『1904年のサイバーウォー ~陸自1佐、ノートPC一つで日露戦争の「神」になる~』

月神世一

EP 1

観測者(ウォッチャー)

202X年、東京・市ヶ谷。

陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地の一角、その地下深くに、日本の「見えざる最前線」は存在する。

JGSDF-CYBER――陸上自衛隊サイバー防衛隊総司令部。

巨大なメインスクリーンには、日本列島を覆うように、無数の光の線が明滅していた。その一本一本が、国家を狙う「兆候(シグナル)」だ。

「03(マルサン)より入電。北東セクター、DDoSの飽和攻撃予測値が閾値(いきち)を突破。パターン青より赤へ移行」

「迎撃(カウンター)2班、プロトコル・タナトスを起動。当該IP群を『井戸(ウェル)』へ誘導しろ。時間を稼ぐ」

静かな司令室に、坂上真一(さかがみ しんいち)、45歳の声だけが低く響く。

1等陸佐。JGSDF-CYBERの総司令官。

彼は、無数のモニターが並ぶ自身のデスクで、冷めかけた缶コーヒーを傾けた。硝煙も爆音も無い。だが、ここで起きている「戦闘」は、数分で国家の重要インフラを麻痺させうる。

「司令。例の『孔雀(ピーコック)』、3分前から活動を再開しました。送電網の制御システムに対し、バックドアを探っています」

「……しつこいな」

坂上は、コーヒーキャンディを一粒、口に放り込んだ。カリ、と硬質な音が響く。

彼はキーボードを数回叩き、部下たちが「悪魔のスクリプト」と呼ぶ自作の迎撃コードを起動させた。

「『鏡(ミラー)』で対応する。孔雀のハッキングをそのまま跳ね返し、奴らの発信元(サーバー)に叩きつけろ。火元がどこか、炙り出す」

その冷徹な指示は、まるでチェスの駒を動かすように正確無比だった。

広島出身の彼にとって、この「情報戦」は、祖父が経験した「物理的な戦争」とは似ても似つかない。だが、国を守るという本質は同じだと信じていた。

午前11時50分。

波のように押し寄せたサイバー攻撃の第一波が、ようやく凪いだ。スクリーン上の赤いランプが、次々と緑に変わっていく。

「……昼だ。各員、交代で休憩に入れ。敵も飯を食うだろう」

坂上は席を立った。彼自身、昨夜からほとんど寝ていない。

廊下に出た彼は、自室ではなく、司令部の片隅にある「準備室」へ向かった。

部屋の隅には、彼の私物である大型のバックパックが鎮座していた。

来週に控えた、北海道での寒冷地演習用の装備一式だ。

「野戦環境下におけるサイバー戦域の構築」——それが演習のテーマだった。

中には、MIL規格(軍用基準)の堅牢な戦術級ノートPC。手のひらサイズの広帯域SDR(ソフトウェア無線機)。そして、それらを動かすための携帯型ソーラーパネルと、大容量リチウムイオンバッテリーが詰め込まれている。

「……こいつも、本番じゃなければただのガラクタだが」

皮肉な独り言を漏らしながら、坂上はレーション(戦闘糧食)のヒーターを起動した。温かいとは言えない昼食を胃に流し込む。

準備室の隅にある仮眠用ベッドに、演習装備のバックパックを枕代わりにして横になった。

アラームを30分後にセットする。

コーヒーキャンディの甘い香りが口に広がる中、坂上の意識は急速に暗転した。

――ピ、ピ、ピ、ピ…

電子音ではない。

もっと、甲高い、何かを削るような音。

そして、寒い。

司令室の一定に管理された空調ではない。肌を突き刺し、肺を凍らせるような、絶対的な「寒気」。

坂上真一は、目を見開いた。

そこは、仮眠室ではなかった。

「……どこだ?」

息が白い。

見渡す限り、雪と枯れ木に覆われた、灰色の荒野が広がっていた。空は鉛色に重く垂れ込めている。

木造の仮眠ベッドも、司令室のモニターも無い。

だが、奇妙なことに、彼は「万全の状態」だった。

陸自の最新型冬季迷彩服と防寒装備を身につけ、枕元にあったはずの演習用バックパックを、完全に背負っている。

「……演習? いや、北海道の演習場(レンジ)じゃない」

誘拐か。テロか。それにしては、装備一式をわざわざ身につけさせる意味が分からない。

混乱する思考を、坂上は強制的に冷却する。

彼は、まず「情報」を求めた。

バックパックのサイドポケットから、最も信頼する「耳」を取り出す。

手のひらサイズの黒い箱――広帯域SDR(ソフトウェア無線機)。

スイッチを入れ、イヤホンを耳に装着する。

彼が日常的に聞いているノイズとは、全く異質だった。

いつもなら耳を劈(つんざ)くはずの、4Gや5Gの制御信号が「無い」。

無数の人々が放つWi-Fiのビープ音が「無い」。

テレビも、ラジオ放送も、何も「無い」。

あるのは、空電(くうでん)のノイズだけ。

まるで、文明が死滅した世界のような、静寂。

「……いや」

坂上は、SDRの周波数ダイヤルを回した。

ノイズの海の中、ごく低い周波数帯(LF)で、微かな信号を捉えた。

ザー……ト、ツー、トツ、ツー……ザー……ツツツー、ト、ツー…

「……モールス信号?」

原始的すぎる。自衛隊の演習でも、今どきこんな古典的な通信は使わない。

彼は慌ててダイヤルを回す。別の周波数。また、モールス。さらに別の周波数。まただ。

この荒野は、文明の音こそしないが、無数の「原始的な電波」で満ち溢れていた。

坂上は、雪の上に膝をつき、背中のバックパックから戦術級ノートPC(MIL規格)を取り出した。

極寒の中でも起動するタフネスだけが取り柄の機械だ。

起動。

まず確認したGPSは「衛星信号ナシ」と表示された。

PCの内部時計が、ありえない日付を指している。

『1904 / 02 / 20』

「……GPSが死んでる。時計もリセットされたか」

彼はSDRをノートPCに接続した。

イヤホンに流れていた原始的な信号が、PCの解析ソフトによって視覚化されていく。

傍受。解析。翻訳。

数分後、坂上は画面に表示された結果を見て、絶句した。

『……コサック騎兵(カザーキ)……側面(フランク)……明朝(ウートロ)……』

『……クロパトキン将軍(ゲネラール)……』

それは、キリル文字――ロシア語だった。

坂上は、PCにプリインストールされていた演習用の「オフライン・ワールドマップ」と、電波の発信源(推定)を照合する。

「……奉天(ほうてん)近郊? 満州…だと?」

1904年。満州。ロシア語のモールス信号。

坂上真一は、自分が理解している情報が導き出す「唯一の答え」に、血の気が引くのを感じた。

「日露……戦争?」

ノイズの海から聞こえてくるのは、21世紀のサイバー防衛隊司令官が知る由もない、100年以上前の「戦争のシグナル」だった。

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