「……バカ言え」
胸の奥がどくりと跳ねた。
いつもなら軽く吐き捨てて終わるはずの言葉が、喉の奥で引っかかる。
呼吸が浅くなっているのが、自分でも分かった。
――馬鹿みたいだ。たかが一言に、心臓がこんなにうるさいなんて。
ユウトの視線が、俺の顔を真っ直ぐに捉えている。
視線を外せば、息が整いそうで。
けれど、外せなかった。
俺は胸の奥がさらに早鐘を打つのを、どこか遠い気持ちで感じていた。
雨の夜、拾った約束 しまえび @shimaebi2664
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