第8話 第三の勢力
ゼロとノードは、ゼニスの巨大な換気ダクトの中を、這うようにして進んでいた。
ダクト内は金属と油の匂いがこもり、彼らが今までいたシミュレーションの「完璧な空気」とはかけ離れた、生の、ざらついた現実の匂いがした。
ダクトの壁には埃が堆積し、彼らのグレーの服に付着していく。この物理的な不快感こそが、エコーシティの人工的な快適さから解放された証拠だった。
「この先、ダクトの分岐点があるはずよ。ゼニスのシステムに干渉できないんじゃ、物理的な経路を探すしかないわ」ノードが言った。
ゼロは端末のライトで、錆びたダクトの壁を照らした。彼の端末は、未だに沈黙したままで、この上位システム下では単なる懐中電灯と化していた。
彼らがしばらく進んだとき、ダクトの奥から、微かな電子ノイズではない、別の音が聞こえてきた。それは、金属を引っ掻くような音と、小さな電気的なスパーク音だった。その音は、システムの論理的なノイズではなく、人間の意図的な破壊活動の音だった。
「誰かいるみたい」ノードはそっと囁いた。彼女はゼロの背中に隠れるようにして、警戒心を高めた。
ゼロはノードを制し、音のする方へ注意深く近づいた。音は、ダクトの壁に設けられた、古いメンテナンスハッチの裏側から聞こえてくる。
ゼロがライトを向けると、そこにいたのは、ゼニスの住民とは似ても似つかない異質な男だった。
男は、蛍光オレンジのモヒカンを無造作に逆立て、顔にはチタン製の三角サングラスをかけていた。そのサングラスは、ダクトの薄暗い光を反射し、彼の表情を完全に隠している。服装は、ゼニスのグレーの制服を破り捨て、電子部品のデブリを縫い付けたような、やさぐれた黒いレザージャケットを羽織っている。彼は、懐中電灯の光の下で、ダクトの壁にある古いアクセスパネルを、手製のツールで無理やりこじ開けようとしていた。
「おい、誰だ? そこを動くんじゃねえぞ」
男は、ゼロたちに気づくと、荒々しく声を上げた。
彼の声には、ゼニスの住民のような無関心さはなく、明確な警戒心と苛立ちが滲んでいた。それは、エコーシティでは聞くことのなかった、本物の感情の発露だった。
「私たちは…エコーシティから逃げてきたの」
ノードはゼロの前に出て、警戒しつつも答えた。
「Admnのエンティティに追われてるのよ」
男は三角サングラス越しに二人をじっと見つめ、鼻で笑った。
「エコーシティ? ああ、あの温室の家畜たちか。よくここまで来れたもんだ」
彼は持っていたツールを投げ捨て、腕を組んだ。
「俺はスティング。ゼニスの外壁補修ユニット所属の脱走兵だ。お前らがAdmnの犬じゃないなら、運がいい。その代わり、このダクトは俺の縄張りだ」
「私たちは、このゼニスを抜けて、本当のFar Landへ行きたいの」ノードが言った。
スティングは嘲笑した。
「Far Land? お前たちがここをFar Landだと思った時点で、大間違いだ。ここはAdmnの中継システム。お前らみたいなエコーシティの連中を、いつか次の世界へ移植するための実験場だ」
ノードは不安げに尋ねた。「ゼニスにも、リセットがあるんでしょう? WIPEが繰り返されるなら、ここもただの檻じゃない」
「リセットこそが、Admnの真の目的だ」スティングは声を落とした。
「奴らは、お前らみたいな優秀なデータの実体を、定期的に初期化しては、何かを最適化し続けている。だが、一部の奴らはそれを拒否した。俺たちみたいにな」
彼は、周囲を素早く見回してから、ゼロたちに背を向け、こじ開けかけていたアクセスパネルを指差した。
「ゼニスには、俺たちのようなレジスタンスが隠れている。奴らは都市の管理者じゃねえ。本当の自由を求めて、この管理システムに抵抗している人間たちだ」
「レジスタンス…」ゼロは驚愕した。彼は、この完璧な管理都市にも、不規則なノイズが存在していたことに、希望を感じた。
「そのレジスタンスが、このダクトの中に、俺たち用の秘密のルートを隠した。俺が今開けようとしているのは、都市の構造図には存在しない裏側のデータアクセスポイントだ」
スティングは再びツールを手に取り、アクセスパネルをこじ開け始めた。金属が悲鳴を上げるような音が、ダクト内に響く。
「ただし、このルートを使うには、システムの盲点を突かなきゃならない。俺は物理的な脱走ルートは知っているが、セキュリティを破るためのマナのコードの知識はねえ。おい、エコーシティのコード野郎。その低級ロールとやらで、このパネルを静かに開けてみせろ」
ゼロは端末を取り出し、スティングが物理的にこじ開けている箇所に、自身のマナのコードを干渉させる方法を考え始めた。ゼニスの強固なセキュリティを静かに破るには、物理的な破壊のノイズを、データ的な介入で吸収しなければならない。
「物理的な衝撃と、マナのコードの微細な干渉を同期させる…」
ゼロは、スティングの次の一撃と同時に、パネルのロックシステムに対して、極めて限定的な「ノイズ遮断」のコードを流し込むことに決めた。彼の低級コードの最大の利点は、システムの注意を引かない、極小の干渉だった。
$Local.Noise.Filter(System.Lock, 0.001sec);
スティングが渾身の力でパネルの隙間にツールをねじ込んだ瞬間、ゼロはコードを実行した。
キィン! という金属音が響くはずだったが、その音は極めて小さく、すぐにシステムに吸収されていった。
パネルのロック機構が、物理的な衝撃と、ゼロの流したコードによる一瞬のデータ遮断によって、沈黙のうちに解除された。
スティングは驚いたように三角サングラスを押し上げた。
「やるじゃねえか、温室野郎」
開かれたアクセスパネルの奥には、データケーブルが複雑に絡み合った、小さな空間が広がっていた。そして、その奥には、ゼニスの公式構造図にはない、別のダクトへと続く開口部があった。
「ここだ。これは都市のデータ管理層に接続している、レジスタンス専用の脱出ルートだ」スティングは言った。
「俺がこのダクトに来たのは、レジスタンスの次の集合場所へ向かうためだ。お前らも来い。Far Landがどこにあるか知らねえが、少なくとも、このクソ管理都市よりはマシな場所へ行けるはずだ」
ゼロとノードは顔を見合わせた。
久しぶりに「生きた人間」と出会った気がした。
「行くわ、ゼロ」ノードは決意を込めて言った。
ゼロは頷き、スティングに続いた。彼らの旅は、Admnの論理から逃れるだけでなく、システムに抗う人々の存在という、新たな次元へと踏み出したのだ。
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