第10話 恋しくて恋しくて

 なんだか最近、横道さんが帰ってしまうことが前よりも名残惜しくなってきている。


 気づくと私はさっきまで横道さんが横になって漫画を読んでいたベッドにうつぶせに寝転がっていた。

 私の枕には、まだ横道さんが使っているシャンプーのいい匂いが残っている気がして、まるで抱きしめてもらっているみたいで少し安心する。


 パァン! と乾いた音がした。自分の手から。そして、頬から。


 ジンジンとした痛みに右目から少し涙を流しつつ、私はベッドを降りた。


「私は変態じゃない私は変態じゃない私は変態じゃない私は変態じゃない」


 痛みを与えて、うわごとのようにつぶやいてみても、心に感じた温もりは徐々にしか離れていかなかった。

 自分が横道さんに触れるたび、横道さんから触れられるたび、おかしくなっているんじゃないかと恐ろしく感じる時がある。


 今だってそうだ。


 残り香から隣にいることを妄想して安心していた。

 それでも、いない寂しさは本当で、本物の温もりには敵わない。


「私は、変態じゃない、はずなのに……」


 顔から伝わってくる痛みだけでは私の頭を正気に戻すことはできなかった。

 二の腕をさすりながら、今日触れられた箇所を思い出し、触れられた強さを思い返して、その時の表情が脳裏に映る。鮮明だ。最近は頭を撫でられるだけじゃなくって、よく抱きつかれるようになった。腕が回されて、背中に私にはない柔らかさを感じながら、ぽかぽかと全身を温めてもらっている。まだやっぱり照れや恥じらいはあるけれど、横道さんは慣れたように触れてくれて、穏やかな笑みを投げかけてくれる。


 こんなふうに、いなくなってしばらくは横道さんの姿を探して、いつでも横道さんのいた証をなぞっている。

 脳のほとんどの領域を横道さんが支配している。思考は止めようとするほど大きくなって、数を重ねるほど増してきた。そして、ふっと、台風の日、空っぽの思い出に突き当たって、私は夢から覚めるのだ。


「彼氏は居なくっても、友だちはいるんだろうな」


 体育座りの姿勢で、膝を抱くようにしながらあごを乗せる。


 そりゃ当然、当たり前の話だろう。あの横道さんに友だちがいないわけがない。

 ただ、あの日見た景色にいる男の子が女の子に戻っただけだった。


 私にとって、横道さんは唯一と言っていい友だちで、特別な存在だ。だけど、横道さんにとって、きっと私は数いる友だちの中のたった1人でしかなくて、特別な存在なんかじゃない。プリントを届けるのだって、業務。学級委員としての仕事。そうでなくても、家に来るのも珍しくはないはず。小学生だったかつての私でさえ、友だちの家は遊び場の一つでしかなかった。


「今じゃ、考えられないけれど、人を招いたことだってあったし……、本当、当時の自分はどうしてそんな大それたことができたんだろう」


 今じゃ考えられないし、発想の仕方もまるでわからなくなっているけれど、やっぱり事実。

 こんな一例が特例じゃないことを思えば、私が特別じゃないのは明らか。火なんか見た日には全身焼失するくらい。


「ははっ、笑えないな」


 泣きそうだった。いや、もう泣いているのか。

 先ほどとは反対の目から流れ出た雫が頬を伝って膝に触れた。


 横道さんが来るまでの半年ほど、私は家に1人でいても寂しいと思ったことはなかった。むしろ、1人でいることを当たり前だと感じていて、どうして学校に行っている人たちは他人と一緒に過ごしているのか不思議で仕方なかった。今は誰かがいないということが、横道さんがいないという現実が耐え難いものになっている。


 おかしいな、私は人に撫でられて喜んだりする人間じゃなかったはずなのに。


 もう少し、横道さんの人生に占める私の割合を大きくしたい。ほんの少し、いや、もっともっと、今の私が抱えているのと同じくらい。

 ただ、そのためにはどうしようもない壁がある。


「時間、一緒にいる時間がほしい」


 1日は24時間で、そのことは誰にとっても変わらない。ここにいては放課後1、2時間一緒にいるのが精一杯で、それ以上には絶対ならない。病院へ行く日は長引くことも考えて会えないし、土日だって用もないのに会うことはない。今は体調のこともある。


「私だって元気なら横道さんともっといろいろなことをしてみたいなぁ……」


 別の場所で、ここではないどこかでも会えるようになりたい。

 会わないといけない。もっと長い時間、一緒にいられるようになるために、だけど、そのためには……。


 考えただけで、遅刻と早退を繰り返していた1ヶ月が脳裏をよぎる。

 反射的にせり上がってきたものに私は口を手で押さえた。


 変わることへの恐怖はある。でも、少しずつよくはなっている。起きていられる時間も伸びてきた。

 そう、大丈夫。今なら大丈夫なはずだ。


 荒い呼吸を鎮めつつ、両目に流れる涙を拭った。

 幸い、私はそこへいく権利を持っている。


 学校。


 私は今まで見ないふりをしてきたクローゼットへ顔を向けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る