第2話 境界の漏洩点
ゼロは、手のひらに握られたデータチップをノードに見せた。廃墟となったデータバンクの薄暗い光の中で、チップは鈍く輝いている。それは、この世界を覆うシールドの向こう側、Far Landへと続く鍵だった。
「これだ。シルクハットの男が、『小さな鍵』だと言ったもの」
ノードは不安げに周囲を見回した。男が去った後のホールには、冷たい静寂が戻っている。
「彼はWIPEを初期化だって言った。もし本当なら…私たちは今まで、ずっと誰かに操作されていたってこと?」ノードの声は震えていた。
「その可能性は否定できない」ゼロは言った。彼の目は、恐怖よりも、この巨大な謎に対する激しい興奮を宿していた。
「でも、シールドの向こうにあるというFar Land…そんなものが本当にあるなら、何としてもこの目で見てみたい。」
ゼロは携帯端末をチップに接続し、すぐさま内部のデータを読み取った。チップのデータは極めてシンプルな構造をしていたが、その中身はゼロの現在のロールでは通常取得できない種類の、
「これは…座標データだ。しかも、ひどく古いフォーマットで暗号化されている。Admnの現在のシステムとは違う、旧世代のマナ記述が使われている」
ゼロは、このシミュレーションの基盤を理解するために彼がこれまで独学で学んできたユニバーサル・マナの低レベルな記述知識を総動員して、データの解析に集中した。彼の端末の画面には、膨大な演算結果が流れ、彼の思考速度は極限まで高まっていた。ノードは、彼が集中する際の、その非人間的なまでの静けさに、息を呑んで見守った。
数分後、端末の画面に一連の数字と、短い文字列が浮かび上がった。
X=78.223, Y=145.001, Z=-120.000
その下に、旧世代のユニバーサル・マナで記述された、三つの単語が表示されていた。
LEAKAGE.POINT.BOUNDARY
「LEAKAGE POINT... 漏洩点?」ノードがためらいがちに読んだ。
「BOUNDARY... 境界。」ゼロの胸が激しく高鳴った。
彼は画面を凝視したまま、興奮したように言った。彼の声には、彼が追い求めてきた
「この座標は二重の意味を持っている。X, Y, Zは確かにエコーシティ内の物理的な位置を示しているが、同時に、この場所こそが、世界の構造コードが最も外側に露呈しているアドレスなんだ」
ノードが戸惑った。「物理的な場所と、データのアドレスが同じ…?」
「そうだ。男は言った。『シールドの向こうへ』と。そして、この古いマナの記述は『境界の漏洩点』を示している」ゼロは結論づけた。
ゼロは続けた。「通常、世界の構造コードは、三次元空間とは独立した上位レイヤーに厳重に保護されている。しかし、この座標が指す場所は、物理的な現実と、それを記述する
座標X=78.223, Y=145.001が指し示すのは、エコーシティの中央セクター、誰でも知っている「太陽の泉」のすぐ近くの場所だった。そこは、最も人口が多く、Admnの監視エンティティの巡回頻度が最も高い場所だ。
そして、Z=-120.000という深さは、この都市の標準的な建築図には存在しない、システムの管理層、つまりシステムの動脈に当たる位置だった。
「Admnの監視が最も厳重な中央セクターの真下…誰もこんな場所がバグの場所だとは思わないだろう。最高の隠し場所だ」
ノードはゼロの手を強く握った。彼女の不安は頂点に達していたが、ゼロの瞳に燃える探求心が、彼女自身の無気力感を打ち破る熱となっていた。
「でも、どうやって降りるの? 太陽の泉の下は立ち入り禁止よ。警備ドローンが四六時中巡回している」ノードが不安そうに尋ねる。
「僕のロールの出番だ」ゼロは言った。
二人は廃墟を後にし、都市の中心へと急いだ。彼らの周囲を歩く人々は、相変わらず無気力で、彼らの急ぐ姿など気に留める様子もない。その無関心さが、かえって二人の緊張感を高めた。
偽りの青空の下、太陽の泉の広場は、いつものように無気力な人々で賑わっていた。人工的な水音と、規則正しい鳥のさえずりが響き渡る。噴水の水しぶきのリズムすら、ゼロには完全に予測可能だった。
ゼロは、広場の片隅にある、直径一メートルほどのメンテナンス用ハッチに目をつけた。そこには「コアシステムアクセス禁止」の警告表示が点滅している。巨大な警備ドローンが、そのハッチの付近を正確なリズムで巡回していた。ドローンの駆動音は低く、しかし、そのシステムが発する微細な干渉波は、ゼロの端末で検知されていた。
ゼロは、ドローンの巡回パターンを瞬時に解析した。
「あのドローンが角を曲がり、視界から外れるまでの時間…15秒。ハッチを開錠し、僕らが潜り込み、ハッチを閉めるまで、与えられた猶予は、最大で5秒だ」
「5秒!?」ノードが息を呑んだ。
「ノード、僕がハッチを開けたら、すぐに中に入って。もし捕まれば、WIPEどころか、僕らのロールは永久に剥奪されてしまう」
ゼロは端末を取り出し、座標データを手がかりに、持っているユニバーサル・マナのロールを使って、ハッチのセキュリティシステムに干渉するコードを打ち込み始めた。彼の指の動きは、迷いなく、機械的な正確さを持っていた。
$Auth.Override(Local.Hatch.DELAY, 0.001);$
「アクセス権の最低限の上書き。ドローンが検知する前に、処理を終える」ゼロが打ち込んだ簡易なマナの構文は、ハッチの認証プロセスを僅か0.001秒だけスキップさせるための、極めて危険な賭けだった。この数値は、ドローンの監視ルーチンの最小検知閾値に限りなく近い。
「カチリ」
微かな電子音と共に、ハッチのロックが解除された。
ドローンが角を曲がるまでの猶予は、もはや数秒しかなかった。
「行こう!」
ノードが先にハッチを押し開け、金属製の梯子を降り始めた。ノードは恐怖に目を閉じそうになったが、ゼロの強い視線を感じ、下へと滑り降りた。
ゼロもすぐに後を追い、ハッチを音を立てないように閉める。
二人が潜り込んだ直後、警備ドローンの低い駆動音が、ハッチの真上を、正確なリズムで通り過ぎていった。ギリギリの成功だった。
地下通路は、エコーシティとは全く異なる、システムの古傷を曝け出した場所だった。錆びた配管、途切れ途切れに点滅する裸電球、そして、かすかな電子ノイズ。通路の壁からは、システムの熱がわずかに放出されており、ゼロのマナの解析を妨げるような、不規則な干渉波が絶えず発生していた。
ゼロは端末のライトを点け、座標が示すZ=-120.000の深さを目指して、ノードと共に迷路のような地下通路を進んだ。彼は、ノードの体が冷たくなっていることに気づき、彼女の肩を抱き寄せた。
やがて、彼らは通路の奥で、異様な光景を目にした。通路の一角の壁が、奇妙なノイズを立てながら、不規則に点滅しているのだ。
壁の色は、本来の石造りのグレーではなく、時々、深い青や鮮やかな緑にちらつき、そのたびに、壁のテクスチャがデジタルに崩壊していた。それは、世界の構造コードそのものが、物理的な境界を保てなくなり、バグを露呈している状態だった。
座標が示した通りの「境界の漏洩点」である。
「これよ…」ノードが、恐怖と驚きを混ぜた声で言った。
「座標はここを指していたんだ」ゼロは端末を取り出し、崩壊する壁の前に立った。
「シールドが薄くなっている。僕たちが探していた場所だ。この向こう側が、Far Landへの道だ」
壁の向こうからは、この世界には存在しないはずの「風の音」のような、微かな電子的な歪みが聞こえてくる。
彼らは、世界の真実に最も近づいた場所に立っていた。
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