正義より彼女(愛)を選ぶ?――議員×弁護士の禁断愛
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第一部 光の素案、法の着手
第1話 光の素案と法の速報
(議員会館・法務部会室 / 深夜)
午前1時12分。
法務部会の蛍光灯は、眠らない。
澱んだ空気。安いコーヒーの焦げ付いた匂い。A3の資料が擦れる乾いた音だけが、断続的に響いている。
「——以上が、現行制度が抱える“歪み”の是正案です」
背後の高層窓が切り取る東京の夜景が、彼女の輪郭を白く縁取っている。その光は、室内の疲弊した空気とは不釣り合いに冷たく、そして強かった。
「……天羽委員」
法務部会長が、眼鏡の奥の目を細めて資料を睨む。
「君の言う“是正案”とは、要するに『婚姻平等法案』のことかね」
「言葉の定義は、皆様にお任せいたします」
麗奈は、完璧な微笑を顔に貼り付けていた。声はあくまで平坦だ。
「ふざけるな!」
野太いヤジが飛んだ。与党・大和民政党の長老議員の一人だ。
「伝統的家族観を破壊する気か!君の父上は、そんなことは……!」
「破壊ではありません」
麗奈は、ヤジを遮った。声の温度は変えない。
「時代の変化に合わせ、制度の“器”を広げるご提案です。現行法から溢れてしまう国民を、法の下に保護すること。それこそが保守本流の務めであると、父からも教わりましたが」
彼女の白いブラウスの胸元で、小さな天秤(てんぴん)のペンダントが、蛍光灯の光を鈍く反射した。
「多様性、多様性……またその言葉か」
別の議員が、疲れたように溜息をつく。
「その曖昧な言葉で、秩序が保てるのかね」
「仰る通りです」
麗奈は、即座に肯定した。
「ですから、その“多様性”という曖昧なものを、憲法第14条——法の下の平等という、具体的かつ強固な“光”で照らす必要がある。そうは思われませんか?」
空気が凍った。
“光”という言葉。彼女の政治信条の核(コア)だ。
麗奈の視線は、ヤジを飛ばす議員たちを通り越し、ただ一人、部屋の隅で沈黙を守る男に向けられていた。
党総務会のキングメーカー。父の代からの盟友であり、そして今、麗奈の最大の政敵である男。
鷲尾は、何も言わなかった。ただ、その分厚い瞼の奥から、値踏みするような視線で麗奈を見ている。
その視線に射抜かれながら、麗奈は演台の下、スマートフォンのバイブレーションが作動しないことだけを意識していた。
まだか。
指先が汗で冷たかった。
「……本日の議論はここまでとしたい」
部会長が、混乱を断ち切るように宣言した。
「天羽委員の素案は、党内に持ち帰り、改めて……」
その瞬間、複数の議員のスマートフォンが、一斉にブザー音を鳴らした。
速報アラート。
麗奈の端末も、ついに震えた。
演台の下で隠した画面。そこに表示された文字列を、彼女は視線だけで撫でる。
【速報】同性婚訴訟、東京地裁、「違憲判決」——
麗奈は、ゆっくりと顔を上げた。
鷲尾の視線と、真正面から交差する。
彼女は、再び完璧な微笑を浮かべた。政治家の顔のまま、目だけが、ほんのわずかに緩む。
その目の変化を見たのは、部屋の隅にいた鷲尾だけだった。
***
(東京地方裁判所・103号法廷 / 同時刻)
「——主文。原告らの請求をいずれも棄却する」
法廷は、水を打ったように静かだ。
原告席。隣に座る二人の女性——佐々木美緒と小野寺結衣が、息を詰める気配が伝わる。
冴は、ただ裁判長が次の言葉を紡ぐのを待っていた。
万年筆で書き込んだ法廷ノートのインクは、彼女が好む「朝の空(あしたのそら)」の色をしている。その青さが、今はひどく冷たく見えた。
裁判長が、判決理由を読み上げていく。
民法及び戸籍法の文言解釈。立法府の裁量権。長々と続く、既存の論理(アーキテクチャ)の再確認。
冴は、脳内でその論理の“階段”を一つずつ検算していた。14条(法の下の平等)。24条(婚姻の自由)。論理の破綻はないか。冴が提出した準備書面は、その階段のどこに“ひび割れ”を見つけたか。
「……しかしながら」
裁判長の語気が、わずかに変わった。
冴は、閉じていた目を開けた。
「現行民法の諸規定が、同性間の婚姻を許容していないことは、原告らにとって深刻な不利益を生じさせている実態が認められる。この状態を鑑みるに、同性間の婚姻という法的枠組みを一切提供しない現行法制は……」
裁判長は、一度息を吸い込んだ。
「——憲法第14条第1項に、違反する」
その瞬間、傍聴席の後方で、誰かが「あっ」と声を漏らした。
「違憲状態」ではない。「違憲」。
司法が、立法府の不作為を、明確に「憲法違反」と断じた瞬間だった。
隣で、美緒が口を押さえ、結衣の肩に崩れ落ちる。嗚咽が漏れる。
冴は、動かなかった。
ただ、裁判長の言葉の続きを待つ。
「……請求自体は、現行法上認められないため棄却するが、その前提となる法律が違憲である、とした判断である」
いわゆる「事情判決」の形式だ。勝訴であり、敗訴。
閉廷が宣言される。
法廷を出た瞬間、フラッシュの奔流が冴たちを襲った。
「桐谷先生!今の判決は、実質勝訴ですね!」
「歴史的な判断です!」
「先生……! 勝ちました……!」
美緒が、涙でぐしゃぐしゃの顔で冴の手を握る。
美緒は、冴の司法修習生時代の同期が扱っていた保護命令事件の被害者だった。その過去を知るからこそ、冴はこの裁判を引き受けた。
「はい。地裁では」
冴は、マイクの群れの前で、冷静に美緒の言葉を訂正した。声に感情は乗せない。
「ですが、これは第一審に過ぎません。国は必ず控訴します」
「でも、違憲は違憲ですよね?」
結衣が、不安そうに問いかける。
「判決の“事実”です」
冴は、二人の原告に向かって、あえてプロフェッショナルな言葉を選んだ。
「しかし、この“事実”が、あなたたちの戸籍を変える“法”になるまで、まだいくつもの“関門”があります。法務省。内閣法制局。そして国会。これは始まりです」
厳しすぎるほどの、現実。
だが、冴は知っている。ここで安易な希望を口にすることが、どれほど残酷な裏切りになるかを。
彼女のバッグの中で、マナーモードにしたスマートフォンが、一度だけ、短く震えた。
***
(都内タワーマンション・一室 / 深夜)
政治家・天羽麗奈の公用車が、無人のエントランスに滑り込む。
車内で、麗奈は最後の電話を終えようとしていた。相手はもちろん、先ほどの速報の主だ。
「……ええ、拝見しました、桐谷先生」
麗奈は、あえて「他人」の口調を維持する。運転手への配慮だ。
「素晴らしい判決です。司法の勇気に敬意を表します。法務部会の議論にも、間違いなく影響が出るでしょう」
『ありがとうございます、天羽先生。あくまで司法の判断ですが、立法府でのご議論を期待します』
「ええ。それでは、また」
通話を切る。
車を降り、専用エレベーターで最上階に近いフロアへ。
重いセキュリティドアを開ける。
暗い玄関。
「……ただいま」
その声は、部会で見せた張り詰めたものではなく、ひどく疲れていた。
「おかえり」
暗闇から、声がした。
リビングのドアが開き、光が漏れる。
そこに立っていたのは、数分前に電話で「桐谷先生」と呼んだ女——桐谷冴だった。
「……冴」
麗奈の声が、震えた。
「……麗奈」
次の瞬間、麗奈は冴の胸に顔を埋めていた。
政治家の鎧が、音を立てて剥がれ落ちる。
「おめでとう……!」
嗚咽が漏れた。
「本当に……よく、よく、勝ち取った……!」
「あなたこそ」
冴は、麗奈の背中を強く抱きしめ返した。法廷で見せた氷のような冷静さはない。
「あの場所で、あの“素案”を出すなんて。鷲尾がいたのに。無謀すぎる」
「無謀じゃない」
麗奈は、顔を上げた。涙で化粧が崩れている。
「地裁が動く日だと、信じてたから。光(政治)と法(司法)が、同じ日に動くべきだと思った。じゃないと、世論は動かない」
「あなたの立場が危うくなる」
冴が、麗奈の頬についた涙を指で拭う。その指先は、まだ法廷の緊張で冷たかった。
「“橋”を架けるには、両岸から始めないと」
麗奈は、冴の冷たい指を握りしめた。
「片方だけじゃ、永久に届かないでしょう?」
「……論理的ね」
冴は、ふ、と息を漏らした。
「でも、無謀よ」
「無謀なのは、どっち?」
麗奈は、やっと笑った。
二人は、夜景の“光”が差し込むリビングで、しばし互いの存在だけを確かめ合っていた。
麗奈の胸元で、二人の間に挟まれた「天秤」のペンダントが、冴の体温でようやく温かさを取り戻し始めていた。
公と私。
政治と法。
その二律背反の重さを、この部屋でだけ、二人は分かち合っている。
静寂。
その中で、麗奈の私用のスマートフォンが、テーブルの上で静かに光った。
公用の端末とは別の、プライベートな番号。
麗奈は、冴の腕の中からそっと離れ、画面を確認した。
冴も、その表情の変化に気づく。
「……どうしたの」
「……鷲尾先生から」
麗奈の顔から、さっきまでの「私」の血の気が引いていた。
メッセージは、二通。
一通目。
『明日、議員会館事務所へ。9時厳守』
そして、二通目。
『君の父は、そんなことは言わなかった』
夜明け前の東京の光は、まだ届かない。
部屋に差し込む人工の光が、麗奈の顔に、深い影を落としていた。
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