第18話 レナの接近と庇護欲
彰太の屈辱的な告白が、深夜の公園の静寂に溶けて消えた後も、その言葉の重みは佑樹の鼓膜に、そして魂に、鉛のようにこびりついていた。親友の、男としての自信を根底から打ち砕いた絶望。その原因が、ラブホテルで自分が文香の身体を貪った、あの背徳的な快感にあるという、あまりにも残酷でグロテスクな真実。佑樹は、帰宅して自室のベッドに倒れ込んでも、一睡もすることができなかった。目を閉じれば、涙に濡れた彰太の懇願するような瞳と、理性を失い自分の下で喘いでいた文香の恍惚の表情が、交互に浮かび上がり、彼の罪悪感を容赦なく苛むのだった。
数日後の午後、佑樹は再び彰太の部屋を訪れていた。夏休みの課題であるレポート作成を手伝うという、ありふれた口実を盾にして。本当の目的は、彰太の様子を窺うこと、そして何よりも、自分自身の罪の重さを、彼の日常空間の中で再確認し、この欺瞞に満ちた友情を演じ続ける覚悟を固めるためだった。
彰太は、少しだけ顔色が戻っているように見えた。佑樹に悩みを打ち明けたことで、心の重荷がわずかに軽くなったのだろう。彼は、いつものように真面目な表情で参考書のページをめくり、時折、佑樹に勉強の進捗を尋ねる。しかし、その声の端々には、未だ癒えることのない深い傷の気配が、微かに滲んでいた。佑樹は、その声を聞くたびに、自分の心臓を冷たい手で鷲掴みにされるような、鈍い痛みを感じていた。
重苦しい沈黙が、蝉の声だけが響く部屋を支配する。二人の間に横たわる巨大な秘密は、言葉にせずとも、その場の空気を確実に蝕んでいた。
その時だった。部屋のドアが、ノックもなしに勢いよく開かれた。
「お兄ちゃん、いるー? アイス買ってきたんだけど、佑樹さんもいるなら、一緒にどうかなって!」
そこに立っていたのは、制服を着崩し、金髪のツインテールを揺らす、彰太の義妹、桐生レナだった。彼女の日本人離れした整った顔立ちは、夏の強い日差しを浴びて輝き、その手にはコンビニの袋が提げられている。金髪碧眼の彼女の存在は、この重苦しく、罪の匂いが充満した部屋に、場違いなほどの明るさと、無垢な生命力をもたらした。
「レナか。入る時はノックをしろと、いつも言っているだろう」
彰太は、妹の唐突な来訪に、眉をひそめた。その口調には、兄としての威厳を保とうとする、わずかな苛立ちが混じっている。
「えー、いいじゃん、別に。あ、佑樹さん、こんにちは! 勉強、頑張ってますね!」
レナは、兄の言葉を意に介さず、一直線に佑樹の元へと駆け寄った。彼女の瞳は、最初から彰太など目に入っていないかのように、佑樹だけに向けられている。その大きな碧眼は、子犬のような、隠すことのない純粋な好意と、献身的な愛情で、きらきらと輝いていた。
「おお、レナ。久しぶりだな」
佑樹は、彼女のあまりにもストレートな好意に、戸惑いを隠せなかった。彼女は、佑樹が小学生の頃に交通事故から庇って以来、ずっと彼に一途な恋心を抱き続けている。その事実は、彼らの間では周知の共通認識だったが、今日の彼女の態度は、これまで以上に露骨で、積極的なものに感じられた。
「はい、お久しぶりです! 佑樹さんに会えるかなって思って、一番高いアイス買ってきたんですよ。はい、どうぞ!」
レナは、そう言って、コンビニの袋から取り出した高級なカップアイスを、満面の笑みで佑樹に手渡した。その仕草は、兄である彰太を完全に無視した、あまりにも分かりやすいアピールだった。部屋の隅で、彰太が妹のその行動を、複雑な表情で見つめている。その視線には、妹の無邪気さに対する微笑ましさと、親友の前で露骨な好意を示す妹への、兄としての微かな監視の目が光っていた。
佑樹は、そのアイスを受け取りながら、自身の置かれた状況の複雑さに、改めて眩暈を覚えた。目の前には、自分を「命の恩人」として崇拝し、純粋な愛情を向けてくる無垢な後輩。そして、その隣には、自分がその恋人を寝取ったことで、男としての自信を失い、苦悩している親友。この二人の間に挟まれ、自分は一体、どんな顔をすればいいのか。
レナは、佑樹の隣に、当然のように腰を下ろした。二人の肩が触れ合うほどの、近い距離。彼女の甘いフローラル系の香水の匂いが、佑樹の鼻腔をくすぐる。
「佑樹さん、夏休み、どこか行きましたか? 私、佑樹さんと一緒なら、どこへでも行きたいな。海とか、花火とか」
レナは、甘えたような、少し芝居がかった高い声で、矢継ぎ早に質問を浴びせかける。その言葉の一つ一つが、彰太の存在を無視した、佑樹へのあからさまなデートの誘いだった。
佑樹は、レナのその無垢で、献身的な愛情を前にして、複雑な感情に襲われていた。それは、単なる戸惑いや罪悪感だけではない。この少女の純粋な想いを、自分が作り出したこの汚れた泥沼に引きずり込んではならないという、強い庇護欲だった。彼女のこの好意は、あまりにもまっすぐで、あまりにも脆い。それを、自分の身勝手な欲望で汚すことなど、断じて許されない。
しかし、同時に、彼は恐怖を感じていた。レナのこの強引なまでの接近は、ただでさえ脆い均衡の上で成り立っている、自分たちの歪んだ関係を、根底から揺るがしかねない、危険な火種だ。彼女の純粋さが、かえってこの複雑に絡み合った人間関係の導火線となり、すべてを爆発させてしまうのではないか。
「レナ。佑樹は今、勉強で忙しいんだ。邪魔をするな」
彰太が、ついに我慢しきれなくなったかのように、低い声で妹を諌めた。その声には、兄としての嫉妬と、親友への気遣いが混じっている。
「分かってますよーだ。でも、佑樹さんの邪魔じゃなくて、応援をしてるの! ね、佑樹さん?」
レナは、そう言って、佑樹の腕に、自らの腕を絡ませてきた。柔らかく、そして熱を持った彼女の胸の感触が、服越しに佑樹の腕に伝わってくる。
「……ああ、まあな」
佑樹は、曖昧に頷くことしかできなかった。彼の心は、彰太への罪悪感、レナへの庇護欲、そしてこの関係がさらに複雑化していくことへの強い懸念という、三重の感情で完全に飽和状態にあった。
レナという、新たな、そして最も予測不可能な火種が、彼らの歪んだ日常の中に、確かに投下された。佑樹は、この無垢な愛情が、やがて自分たちの秘密を暴き、すべてを破滅へと導く嵐の目になることを、この時、はっきりと予感していたのだった。
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