第7話 マナの円舞曲

クロム鋼の初期化エンティティ三体が、通路を完全に塞いだ。


その金属の表面は光を反射し、無機質な存在感を際立たせていた。

右腕のパルス砲が青白く光を帯び始め、ゼロとノードの存在データをターゲットロックする。そのロック音が、二人の耳に直接響くような、電子的な恐怖を伴っていた。


「ノード、伏せろ!」


ゼロはノードを力強く押し倒し、通路の冷たい床に身を低くした。同時にポケットから端末を取り出す。ゼニスの強固なシステム下で、彼の低級ロールでできることは、ほとんどない。


エンティティの基本動作コードに干渉しようとしても、強大なAdmnのファイアウォールに瞬時に弾かれるのは目に見えている。彼は、自身のコードがこの都市では「ノイズ以下」であることを痛感していた。


そのとき、三体のエンティティの背後の、巨大なLEDパネルに異変が起こった。


警告文が表示されていたはずのパネルが、突如として真っ黒に変わり、その中央に、たった一人の人物のシルエットが浮かび上がった。


シルクハットの男だ。


彼は、エコーシティで別れた時と同じ、古びたスーツとシルクハットを身につけていた。しかし、その影の姿は、まるで舞台のスポットライトを浴びるかのように優雅で、片手を胸に当て、もう一方の手を空中に差し伸べている。その姿勢は、演劇の開始を告げる役者のものだった。


次の瞬間、男の姿を模したシルエットから、聴こえるはずのない、優雅で荘厳なワルツのリズムが響き渡った。それは、この無機質なメガロポリス・ゼニスの論理とは全く異なる、感情的で予測不能なデータだった。


「ああ、我が子たちよ。こんな野暮な場所で地に這い蹲っているなんて、なんと恐ろしいこと!」


男の声は、警備システムのスピーカーを乗っ取ったかのように、通路全体に響き渡った。その声には、大げさなほど優雅で、芝居がかった抑揚が混じっている。


初期化エンティティたちは、標的を目前にしているにも関わらず、一瞬動きを止めた。彼らのシステムが、突如として発生した「演劇的なデータ」(ワルツの音楽と男のホログラム)を処理しきれず、演算がフリーズしたのだ。初期化エンティティ達のシステム辞書には、「ワルツ」や「優雅」といった概念が存在しない。


男は続けた。「人生とは、常に動き続けるバレエだ。君たちを追うエンティティは、その動きを停止させることしか知らない。さあ、ゼロ君。君の端末で、この円舞曲ワルツの伴奏をしてみなさい」


そう言うと、男のシルエットは、ワルツの最も優雅な一拍と共に消えた。しかし、彼がいたパネルの隅に、細い青い光の線が、一行のマナのコードとして、わずか一秒だけ表示され、すぐに消えた。そのコードは、時間的な遅延を意味する構文を含んでいた。


ゼロは、その光景を反射的に見ていた。男の言葉、ワルツのリズム、そして一瞬の青いコード。


円舞曲ワルツ…動きを停止させる…」ゼロは男の意図を瞬時に理解した。男は、コードを直接破壊するのではなく、そのタイミングをずらすという、芸術的なハッキングのヒントを与えたのだ。


男が示したコードは、彼の低級ロールでは通常実行できないものだった。しかし、そのコードは、ワルツのリズムに乗って時間的な遅延を持たせることで、エンティティのシステムに干渉するように設計されているように見えた。


ゼロは、ノードを抱えたまま、一瞬で端末にコードを打ち込み始めた。彼の持つロールでアクセスできる最も基本のエコーシティの座標操作コードと、男が示したコードの断片を、まるで楽譜の音符のように組み合わせる。


$Override.Target.Coords(Entity.All, +0.1sec, 3);


ゼロは、初期化エンティティ三体が次に移動するはずの座標に対し、0.1秒の「遅延」を強制的に書き込むという、非常に繊細なコードを射出した。


ゼニスの硬いシステムを避けるため、彼は、エンティティの自己座標ではなく、彼らが受信する環境情報に、マナのコードを紛れ込ませたのだ。これにより、エンティティの目には、環境が0.1秒遅れて動いたように映る。


最初のエンティティがパルス砲を発射した。


だが、発射されたエネルギーパルスは、ゼロとノードがいた場所のわずか0.1秒後の空間を通過し、背後の壁を溶解させた。壁から上がった蒸気が、焦げたデータノイズの匂いを運んだ。


「今だ!」


パルスを撃ったエンティティは、ゼロが書き込んだ遅延コードによって、わずかに動きが硬直していた。残る二体も、そのわずかな時間差で、次の攻撃を放つことができない。この0.1秒こそが、ゼロとノードにとって、永遠の命にも等しい時間だった。


ゼロはノードを連れて、エンティティの硬直した隙間、そしてパルス砲が壁を溶解させてできた黒い焦げ穴の中へ滑り込んだ。焦げ穴は、システムの壁ではなく、その奥にある巨大な換気ダクトへと続いていた。


「このダクトに入れば、監視ドローンの直接的な視界から逃れられる!」


二人がダクトに身を隠した瞬間、三体のエンティティはコードの遅延から回復し、ダクトの入り口に向かって激しいパルス砲を浴びせ始めた。しかし、ダクトの入り口はすでに閉ざされた。パルス砲の熱がダクトの金属を震わせる。


ダクトの中を、ゼロとノードは息を切らして進んだ。遠くから、ワルツの残り香のような、微かな音楽のデータが、まだ耳の奥に聞こえている気がした。


「彼は…私たちを助けたのね」ノードが肩で息をしながら言った。彼女の目には、恐怖ではなく、シルクハットの男の行動に対する驚きと感謝が宿っていた。


「この世界のコードは、時として芸術的なひらめきで超えられることを教えてくれた」ゼロは言った。彼の心臓は、逃走の興奮と、男の示した高度な技術への敬意で高鳴っていた。


ゼロは端末を握りしめた。彼の低級ロールは、ゼニスではほとんど無力だったが、シルクハットの男のヒントと、彼自身のユニバーサル・マナへの深い理解が、不可能を可能にした。


ゼロは確信した。シルクハットの男は、彼らがFar Landへ到達するために、この管理都市ゼニスを抜け出すための、道化師として振る舞っているのだ。彼は、ゼロの技術と勇気を試しているのかもしれない。


ゼニスを抜けた先にこそ、Far Landがあるに違いない。ダクトの奥深くへと進むゼロの瞳には、新たな決意が宿っていた。

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