第37話 佑樹と菜月の二人きりの時間


 文香が、どこか満足げな、それでいて底の知れない微笑みを浮かべて帰っていった後、俺の部屋には、重たい沈黙が支配する、二人だけの時間が訪れた。夏休み最後の日曜日の夜。窓の外では、虫の音が、まるで過ぎ去っていく夏を惜しむかのように、りんりんと鳴り響いている。机の上に無造作に広げられた参考書は、もはやその役目を終え、俺たちが築き上げた、歪で倒錯した王国の、空虚な地図のように見えた。彰太への対応、秘密の逢瀬の場所、そして、官能的な暗号。俺たちは、友情という名の国を完全に捨て去り、罪の匂いが充満する、この小さな密室で、共犯者としての未来を誓い合ったのだ。


 菜月は、俺のベッドに腰掛けたまま、膝を抱えて、じっと床の一点を見つめていた。その横顔からは、いつもの快活な表情は消え失せ、代わりに、この異常な日常を、彼女自身がどう受け止めているのか、その内面を必死に探っているかのような、真剣な色が浮かんでいた。俺たちの関係は、もはや単なるスリルを求める遊びではない。文香という、重く、そして粘着質な激情を抱えた存在を巻き込んだことで、俺たちの罪は、より深く、そして取り返しのつかない段階へと、足を踏み入れてしまったのだ。


「……なあ、菜月」


 俺は、その沈黙に耐えきれず、声をかけた。


「ん……?」


「俺たち、これから、どうなっちまうんだろうな」


 その問いは、あまりにも漠然としていて、そして、答えなどないことを、俺自身が一番よく分かっていた。しかし、誰かに、特に、この罪の始まりを共有した、目の前の女に、聞かずにはいられなかった。


 菜月は、ゆっくりと顔を上げると、俺の瞳を、まっすぐに見つめ返してきた。その大きな丸い瞳は、冗談めかした光を一切消し去り、俺の魂の奥底までをも見透かそうとするかのように、深く、澄んでいた。


「……どう、って言われてもね。もう、始まっちまったんだから、進むしかないじゃん」


 その声は、驚くほどに、冷静だった。


「でも、あんたは、それでいいの? 文香のこと、受け入れて。……あいつ、本気だぞ。彰太とのこと、本当に、整理する気だ。俺たちのために、自分の人生、変えちまおうとしてる」


 俺の言葉には、文香のその重すぎる愛情に対する、恐怖が滲んでいた。彰太が持ってきた大学のパンフレットを前に、彼女が見せた、あの静かな決意の表情。そして、俺が地元の大学を目指すと口にした時の、あの安堵の微笑み。それら全てが、彼女の依存の深さを、物語っていた。


「……知ってるよ。あいつが、昔から、一度思い込んだら、どこまでも突っ走るタイプだってことくらい」


 菜月は、そう言うと、ふっと、自嘲するように笑った。


「でもさ、佑樹。あんた、勘違いしてない? 文香がああなったのは、あんたのせいだけじゃない。……私のせいでもあるんだよ。私が、あいつの目の前で、あんたを独占したから。夏祭りの夜も、さっき、この部屋でしたことも。……私が、あいつを、あの場所まで追い詰めたんだ」


 その言葉は、俺にとって、あまりにも意外なものだった。彼女は、この状況を、ただの恋愛ゲームとして楽しんでいるだけだと思っていた。しかし、その奥には、親友を傷つけてしまったことへの、確かな罪悪感と、そして、その責任を、自分もまた背負うのだという、強い覚悟が存在していたのだ。


「だから、もう、いいの。三人で、このまま、行くしかない。……それに」


 菜月は、言葉を切ると、俺の隣に、その身体を、そっと寄せてきた。彼女の温もりが、Tシャツ越しに、じんわりと伝わってくる。


「……あんたが、本当に、帰ってくる場所は、私んとこでしょ?」


 その囁きは、問いかけでありながら、絶対的な確信に満ちていた。そうだ。俺は、気づいていた。文香を抱いている時でさえ、俺の意識の片隅には、常に、この女の存在があったことを。文香との関係が、俺の支配欲と、彼女の肉体的な渇望を満たすための、倒錯した儀式であるならば、菜月とのそれは、俺の弱さも、醜さも、そのすべてを、無条件で受け入れてくれる、唯一の安息所なのだ。


「……当たり前だろ。その分、苦労させてしまいそうで申し訳ないが、苦労させた分以上に幸せにしたい。だから、言いたいことは言ってくれ、俺も相談するし、努力はする」


 俺のその言葉に、菜月は、一瞬、目を見開いた。そして、次の瞬間には、その瞳から、堪えていた涙が、一筋、流れ落ちた。それは、安堵の涙であり、そして、俺の覚悟を受け止めた、決意の涙でもあった。


「……ばか。……今さら、何言ってんのよ」


 彼女は、そう言って、俺の胸に、その顔を強く押し付けた。その声は、震えていた。俺は、そんな彼女の身体を、強く、そして優しく、抱きしめた。


 俺たちは、しばらくの間、何も言わずに、ただ、互いの存在を確かめ合うように、抱きしめ合っていた。この歪んだ日常の中で、俺たちが、唯一、互いを信じ、依存し合える、共犯者なのだと、改めて、確認するために。


 この二人きりの時間は、俺と菜月の間に存在する、他の誰にも侵すことのできない、特別な絆の強さを、改めて浮き彫りにした。文香の重い愛情も、彰太への罪悪感も、この絆の前では、乗り越えられるのではないか。そんな、根拠のない、しかし、確かな希望が、俺の心の中に、微かに芽生え始めていた。


 俺たちは、この夏休みで、多くのものを失った。しかし、それと引き換えに、より深く、そして、より業の深い、新しい関係性を手に入れたのだ。明日から始まる新学期が、どのような地獄の舞台となるのか。その不安を、今はただ、互いの体温で、温め合うことしかできなかった。

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