第3話 隠されたポート

点滅を繰り返す壁の前に、ゼロとノードは立ち尽くした。


壁のテクスチャは不規則に崩壊し、そのたびに深い青や鮮やかな緑といった、エコーシティではありえない色彩が閃く。この光景こそが、この場所が「境界の漏洩点」であることの証拠だった。


「ひどいバグだ。世界の物理エンジンが、境界を維持できなくなっている」ゼロは興奮を隠せない様子で、端末を向ける。「この電子的なノイズの向こうに、シールドがある」


ノードは恐怖を感じながらも、ゼロの背中にぴったりと寄り添った。

「どうするの、ゼロ? この壁は触れないわ。私たちを構成するデータまで崩壊させられてしまいそう」


「そうだな。低級コードで透過を試みるのは危険すぎる」ゼロは頷いた。

彼のロールでは、世界の物理法則を書き換える上位のコードには触れられない。もし無理に干渉すれば、システムから即座に異常を検知され、Admnの介入を招くだろう。


ゼロは、シルクハットの男から受け取ったデータチップを思い出した。

男はこれを「小さな鍵」と言った。


「座標データは、この場所を示していた。もしこの漏洩点が意図的に作られたものなら、システムの管理者は、ここから外に出入りする別の手段を用意しているはずだ」


ゼロは、バグによって視覚情報が歪む壁の表面を、注意深く指先でなぞり始めた。触れると、皮膚に微弱な静電気が走る。壁のテクスチャは目まぐるしく変わるが、壁自体の硬さや温度は変わらない。


「見て、ノード。この点滅の、規則性…」


ゼロが指さした一点は、他の場所よりも点滅の頻度がわずかに遅く、時折、壁のテクスチャではなく、均一なメタリックな光沢を覗かせていた。それは、石造りの壁のデータとは明らかに異なる、異質な素材の表現だった。


ノードが息を呑んだ。「壁の中に、何か別のものが…」


「そうだ。このバグのノイズは、何かを隠すためのカモフラージュになっているんだ」


ゼロは端末を取り出し、この一点に対し、非常に限定的な範囲で、ユニバーサル・マナの低級コードを照射した。彼のロールで許される、最も安全な、しかし精度の高いデコード作業だ。


$Render.Texture.Override(Local.Point_ID, 'Stone', 0.05);


彼は、対象の座標でレンダリングされている「石のテクスチャ」を、ごくわずかな時間(0.05秒)だけ強制的に解除するコードを打ち込んだ。


バチッという電子的な弾ける音とともに、壁の一点が鮮明に姿を現した。それは、石ではなく、古びた純粋なクロム鋼でできた、縦長のパネルだった。パネルの中央には、チップを挿入するための小さなスロットが設けられている。


「アクセスポートだ!」ゼロは確信した。


ノードは警戒を強めた。

「誰かのアクセス履歴があるかもしれない。すぐにAdmnに通知が行くわ」


「時間がない」ゼロは言った。


彼は躊躇なく、シルクハットの男から受け取ったデータチップを、そのスロットに深く差し込んだ。


グオオオ…


チップがスロットに収まった瞬間、巨大な重低音が地下通路全体に響き渡った。点滅していた壁のバグが急速に収束し、周囲のノイズが消えていく。クロム鋼のパネルの縁が淡い青色に光り、ゆっくりと、左右にスライドして開いた。


開いた先は、真空の暗闇だった。しかし、その暗闇は、単なる空虚ではない。その中には、無数の光の粒子が高速で流れており、それはまるで、巨大なデータストリームの奔流のようだった。


「これが…シールドの向こう側?」ノードが囁いた。


そのとき、ゼロの携帯端末に、激しい警告が鳴り響いた。


【ALERT: ACCESS VIOLATION. Admn-LEVEL PROTOCOL DETECTED.】 【ACCESS POINT: LEAKAGE POINT. SYSTEM LOCKDOWN IN 60 SECONDS.】


Admnがこの特異点へのアクセスを検知したのだ。システムは即座にロックダウンを開始する。


「 時間がない!」ゼロは叫んだ。


彼は開いたポートの向こう側、データストリームの奔流を恐れることなく見つめた。その光の粒子一つ一つが、世界の構造コード、すなわちユニバーサル・マナの断片のように見えた。


「チップは単なる鍵じゃなかった。これは、このアクセスポートを認証するための使い捨てのIDカードだ。僕たちのロールでは開けられない扉を開けるための…」


ノードはゼロを見た。彼女の目には、迷いと決意が混ざり合っていた。


「行くのね?」


「ああ。ロックダウンされたら、二度と扉は開かない。WIPEが開始する前に、僕たちはこの世界の構造の外に出るんだ」


ゼロはノードの手を強く握り、クロム鋼のポートの淵に足をかけた。ロックダウンまでのカウントダウンを示すアラート音が、地下通路にけたたましく響き渡る。


二人がポートを抜け、光の奔流に飛び込んだ瞬間、背後のポートは再び音を立てて閉まり始めた。


次の瞬間、ゼロとノードの視界は、激しい光の渦に飲み込まれた。それは、彼らの肉体、そして彼らの意識を構成するデータが、世界のシールドを突破しようとする、壮絶なプロセスだった。彼らの体が、光のストリームの中で、データの欠片のようにちらつくのを感じた。


「Far Land…」ゼロは意識が遠のく中で、ノードの温かい手を握りしめる感覚だけを頼りに、その言葉を胸の中で繰り返した。

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