山堀師弟

五月皐月

山堀師弟

「師匠よ。僕は山あり谷あり人生の最大なる山を克服した。青空が遠くて色褪せて見える。酸酸素が甘みに欠けている。僕にはあの幸福を嗅ぐことすら、無情の極まりである時間が許さない。師匠よ。僕は最大なる頂点で死に損なった。これからどうすれば良いでしょうか。是非御指導乞」


「弟子よ。お前は知らんのか。谷を深く掘れば山もでかくなることを。是非淵迄掘給」


僕はかくして人生堕落計画を手に入れた。


なんと爽快な堕落ぶりであった。酒に溺れ女に溺れ男にも溺れた。財産の全てを娯楽に捧げた。それを遮る手を骨から切り落とした。職も家も妻さえも手放した。地に足がつかないほど頭から掘り暮れた。


鶴嘴が甲高い鳴きを上げて僕に知らした。ここがこの世の底だと。


見上げるとそこには青空とも曇り空ともつかない、一点の光だけが瞬いてた。あれが過去未来、太陽が離した日差しの一切をかき集めこの穴に注いだ、と思える位ここが暑苦しい。息するだけで汗が溢れてくる。生きた境地ではない。


とりあえず一年間二年間、あわよくば三年間四年間、耐えられないほど重くなった身体に休憩を与えたい。然し、金がなければ休みもないというのはこの世の理であって、やむを得ずバイト先を探すことにした。


学歴を燃やしたゆえ、やっと深夜のコンビニ店員という晴れる肩書を手に入れるにも数々の苦戦を乗り越えなければならなかった。並大抵の男には決して真似できなかろう真似であろう。それでいてこの仕事内容はお客様のケツを拭くに等しい。嘔吐物も拭かされる。屈辱です。


だからといって再び腥い戦場へ立たされても困るので、屈辱を笑顔で噛み殺そう。吐瀉物を拭かれて浮かれるお客様はせいぜい目に焼き付けるがいい。これから幸せの巨峰を支配する男を。


然しながら、これは良い穴である。掘った自分に脱帽せざるを得ない。手の付き場もなく一年後も二年後も底に佇み手を拱くほかない。


「師匠よ。僕は山あり谷あり人生の最低なる谷へ身を投げ出した。空が遠い。酸素が僕の肺を燃やすほど熱い。漂う悪臭が僕の嗅覚を貪り尽くした。師匠よ。僕は最大なる頂点で死に損ない、最低なる底辺に生きそびる羽目になりました。これからどうすれば良いでしょうか。是非御指導乞」


「弟子よ。お前は知らんのか。畢竟ひとりの人生は幻に過ぎぬことを。是非手温認給」


骨から切り落とした手に触れる途端、涙が流れ出る。暑苦しい中でも感じ取れる温かさ。それは頂点に吹く風のと同じ物であった。

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山堀師弟 五月皐月 @MAYMAYNYANYO

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