第21話 夏祭りの喧騒と、二人きりの誘い
八月も終わりに近づいた週末の夜、俺たちは四人で地元の夏祭りに来ていた。蒸し暑い夜気は、境内を埋め尽くす人々の熱気と混じり合い、肌にまとわりつくように濃密だ。鳴り響く太鼓の音、子供たちのはしゃぎ声、そしてテキ屋の威勢のいい呼び込みが、渾然一体となって鼓膜を揺らす。裸電球の頼りない光が、集う人々の顔をぼんやりと照らし出し、その表情に楽しげな影と、非日常への期待を浮かび上がらせていた。
彰太は、文香の少し前を歩き、彼女が人混みで逸れないようにと、その手を固く握っている。白い浴衣に身を包んだ文香は、黒い髪を結い上げ、普段の眼鏡を外していた。その姿は、夏の夜の熱に浮かされたように儚げで、そして驚くほどの色香を放っている。彼女は時折、彰太の横顔を盗み見ては、はにかむように微笑んだ。その光景は、誰の目から見ても、理想的な恋人たちの、完璧な夏の夜の一場面だった。
しかし、俺には分かる。文香のその微笑みの裏には、彰太の純粋な愛情に対する罪悪感と、俺という別の男の肉体を知ってしまったことへの、消せない渇望が渦巻いている。そして、彰太の潔癖なまでの誠実さが、皮肉にも彼女をより深く、俺たちの歪んだ関係へと引き寄せているのだ。
俺の隣を歩く菜月は、対照的に、この喧騒を心から楽しんでいるようだった。彼女は、金魚すくいの屋台を指差しては笑い、りんご飴の甘い香りに鼻をひくつかせている。そのボーイッシュなショートパンツ姿は、浴衣姿の女性たちの中で、かえって彼女の快活な魅力を際立たせていた。だが、その無邪気な笑顔の裏で、彼女の大きな丸い瞳が、俺と文香の間の見えない糸を、鋭く探っていることにも、俺は気づいていた。彼女は、この祭りの喧騒さえも、俺たちの秘密の関係を隠蔽し、新たなスリルを生み出すための舞台装置として捉えているのだ。
俺たちは、しばらくの間、たわいもない会話を交わしながら、人波に身を任せていた。彰太が射的で手に入れた景品を、照れながら文香に手渡す。文香が、嬉しそうにそれを受け取る。その完璧な「日常」の光景が、俺の罪悪感を、じりじりと炙り出した。この友情を、俺は自らの手で汚してしまった。その事実は、祭りの楽しげな雰囲気とは裏腹に、俺の心の奥底に、冷たい澱のように沈殿していく。
その時だった。彰太の中学時代の剣道部の後輩たちが、彼を見つけて駆け寄ってきた。
「桐生先輩! お久しぶりです!」
「ちわっす! よかったら、ちょっとこっちの屋台、手伝ってもらえませんか? 人手が足りなくて!」
後輩たちに囲まれた彰太は、困ったように眉を下げたが、彼の責任感の強さが、その頼みを無下に断ることを許さなかった。
「……分かった。少しだけだぞ。文香、ごめん。ちょっとだけ、待っていてくれるか」
「ううん、大丈夫だよ。気にしないで、彰太君」
文香は、完璧な恋人の顔で、優しく微笑んだ。
彰太が後輩たちに連れられて人混みの中へと消えていく。その背中を見送った瞬間、俺の隣で、菜月が動いた。彼女は、俺のTシャツの裾を、誰にも気づかれないように、くいっと引いた。
視線を合わせる。彼女の瞳が、悪戯っぽく、そして挑戦的に、きらりと光った。その視線は、言葉よりも雄弁に、俺を誘っていた。「行こうよ」と。彼女の唇が、音もなくそう動いたのを、俺は見逃さなかった。
衝動が、俺の全身を駆け巡った。彰太への罪悪感。文香への複雑な感情。それらすべてを、この瞬間のスリルが塗りつぶしていく。俺は、この刺激に、既に取り返しのつかないほど依存してしまっているのだ。
俺は、文香に聞こえないように、声を潜めて言った。
「文香、悪い。俺、ちょっとトイレ」
「……え? あ、うん。分かった」
文香は、一瞬、戸惑いの表情を浮かべたが、すぐに俺と菜月の間に流れる共犯の空気を察したのだろう。彼女は、小さく頷くと、寂しそうに視線を足元に落とした。その表情には、嫉妬と、そして見捨てられたかのような、微かな絶望の色が浮かんでいた。しかし、俺は、その感情から目を逸らした。
俺は菜月の手を引き、祭りの喧騒を背にして、神社の裏手へと続く、暗い脇道へと足を踏み入れた。提灯の光が届かないその場所は、まるで世界の裏側のように、静かで、そして涼しい空気が漂っていた。人々の笑い声や太鼓の音は、壁一枚を隔てたかのように遠ざかり、代わりに、草むらから聞こえる虫の鳴き声が、やけに大きく耳に響く。
俺たちは、誰かに見られるかもしれないというスリルに身を任せ、神社の裏手に広がる、鬱蒼とした林の中へと、吸い込まれるように入っていった。木々の隙間から漏れる月明かりが、まだらに地面を照らし出し、光と影のまだら模様を作り出している。その光景は、俺たちの関係そのものを象徴しているかのようだった。表向きの明るい友情の裏側に隠された、誰にも知られてはならない、暗く、そして甘美な秘密。
菜月は、林の奥で立ち止まると、振り返って俺の唇を塞いだ。彼女の唇は、りんご飴の甘い味がした。その甘さが、これから始まる背徳的な行為の、罪の味をより一層引き立てる。
「……ねえ、佑樹」
唇を離した菜月が、俺の耳元で囁いた。
「ここなら、誰にも見つからないよね。……私たちだけの、秘密のデートだ」
彼女の吐息が、俺の理性を完全に焼き切った。俺は、彼女のその言葉を合図に、その小柄な身体を、強く、そして激しく抱きしめた。祭りの光と影が交錯するこの場所で、俺たちの衝動的な欲望は、もはや誰にも止められない奔流となって、溢れ出そうとしていた。
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