水底の詩 優しい遺書
入江 怜悧
水底の詩 優しい遺書 1
愛とは死の恋人である。
最も優しい死が愛であり、愛の最たるものが死だ。
「愛とは死の恋人である。」
十七歳だった僕が初めて賞を獲った短編小説の一節である。文章にはこう続く。
「最も優しい死が愛であり、愛の最たるものが死だ。故に愛の果てに死することを、私は最愛と呼ぶ。」
希死念慮が強かったわけでもなければ、身を滅ぼすような激しい恋に溺れてもいなかった。自身の中にある愛に対する考え方が男子高校生にしては曲がっていて、それを多少なりとも誇らしく思っていただけに過ぎない。出版社が開催した十代向けの短編小説の賞。僕は僕の作品に見合うような愛を知らないまま、あの受賞作を超えられずにいる。あの愛を超えられずにいる。
ごう、とドラム式の洗濯機が稼働している。智恵は水の音を立てながらぐるぐると回る透明の窓を眺めるのが好きだった。三人暮らしのマンションの一室では、仕事が休みの智恵だけが家事に勤しんでいる。八時前に家を出た二人の為に、洗濯をし、共用部の簡単な掃除をし、駅の近くのスーパーへ買い物に行く。丸一日在宅しているので夕飯の用意も智恵の役割だ。
今朝のことだ。智恵は家主が廊下を歩く足音で目を覚ました。居候の身である智恵の自室は、はめ殺しの小窓がある納戸に布団と机を持ち込んだだけの簡素なもの。枕元に置いた眼鏡を手探りで見つけ、レンズに触れないよう気を付けながらかけてみても、明瞭になるのは視界だけだった。小窓から差し込む陽の光が、室内に漂う埃をきらきらと輝かせている。その様をぼうっと眺めていたが、足音が玄関へ向かったことにハッとして、やっとのことで体を起こした。
「あ、智ちゃん。おはよう。」
ガラガラと引き戸を開けて廊下に顔を覗かせると、玄関ドアの前で姿見に全身を写している女性が横目に智恵を見た。
「おはようございます。」
十月に相応しい落ち着いたキャメルのコートに、肩までの茶色い髪、白い頬に少しだけ黒子がある。綺麗な女の人だと、智恵は思っていた。
「今日、私遅くなるから夜ご飯は雨響と二人で食べててね。私は外で済ませて来ちゃうから用意大丈夫だよ。」
雨響、鏡に顔を近付けてピアスの角度を調整している彼女の弟で、智恵の大学からの友人だ。姉である彼女は晴佳という。智恵はこの柴田姉弟と共に同じ家で暮らしているのだ。仲の良い姉弟の共同生活に、なぜ血縁関係のない僕が混ざって暮らしているのか。お互いの、この場合は僕と雨響の二人にとってそれが最適ということになったから。自分でも上手く説明出来る自信がない。
「わかりました。帰り気を付けて。行ってらっしゃい。」
「鍵閉めてくれるの?ありがとう。いってきます。」
タウン向きのスニーカーを履いて、晴佳は職場へ出発した。施錠を確認し、智恵はリビング向かう。朝食の前に洗濯を済ませよう。量が少なそうなら自分の枕カバーも洗いたい。智恵はリビングに入ってすぐ、風呂場を目指した。脱衣所の洗濯かごには三人分の衣類が積まれている。枕カバーは明日にしよう。晴佳さんはいつも下着類を専用のネットに入れてくれる。雨響はたまに靴下が裏返しになっている。僕は外行きの服が数パターンしかないから、いつも同じようなものを洗う気がする。智恵は丸まった靴下を戻してから洗濯槽へ放った。スイッチを入れてボタンを操作し回り始めた洗濯物を無心で見つめる現在に繋がる。ちがう、お腹空いてるんだった。とうとう床に腰まで下ろしてしまった自分を叱るように、ぱちんと腿を叩いた。脱衣所を出てすぐのキッチンに立ったが、一人で食べる朝食に手間暇をかける質ではないので、食器棚からスープカップを取り出すと、そこへインスタントのオニオンスープの粉末を開けた。湯をケトルで沸かしながら、袋からロールパンを二つ出してトースターへ入れる。電気の力とメーカーの技術で即席の朝食が完成した。焼けたパンを乗せる平皿を探そうとしてやめた。洗い物を増やしたくなくて、正式には自分の家ではないのにキッチンで立ったまま食べることにした。罪滅ぼしにいつもより丁寧に手を合わせて食べ始める。レーズンの入った少し甘いパン。表記に従って湯で溶いても味の濃いスープ。どちらも姉弟が好んで買っている。わずかながらの生活費を納めていても、住まわせてもらっている立場に変わりはないので、智恵はなるべく家事全般を担うようにしていた。飲み干したカップだけすぐに洗い、テレビをつけながら部屋の掃除を始める。
『ーー市の動物園で二頭の熊の赤ちゃんが、ーー』
『事故の影響で約十キロの渋滞が発生しています。』
『見つかった遺体は自殺の可能性が高いと見られーー』
テーブルを拭いてお昼前に掃除が終わった。聞き流していたニュースについて、これといった感情も浮かばず、智恵はただこの部屋の外の世界の広さなんかをぼんやり考えるのだった。そして最後には友人であり同居人の雨響の顔を思い出していた。姉である晴佳さんとは、笑ったときや黒子のある頬に血の繋がりを感じる。智恵が雨響の顔をふと浮かべるとき、いつだって彼は笑顔の途中みたいな表情をしている。目尻の垂れた優しい目つきは、猫のように大きく丸い智恵のそれとは全く異なり、薄い唇も、痩せた輪郭もまるで正反対だ。程よい疲労感からソファに身を委ねる。細面の雨響の横顔を、僕はもう何年も見ていた。
図書館の大きな窓はいつだって空を映していた。志望していた国公立の大学に無事入学した智恵は、秋頃から学内の図書館に通うようになった。極端に友人がいなかった高校時代とは変わって、文学部の学友たちとはすぐに仲良くなれた。それでもずっと続けている執筆活動に集中したいときには、こうして一人、静かな本の谷を訪れている。有名な建築デザイナーが手がけた二階建ての図書館は、いつもあまり賑わっていない。二階のフリースペースは天井まで届く大きな窓の前にあるというのに、いつだって独り占め状態だ。智恵はその左端の席を占有していつも小説を書いていた。十七で文芸誌に載ったあの作品を超えなくてはいけないのに、広げたノートに並ぶたくさんの文字は、どれも未だに文字のままだった。
窓の外の木々が葉を落としきった頃、智恵の特等席に二人目の常連が現れるようになった。その日、智恵は授業中に思い浮かんだフレーズを忘れないように図書館へ急いでいた。いつも座っている席に見知らぬ男が腰をかけていた。丸テーブルの上にノートパソコンを開いて液晶をじっと見つめている男は、細い背をこれでもかと小さく丸めている。智恵はいつもの席を横取りされたように思い、気を悪くした。それでも名前を書いた札でも置いて予約していたわけでもなければ、席は横並びでまだまだいくつも空いている。わざわざ集中している男に声をかけて退いてもらう必要も、そんなことを言い出す勇気もない。智恵は溜め息を飲み込んで、猫背の男から一番離れた席に腰を下ろした。通学用のリュックの中からノートを出そうと物音を立てたことで、直線上にいた男が画面から顔を上げた。智恵と目を合わせると、人が来たことに気が付かなかったようで、眉を上げ驚きの表情になり、すぐに少しだけ頭を下げた。知り合いでも何でもなかったが、つられて智恵も顎を引く。男は自分の作業に戻り、智恵もノートに向き直った。しかし頭の中からあの文章はすっかり消えてしまい、何度思い出そうとしても、先客の男の存在が邪魔をしてくるのだった。初対面で自分の傑作を阻害してきた男、と自分勝手な認識をしていた見知らぬ彼は、その後も同じ席でパソコンを操作するようになった。智恵も毎日赴いてはいないので、男がどのくらいの頻度で図書館を利用しているかは分かりかねるが、月に二度以上は同じ二階で顔を合わせる。顔を合わせるからといって、お名前は?なんて声をかけるような性格ではない。二人は授業が無くなった冬休みでもお互いのことを何も知らないまま、窓の前で各々の時間を過ごしていた。学科も学年もわからないけれど、階段を上りきって男の丸い背が見えず、窓の外の見晴らしが良い日は、少しだけ寂しいような気持ちになった。
『夕飯何がいい』
智恵はソファに深く腰かけ、だらしない体勢でスマートフォンを操作する。チャットアプリの宛先は仕事中の雨響。ちょうど昼休みではないかと狙って送った。姉弟は食べること自体は好きだが、良くも悪くもこだわりが無い。そして智恵に至っては食そのものに対して興味が無い。三人共献立を考えるという日常の行動が苦手なのだ。付き合いの長い智恵は、雨響に夕飯の希望をきいたってど真ん中の返答があるなんてはなから思ってもいない。ただ自分だけで悩みたくなかった。
『作ってくれてありがとうね。今日晴佳ちゃんいないから辛い料理とかどう?』
『俺が作るんじゃないし、智恵が楽なのでいいんだけど……』
思った通り、すぐに返信が来た。変換ですぐには出て来ない自分の名前の漢字が間違っていない。本当に瑣末なこと、今に始まったことではないのに、少し嬉しくなる。馬鹿らしい。智恵は自身に苛立ちを向けた。もう一度送られてきた返事を読み返す。返信の速さは想定していたが、思っていたよりはっきりしたリクエストに感心した。晴佳が辛い物が苦手なので三人で食卓を囲むときは、皿の上に唐辛子の赤色は無かった。智恵の頭の中にある今までの料理記録を捲っていく。もうそろそろ寒くなってくるだろうし、不器用な智恵でも失敗し難い鍋に決めた。出かける準備を始めようと体を起こしたところで、再度左手の中が震えた。
『買い物行く?無理じゃなければいつものパン屋さん寄ってほしい!』
ぎゅう、と智恵の眉間に皺が寄った。雨響がどんなつもりでおつかいを依頼してきたのかが本人のみぞ知るのだが、智恵の頭は重たくなる。雨響は僕が暇を持て余していると察して外出させようと、夕飯も買い出しが必須のメニューを提案してくれたのではないか。用があってもインドアを極めて外へ出たがらない自分を気遣って、パン屋まで話題に出してきたのではないか。提案はあれど、最終的に鍋に決めたのは自分以外の誰でもないのに、そんなことを考え出したら戻って来られなくなってしまった。雨響は優しいからきっとそうだ。
『もろもろ了解』
震えそうな指でなんとか文字を入力すると、何度も押し間違いをしながら返事を送った。深く息を吐いて今し方起き上がろうとした体を再びソファへ沈める。雨響は優しい。智恵は雨響と出会ってから、彼が怒っている姿を一度も見たことがないし、文句や愚痴を溢すのも聞いたことがなかった。仕方ないとか、大丈夫とか、そんなことばかり言って笑っている。僕は雨響のそんな言葉が大嫌いで、大好きだ。
「あぁ……消えたいな……。」
そんなこと言わないの、と困ったように笑って僕の発言を嗜める雨響はここにいない。無性に会いたくなって、会えるはずもなくて、またも深い深い溜め息をついた。僕は常に死んでしまいたいと願っていて、いつも雨響のことを考えていて、ずっと彼を愛している。雨響に対する自分の気持ちが心を巡るとき、いつでも暗く落ち込んでしまうので意図的に切り替えなくてはいけない。
昼飯時だったが、先に買い物に行こう。智恵はソファから立ち上がり、自室で寝巻きから着替える。ファッションに疎く、疎いことで困ってもいないので、智恵はいつも似たり寄ったりで同じような色彩の服ばかり着ていた。今日も長年履いているベージュのチノパンに紺色のカットソー、上に同じ紺の長袖シャツを羽織って、これがコーディネートの正解ではないとわかっていながら、不正解でも構わないのでそのまま外へ出た。
単身向け、ファミリー向けの部屋が混在するマンションは駅から十分くらいの立地で、歩けばすぐにスーパーや専門店の並ぶ商店街がある。自分も買い物客の一人に過ぎないのに、二十代半ばの男が一人でスーパーに来ている光景が人の目にどう映っているのか、余計なことを考えてしまい、チゲ鍋の材料を揃えてすぐに店を後にした。いつもこうだ。友達が少ないことも、大学を卒業した今でも執筆活動を続けていることも、服のセンスがイマイチでも、智恵本人は気にしていなかった。否、気にしていない、を装っていた。誰に何と思われても良いが、何と思っているのかは気にかけてしまう。一言で片付けるならば厄介な性格をしている。親子や老人の視線を過度に意識しながら智恵は二つ目の目的地へ足を運んだ。商店街の中にある小じんまりとしたパン屋の重たいドアを開ける。入る前から香ばしい匂いがした。今朝食べたロールパンはいつもここで購入している。姉弟も智恵も通っているパン屋だ。顔馴染みの店員も程よい距離を保ってくれるので過度な接触もなくて良い。智恵はいつものロールパンをレーズンとクルミの二種類かごに入れ、晴佳にデニッシュ、雨響にチョココロネを選んだ。自分の昼食用に何か買おうと迷って結局分厚い卵のサンドイッチとチョココロネを追加して会計を済ませた。店を後にして帰路に着く。慣れた帰り道には見知った野良猫が数匹、暇を持て余して寝そべっている。濃い茶色に金色っぽい毛が混じった大柄な猫。真っ黒で艶々な猫。ぼさぼさの白い猫。昼過ぎの少ない影の中に、その肉を横たえて気まぐれに尻尾を揺らす様子をついつい立ち止まって見てしまう。どこかで赤子が泣いている。踏切のけたたましさや、商店街のざわめきや、自分の左手から下がるビニール袋が立てる音が、僕を生活の中に閉じ込めている。早く死んでしまいたいのに、どうして僕は夕飯の材料なんて買っているのだろう。二人で頬張るパンの甘さを想像して浮き足だっているのだろう。生きていたいのに死にたいふりをしているんじゃない。お前の最愛になりたいのにそうはいかない世界だから、死んでもいいと決めつけているのだ。お前を愛しているから、死んでしまいたい。
「ただいま。」
誰もいない部屋の中に向けて帰宅を告げる。履き潰したスニーカーも買い替え時がわからない。生活に必要な外出しかしないのに、靴に頓着したって仕方がない。智恵の良くないところだった。洗面所にて手洗いを済ませ、買ってきた物をそれぞれしまった。インスタントのコーヒーを淹れて、テーブルの上にサンドイッチを置く。朝食もパンだったが、智恵からすれば三食同じ物でも構わないのだから、パンの種類が違うだけで全く別物だ。
「いただきます。」
一人のときでも忘れずに口に出す。誰かに褒められたいだとか、もちろんそんな下心は無い。智恵の育ちと性格がそうさせている。さすがに味の感想までは声に出さず、心の中でマスタードのアクセントに舌鼓を打っていた。気分が落ち込んでいてもサンドイッチは完食出来た。本当に深刻な悩みや苦しみと対峙しているとき、何も喉を通らなくなることはあるが、人一倍自問自答を繰り返す、所謂‘面倒臭い’性格の智恵にとっては、帰り道の杞憂などもう取り立てる程のことではない。もちろんごちそうさまも言って少し遅めの昼食を終えた。温くなったコーヒー片手に洗濯機の様子を見に行くが、乾燥の途中だった。あと十分ちょっと。自室には戻らず、リビングのテレビをつけてワイドショーを見る。見る、と言うより他に適当な時間の使い方が思い付かなかっただけの、無音を脱するだけの行為。海外で問題視される異常気象について取り上げられている。ニュースだろうが、交通情報だろうが、タレントによるロケだろうが、なんだってよかった。流行りのグルメを知ったところで食べに行かない。穴場のデートスポットを知ったところで行く相手もいない。いないけど、横文字のスイーツを覚えるより、工場夜景が見られる港の公園の方が少しだけ知りたい。誰と行くんだよ。恋人なんて高校時代のあの子以来いないし、そもそも工場夜景なんて興味無いだろ、僕は。
ーーー「すっごい綺麗なんだって。」
仕事で話題が出たらしい。雨響がいつか話していた。いやいや、だからなんなんだ。
ーーー「資料写真で見せてもらったんだけどさ、俺こういう夜プラス人工光の景色って、写真が一番キレイで肉眼だと期待した分感動はそこまでなんじゃないかと思うんだよね。」
やめた。雨響はそういう男だった。そして僕はそういう雨響が好きで、デートスポット特集を待ってしまうような無様な男だった。恋煩いにしては苦しげな溜め息は半ばで洗濯機の呼び出し音にかき消された。しっかり乾いた洗濯物を抱きかかえる。ソファへ下ろして両腕に残った温もりが犬を抱いた後みたいだと思った。抱き上げたことは無いが。共用のタオルから畳み、それぞれの衣類を分けていく。小柄な僕と、すらりと脚の長い雨響の服のサイズは一目で区別出来る。仕事の繁忙期で不摂生な食生活をしていても体型がほとんど変わらない雨響はずっと細身で肩幅も狭く、シンプルな服装がとても良く似合った。太っているわけではないが、食べれば食べるだけ肉付きが良くなる丸顔の自分とは真逆だ。あいつは昔から……と嫉みの感情が顔を覗かせながら智恵は黙々と服を片付けていく。晴佳の衣類はハンガーに掛けるブラウス類が多く、まとめて脱衣所の中のラックに掛けた。雨響の服はソファの端へ。帰宅したらそれぞれが自室に持ち帰る。智恵は自分の衣類を持って部屋へ戻った。衣装ケースを二段重ねてタンスと呼んでいる、そこへしまう。夕食の準備はまだ先でいいだろう。鍋だから手間も多くない。壁に向かって置かれた一人用の小さな机。椅子の背もたれを引いて腰を下ろす。机上に放ったままの大学ノートをパラパラと捲った。書かなくては。続きを。明日出勤したら進捗を少しでも見せないと。智恵は小説家を目指している。高校生で獲ってしまった賞が、智恵自身をこの世界への憧れから離してくれない。大学時代も短編・中編の小説を書いては賞に応募したり、サイト上に上げたりしていた。智恵が受賞者であると知った出版社が目をかけてくれ、今は編集者の雑務を手伝いながら、自筆の小説を読んでもらう生活をしている。たまに良い物が書き上げられると文芸誌の片隅に載せてもらえるのだが、そのコーナーも一般公募枠なので、そこから爆発的に人気作家へと駆け上がることなど無いに等しい。バイト程度でも仕事を与えてくれ、執筆の面倒まで見てくれる出版社には恩しかないが、自分はこのまま、書く側ではなく書いてもらう側になっていくのではないかと、進まないペン先を見つめながら思うのだった。今書いているのは、引きこもりの男が住むマンションの別室で殺人事件がおきるが、事件は警察と探偵の力で解決し、引きこもりの男は毎日がただ過ぎて行くだけ、という刑事物でもミステリーでもない、平熱のような、ぬるま湯のような短編小説だ。編集からはテーマが面白いから上手に書けたら企画されている若手作家特集の増刊号に載せようかと言われている。チャンスだということは重々承知している。それでも全然、全く、これっぽっちも筆が進まないのだ。この話は込み入った殺害動機も複雑なトリックも考えなくて良い。メインはあくまで引きこもりの男の生活だ。それでも、その日常が書けない。書いては消し、消しては綴り、頭を掻き、鉛筆を握り、小窓の外へ視線を投げ、ノートの罫線を見つめ、目を閉じて、
「ただいま。」
慌てて目を開けた。畳んだ布団の脇に置いた目覚まし時計を急いで確認すれば、もう十八時になろうとしていた。玄関から聞こえてくる声に返事も出来ないまま、智恵は引き戸を勢い良く開けて廊下へ出た。
「……ただいま。」
智恵の慌てぶりに雨響は困ったような笑顔を浮かべている。優しく垂れた雨響の目元とは対照的に、智恵の猫目はより猫のように見開かれて、四つの瞳がばっちり合ったまま、二人して次の言葉を待っていた。
「あ、お、おかえり。」
それ以外の言葉が選ばれることはなかっただろうと、雨響も、ふは、と息を吐くついでに笑った。
「ごめん、夕飯の準備何も出来てなくて。今お前が帰ってきて、時計見てびっくりして。えっと、でも鍋だからそんなにかからないし、いやごめん。」
「ごめんで始まってごめんで終わってたよ。」
スーツの上着を脱ぎながら智恵の横を通り過ぎていく。
「仕事、集中できてたなら俺も嬉しいよ。夜ご飯は一緒に作ろう。」
夕飯が遅れたところで雨響が怒ったり不機嫌になるなんて思っていなかったが、あまりにも優しい声色に呆れてしまった。僕がお前に対して砂糖菓子みたいな声で甘やかすならわかるが、いや、しないけれども、お前が僕に必要以上に優しいのは理に適っていない。お前は僕のことなんて好きじゃないんだろ。
「手洗って着替えてくるね。これ、冷やしておいてくれる?」
呆けている智恵にビニール袋を手渡して、雨響はリビングのドアを開けてその奥にある自室へ消えた。ビニール袋の中には缶ビールが二本。智恵はそこそこ酒が強いが、飲みたくなる日がほとんど無いので普段は飲まない。雨響は大学時代から飲み会に顔を出し、飲酒と言うより誰かと飲むのが好きだった。今日は久しぶりに二人だけでの夕食なのでコンビニで買ってきたようだ。智恵は二人分の缶を大事に冷蔵庫にしまった。
「あっ!チョココロネじゃん!」
スーツから部屋着のスウェットに着替えた雨響が部屋から出てきた。手を洗うついでにコンタクトも外したようで、智恵には見慣れた眼鏡姿に戻っている。大学の頃は眼鏡で、前髪ももっと無造作に長く、今みたいに誰が見てもそれなりにかっこいいと言われるような見た目じゃなかった。いや、昔から外見に気を遣っていたから、眼鏡だって細いシルバーリムで、服装によっては黒縁の物と掛け替えていたし、髪型も現在が似合い過ぎているだけで当時もちゃんと美容室で整えていた。年々万人受けする容姿になっていく雨響を面白くないと思っている僕にとって、眼鏡姿の彼は見ていて安心する。
「デザートにしては重いか。腹に余裕があったら食後にどうかな。僕の分もある。」
「甘い物は別腹って言うし。」
親指を立てて見せてくる。同意のサインで智恵も雨響を真似た。
二人で立っても余裕のあるキッチンに包丁で野菜を切る音と話し声が満ちて、智恵はじわじわと幸せを噛み締めていた。
「チゲ鍋にカニカマって良いよね。智恵に教えてもらうまで知らなかった。」
「僕も晴佳さんに聞くまでは、粉の唐辛子が袋売りされてるなんて思いもしなかった。」
智恵も雨響も一人暮らしをしたことがない。智恵はずっと実家から学校に通い、卒業と共に今の居候生活になった。雨響も大学入学を機に地方から上京して晴佳と暮らしている。自炊の腕前は人様に自慢出来る程ではないが、生きていくのに困らない程度にはこなせている。そんな二人が肩を寄せ合って作る夕食が完成に近付いていく。二人して鍋を覗き込んでは、湯気で眼鏡のレンズを曇らせて笑った。幸せだ、と声に出してしまいそうになった。僕にとっては幸福のままごとをしているだけに過ぎない。両手に僕たちそっくりの樹脂人形を持って、紙に書かれた間取りの上でごっこ遊びをしている。すべて僕の中の理想を現実にまで染み込ませて、雨響の笑顔を都合良く見つめているだけ。
「智恵?もう火止めていい?」
雨響の声と、一際大きく響いた鍋の煮える音で陰鬱とした内省から引き戻された。
「大丈夫?仕事、結構佳境なの?」
「いや、なんでもない。仕事のこと考えてたけど大したことじゃない。腹へったから早く食べよう。」
「無理だけはしないでほしい。」
自分が悪魔のような類なら、困った顔で心配してくれる雨響の存在だけで、灰となって消えてしまうだろう。これでもかと優しさの光で焼いてくる雨響に背を向けて、智恵は取り皿の用意を始めた。
「白菜、ちょっとアレだな。」
「うん。言いたいことわかる。」
「まだ旬じゃないって味。わかる?」
「はは、すげーわかるよ。さすが智恵、言語化が上手い。」
「ニラは美味いな。特売で安かった。」
「安くて美味しいニラを買える智恵、買い物も上手い。」
楽しそうに笑う雨響の笑い声が、湯気の向こうでハープの音色のように鳴っている。くたくたに煮たのに渋みばかりで甘味の無い白菜も、噛めば独特の風味が強く染み出すニラも、智恵が勧めた偽物のカニ身も、何も豪華な品じゃないけれど、ただただ美味しかった。何を食べるかじゃない、誰と食べるかだ、なんてネット上の名言に頷いてしまう。智恵の心の中には片思いの苦さと、目の前で柔和な微笑みを浮かべる男に対する恋の甘さが同居していた。死にたいなんて口だけじゃないか。違う。恋が叶わないから一方的な愛が苦しくて、忍びなくて、死を望んでいるんじゃない。死でしか彼の一番になれない気がしている。これが本心なのだと、智恵は瞼の裏の暗さをもっともっと濃くしたような闇の色を瞳の中に隠していた。
水底の詩 優しい遺書 入江 怜悧 @reiri00
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。水底の詩 優しい遺書の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます