落ちる

タピオカ転売屋

第1話

 今日も仕事が終わる。

 デスクを片づけ、パソコンをシャットダウンし、タイムカードを押す。

「おつかれさまでした」と口にしながら、誰の目にも留まらないまま会社を出る。


 夜風が少し冷たい。

 駅までの道は、いつも通り。

 コンビニの明かり、居酒屋ののれん、踏切の赤。

 何も変わらない、いつもの帰り道――のはずだった。


 ふいに、足もとが抜けた。


「……え?」


 落ちた。

 思考が追いつく前に、体が地面の下へ沈みこんだ。


 ドン、と鈍い音。

 痛みよりも先に、理解が来ない。


 ――ここはどこだ?


 見上げると、頭上に細長い四角の空がある。

 およそ二メートルほど。

 狭い穴の底。

 土の壁は湿っていて、登れそうにない。


「おーい! 誰か!」


 声を上げる。

 返事はない。

 声は地面に吸い込まれていくだけだった。


 ポケットからスマホを取り出す。

 画面の隅には、小さく「圏外」の文字。

 電波も、届かない。


 焦りながら、壁の窪みに指をかけてよじ登ろうとする。

 土が崩れ、指先が滑る。

 爪の間に土が詰まる。

 何度やっても、同じだった。


 やがて上を、数人の笑い声が通り過ぎた。

 高校生らしい。

「おーい! ここだ! 助けてくれ!」

 必死に叫んでも、誰も気づかない。

 まるで、声が届いていないかのように。


 やがて喉が枯れ、体を丸めて眠った。


 ――目を覚ますと、朝だった。

 上には、通勤する人々の足。

 ヒールの音、革靴の音。

 みんな、忙しそうに通り過ぎていく。


「おい! ここだ! 頼む!」


 反応はない。

 それどころか、誰ひとり顔を向けようとしない。

 手を伸ばせば届く距離なのに、誰も気づかない。

 まるで、オレだけが別の層に沈んでいるようだった。

 怒りと絶望が混じり、手にした靴を投げた。

 靴は、ぽとりと地上に転がった。


 しばらくして、小学生がそれを見つける。

「なんで片方だけ落ちてるんだ?」

 不思議そうに言い、しばらく眺め、

 ――そのまま、去った。


 次に、財布を投げた。

 革の財布は、泥をはねて地面に落ちた。

 通りかかった中年の男が拾い上げる。

 周囲をちらりと見回し、

 そしてポケットに入れた。

 何事もなかったように、歩き去った。


「見えてるだろ……! オレがここにいるだろ……!」


 男の声は、やはり届かない。

 涙と汗が混ざり、土に染み込む。


 やがて、スマホを手に取る。

 圏外の表示は変わらない。

 けれど、カメラは動いた。

 録画を押す。

 震える声で、言葉を残す。


 > 「はぁ……はぁ……誰か……これを見つけてくれると信じて、私の名前は森岡敏明、穴に落ちて出られなくなった、見つけたら助けて欲しい——えっ!?」


 画面の向こうで、何かが動いた。

 カメラ越しに、誰かの足が――穴の縁に立っていた。


 映像は、そこで途切れていた。



 ……その動画が発見されたのは、三か月後のことだった。

 警察は、森岡敏明さん(45・会社員)の行方をいまも捜索中である。


 日本の行方不明者数は、毎年十万人。

 認知症による高齢者が二万人、若年層の家出が四万人、

 借金や人間関係による自発的失踪が二万人。


 そして、残りの二万人――原因不明。

 穴は、いまも、どこかにある。


 皆さん、靴が片方だけ落ちているのを見たことは、ありませんか?

 それはもしかしたら、誰かのSOSだったのかもしれません。

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落ちる タピオカ転売屋 @fdaihyou

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