拙者未熟ものにつき性感帯開拓中でございます。

中泉注

第1話

恥の多い人生を送ってきた。

 いや、正確に言えば、恥を感じる暇もなく生きてきた、と言うべきかもしれない。朝の電車に揺られ、会社の蛍光灯の下で乾いた笑いを撒き散らし、夜になればエロ動画見て抜く。

 それが私の生活であり、誇れるものなど何ひとつなかった。

 私は、ただ“死ぬのを待つだけ”の人間だった。


 あの日、会社を辞める勇気もなく、上司に叱られた帰り道、私はふと空を見上げた。

 灰色の空。ビルの灯。どこにも星などなかった。

 そのとき、耳の奥に微かな声がしたのだ。

 「――コイツはきっと人間の劣等種だ。」。

 「――効果を観測するには”コレ”が丁度いい。」

 「――なんだこの粗末な生殖器は。。。」


 まるで、ラジオのチューニングが合うようなノイズの隙間から。


 気がつくと、私は白い部屋にいた。

 どこまでも均一な白。影がない。床も天井も、境界が曖昧で、自分の輪郭さえ溶けそうだった。

 私は叫んだ。いや、声を出したつもりだったが、喉が動かない。ムスコだけ動いた。

 代わりに、頭の中にまたあの声が響いた。

 ――「地球個体、観察対象番号001。生殖器大、乳首感度大、体力大。補修開始。」


 次の瞬間、体の中を何かが這いまわった。冷たい光が皮膚の下を流れ、筋肉の繊維をひとつずつなぞる。

 痛みはなかった。ただ、ひどくくすぐったかった。

 私は泣いた。恐怖でも痛みでもなく、理由のない涙だった。

 その涙さえ、どこかで分析され、数値に変えられていくような気がした。


 ――「人間、快楽感受性max。刺激受容域、拡張処理を施行。」

 私は何かを取り戻したのか、あるいは失ったのか。

 体の中を電流が駆け巡るたび、これまで感じたことのない感覚が芽吹いていった。風が頬を撫でるだけで、心臓が跳ねた。息を吸うだけで、海綿体に血が巡るのが分かった。

 それはまるで、世界のすべてが“敏感”になったような感覚だった。


 彼らは私を「修理」したと言った。

 だが私は、自分が壊されたことを知っていた。

 人間らしさというのは、鈍感さの中にこそあるのだ。痛みを感じすぎず、喜びにも過剰に反応しない、その曖昧な均衡こそが“日常”なのだと、今になってわかる。


 気がつくと、私は路地裏に立っていた。

 湿ったアスファルトの匂い。遠くで割れる笑い声。

 見上げれば、看板が幾重にも重なって、空を覆っていた。

 青でもなく、赤でもなく、どこか汚れた光。

 ――ネオンというものは、人間の夢が腐って発光したものなのかもしれない。


 私は裸だった。

 いや、正確に言えば、奇妙に白い服のようなものをまとっていたが、

 それが服と呼べるのかは分からなかった。

 歩くたび、肌が風に触れて震える。

 まるで生まれたばかりのように、すべてが異様に敏感だった。


 道の端に黒服の男たちが並んでいた。

 彼らの顔は暗く、光を吸い込んでいた。

 「兄さん、大丈夫?」と一人が声をかけてきた。

 私は何も答えられず、ただ笑った。

 笑わなければならない気がした。

 笑えば、ここが地球であることを信じられそうだったから。


 男は私を訝しげに見たあと、「こっちだ」とだけ言った。

 私はついていった。

 どこへ行くのか、考える余裕もなかった。

 光と影が入り混じる通り。

 看板には、意味の分からぬ言葉が踊っていた。

 「泡」「秘」「夢」――どれも現実を拒絶するための呪文のように見えた。


 女たちがいた。

 彼女たちは笑っていたが、その笑顔の奥に、何かがひりついていた。

 私はその笑い声を聞くだけで、胸が痛んだ。

 けれど同時に、不思議なほど安堵していた。

 あの冷たい実験台の上よりも、この街の熱気の方が、人間らしく思えた。


 黒服の男が言った。

 「お兄さん、可愛い子揃ってるよ」

 彼の声は、まるで私の求めているものをすべて見透かしているようだった。

 私は頷いた。頷くしかなかった。


 ふと、ガラス越しに自分の姿を見た。

 そこに映っていたのは、かつての“私”ではなかった。

 目の奥が妙に光っていた。

 それは、発情期の犬だった。


 世界はあの日から、ずっと音を立てている。

 街の光が私を舐め、空気が乳首を撫でる。

 私はもう、何も信じられなかった。


 店に入った――。

 けれど奇妙なことに、後悔はなかった。

 人間らしい痛みも、焦りも、どこか遠くに霞んでいた。代わりに、ただ圧倒的な“快楽”があった。

 呼吸一つ、心臓一拍ごとに、私の海綿体に血液が侵入してくる。

 私は思った――これが、性行為というものなのか?


 いや、違う。

 性行為という言葉は、もう私には遠すぎた。

 私はただ、感じることしかできなくなった生き物。

 それを「人間」と呼べるのかどうか、私にはわからない。


 夜、洗面台の鏡を見た。

 そこに映っていたのは、知らない顔だった。瞳はガラス玉のように濡れ、頬の筋肉は微かに震えていた。

 私は呟いた。

 「――私は、改造されたのだろうか」

 答えはなかった。


 窓の外に、星がひとつ瞬いていた。

 まるで私を監視するように、静かに、冷たく。

 その光を見て、私は笑った。

 泣きながら、笑ったのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る