第4話 約束の糸

 どれくらいの時間が経っただろうか。

 しゃくりあげることもなく、ただ静かに涙だけを流していたルーカスの目から、やがて温かい雫は枯れていった。リネットたちは、彼が落ち着くまで、誰一人急かすことなく、ただ静かにそばにいてくれた。腕を組んでルーカスを睨んでいたカイですら、いつの間にかその腕組みを解き、少しだけバツが悪そうにカウンターの隅に寄りかかっている。

 その優しい沈黙が、今の彼には何よりもありがたかった。

「……もう、大丈夫かい?」

 ジェラールに声をかけられ、ルーカスははっと顔を上げた。慌てて袖で涙の跡をごしごしと拭う。頬がひりひりと痛んだが、それ以上に気恥ずかしさが勝っていた。

「す、すみません! みっともないところを……」

「いいの、いいの! それだけ辛かったんだよね。全部吐き出せて、すっきりしたよね?」

 いつの間にか隣の席に座っていたリネットが、大きな紫色の瞳で彼の顔を覗き込みながら、にこっと笑った。その屈託のない笑顔に、ルーカスは少しだけ救われたような気がした。


「じゃあ、始めようね」

 リネットはそう言うと、テーブルの上に置かれた懐中時計を、まるで壊れやすいひな鳥を扱うかのように、両手でそっと包み込んだ。そして、目を閉じ、何かに集中するように、小さく息を吸う。

「……うん、うん。そうなんだね。大丈夫、もう怖くないよ。たくさん傷つけられちゃったんだね。乱暴にされて、痛かったね……」

 リネットの唇から、囁くような言葉が紡がれていく。それは、明らかにこの場にいる誰かに向けられたものではない。彼女は、時計の中にいるという「何か」と、本当に対話しているのだ。

 ルーカスは、目の前で起きている神秘的な光景を、固唾をのんで見守っていた。

「ああ、そう。きみの『おうち』の名前は、『刹那の懐中時計』っていうんだね。素敵なお家だね。うん、わかった。ちゃんと元に戻してあげるからね。安心して、おやすみ」

 リネットがゆっくりと目を開けた。

 その瞬間、時計からふわりと、小さな蛍のような光の玉が一つ、浮かび上がった。光の玉は、ぽわん、と宙に浮くと、ルーカスの周りをゆっくりと一周する。

 途端に、ルーカスの身体を、先ほどとは全く逆の、温かい何かが満たしていく感覚が襲った。失われた身体のパーツが、パズルのピースがはまるように、急速に再構築されていく。まるで冷たいガラスの身体に、温かい血が再び巡り始めるような、生命の息吹そのものを感じていた。

「あ……!」

 ルーカスは自分の足元を見た。

 さっきまで透けていたはずの足が、もう向こう側の景色を映してはいない。確かな実体を持って、そこに存在している。呪いは、本当に、完全に解けたのだ。

 安堵のあまり、身体の力が抜けそうになる。

「本当に……本当に、ありがとうございます!」

 この人たちには、ちゃんと自分のことを話そう。彼はそう決意すると、椅子から降り、三人の前で深く、深く頭を下げた。

「申し遅れました。僕は、ルーカス・ファビウスと申します。この御恩は、決して忘れません」


 ファビウス、という名前が告げられた瞬間。

 ジェラールの穏やかだった目元が、ぴくりと微かに、しかし鋭く動いたのを。そして、カイの表情から一切の感情が消え、まるで氷のような無表情になり、その手が無意識に腰のナイフへと伸びかけたのを。

 目の前のリネットの笑顔に見とれていたルーカスは、全く気づいていなかった。


「ルーカスさんっていうんだね! よろしくね!」

 リネットは何も変わらない様子で、快活に笑った。

「それでね、ルーカスさん。一つだけ、お願いがあるの」

「お願い、ですか?」

「うん。このお店のこと……それから、さっきみたいに妖精憑きの暴走を止めたことね。誰にも言わないって、約束してほしいんだ」

 彼女の紫色の瞳が、真剣な光を宿してルーカスを射抜く。

 それは、ルーカスにとっても当然のことだった。もし父ギデオンが、この店の存在と、彼女たちの不思議な力を知ってしまえばどうなるか。考えただけでもぞっとする。父は、きっと彼女たちを自分の道具にするため、どんな卑劣な手も使うだろう。

「……もちろんです。絶対に誰にも言いません。約束します」

 彼が力強く頷くと、リネットは嬉しそうに微笑み、すっと自分の右手の小指を差し出した。

「じゃあ、約束ね!」

「え? あ……」

 子供じみた仕草に一瞬戸惑いながらも、ルーカスはおずおずと自分の小指を彼女のそれに絡めた。温かくて、小さな指だった。

 リネットは楽しそうに、歌うようなリズムで言葉を紡ぐ。

「指切り拳万げんまん、嘘ついたら、針千本飲ます――」

 そして、最後ににっこりと笑って、高らかに宣言した。

「『指切った』!」


 その瞬間、ルーカスは自分の小指に、まるで絹の糸がきつく一本、巻き付いたかのような、不思議な感覚を覚えた。

 それは痛みではなく、むしろ心地よい拘束感。小指から心臓へと繋がる、目には見えない温かい糸。決して破ることのできない、聖なる契約の証のようだった。


「さて、と」

 二人の様子を見ていたジェラールが、わざとらしく一つ咳払いをした。

「ルーカス君、呪いも解けたことだし、まずは一度、家に戻って様子を見るのが賢明だろう。君が長く姿を消していては、ご家族も心配なさるだろうから」

 その言葉は、気遣いのようにも、早く去ってほしいという催促のようにも聞こえた。

 だが、今のルーカスには、彼の真意を測る余裕はない。ただ、助けてもらった恩と、初めて結んだ温かい絆で、胸がいっぱいだった。

「はい……! 本当に、何から何までありがとうございました!」

 彼はもう一度、三人に深く頭を下げると、名残惜しい気持ちを振り切るようにして、店の扉へと向かった。

 カラン、とドアベルが鳴る。

 外の空気は相変わらず冷たいはずなのに、彼の心は不思議とぽかぽかしていた。

 生き延びたという圧倒的な安堵感と、彼らへの尽きせぬ感謝。そして、小指に残る不思議な感触と、彼らとの秘密の『約束』。

 様々な感情がない交ぜになったまま、ルーカスは一度だけ、温かい光が漏れる『木漏れ日亭』を振り返ると、再びあの灰色の家へと戻るのだった。

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