第48話 天才作曲家は(静かな)共鳴(レゾナンス)の中で(新たなる)序曲(プレリュード)を紡ぐ
週末が明け、新しい週が始まった。俺は憑き物が落ちたように自室のスタジオ(本物)で鍵盤に向き合っていた。先週末、黒崎の挑発的なライブ映像を見た直後は、怒りと過去のトラウマで思考が停止しかけた。だが、壁越しに聞こえてきた春日さんの、あの純粋なハミングと俺自身が見つけ出したCメジャーのシンプルな響きが、澱んでいた俺の心に静かな光を差し込んだのだ。
(そうだ。俺が作るべき音は、……憎しみや、恐怖じゃない)
指が自然と動き出す。Cメジャーの和音を基調に、だがただ明るいだけではない翳りのある響きを加えていく。Fメジャーセブンス、Gサスフォー、Aマイナーセブンス……。『Anima』のような激しさも、『Luminous』のような壮大さもない。もっとパーソナルで、内省的で、それでいて確かな温かさを持った音。
それは『Kanata』としての仮面を被る前の『天音彼方』だった頃の俺が、心の奥底で求めていた響きに近いのかもしれない。だが、今の音にはあの頃のような未熟な激情や、独りよがりな絶望はない。春日さんとの出会い、彼女の才能への驚き、そして自分自身の過去との(不完全ながらもの)対峙。それら全てが俺の音に新しい深みを与えている気がした。
コン……コン……。
壁越しに、控えめなピアノの音が聞こえる。春日さんだ。彼女もまた、自分の曲と向き合っている。聞こえてくるフレーズは、以前よりも格段に整理され、彼女自身の「声(ハミング)」とピアノの旋律が、美しく溶け合い始めている。俺が教えた対位法の考え方を、彼女なりに消化し、自分の武器にしているようだ。
時折、俺が弾くコード進行に彼女のピアノが呼応するように聞こえる瞬間がある。あるいは彼女のメロディの断片が俺の次のアイデアのヒントになることもある。壁一枚隔てた奇妙な言葉のないセッション。それは緊張感よりも心地よい共鳴(レゾナンス)に満ちていた。
◇
昼休み。大学のカフェテリア。
「彼方くん、これ、見てください!」
俺がいつものようにペペロンチーノを食べていると、春日さんが興奮気味にノートPC(彼女自身のもの)を開いて見せてきた。画面には、Logic体験版のプロジェクトファイルが表示されている。
「アウトロのハミングの部分、……対位法的にもう一本違うメロディを重ねてみたんです!」
「ほう」
俺はイヤホンを片耳だけ借り、彼女が再生した音を聴いた。
(……!)
主旋律のハミングに対して、もう一本アルト音域の滑らかなハミングが絡みつき、美しいハーモニーを生み出している。しかも、ただ綺麗にハモるだけでなく、時折ぶつかり合い、解決する対位法の妙が見事に表現されていた。
「すごいな。いつの間にこんな」
「えへへ……。彼方くんが貸してくれた本と、あと壁越しに聞こえてくる、彼方くんのピアノの音を参考に」
「!」
(聴かれていたか、俺の作曲過程)
壁は完全な防音ではない。俺が没頭して弾いていた新しい曲の断片が、彼女の耳にも届いていたのだ。
「あ、ご、ごめんなさい! 盗み聞きとかじゃなくて!ただ、……すごく綺麗だったからつい」
彼女は顔を赤くして俯いた。
「……いや。構わん」
俺は言った。
「むしろ、……いい影響になったなら良かった」
「はい!」
俺たちの間に以前とは違う、穏やかな空気が流れる。秘密(凛音)を知った上での、この関係。それは、思ったよりも、悪くないのかもしれない。
「よお!なんだよ二人とも!またイチャイチャしてんのか!」
そこに高木がカツカレー(大盛り)を持って乱入してきた。
「違うよ、高木くん!音楽の話!」
春日さんが慣れた様子であしらう。
「音楽の話ぃ? どうせアレだろ? 学園祭の曲作りだろ!」
「(まだ、その勘違いを引きずってるのか、こいつは)」
俺はため息をついた。
「それより、彼方!」
高木は俺に向き直った。
「聞いたか!? Croix Noire!」
「ああ」
「ヤバいらしいな! ライブ、大成功だったって! ネットでも、『Kanataを超えた』とか、『本物の魂だ』とか、すげえ騒ぎになってるぞ!」
高木は悪気なく、俺の神経を逆撫でする情報を叩きつけてくる。
「そうか」
俺は平静を装って答えた。
「まあ、俺は『Anima』の方が好きだけどな!」
高木はあっけらかんと言った。
「つーか、白亜凛音! 次の新曲まだかよ! Croix Noireなんかに負けてんじゃねーぞって!」
「……」
「まあまあ渉。落ち着けって」
智也が、いつの間にか俺たちのテーブルに来ていた。手にはアイスコーヒー。
「そういうプレッシャーがクリエイターを追い詰めるんだぞ」
「えー、そうか?でもよー」
「それより彼方」
智也は俺にだけ聞こえる声で言った。
「例の件、少し追加情報だ」
俺は頷き、智也と共に席を立った。
カフェテリアの隅で智也はスマホの画面を見せながら説明した。
「Croix Noireのライブ、やっぱり橘が裏で糸引いてたのは間違いない。業界の重鎮クラスが何人も来てたらしい。奴ら本気でKanata(お前)を潰しにかかってるぞ」
「だろうな」
「問題は奴らの次の動きだ。……どうやら近いうちにメジャーレーベル(おそらくフェニックス)からアルバムを出す計画があるらしい」
「アルバム……?」
「ああ。『偽りの鏡』と、ライブで披露した『アンサーソング』を含むKanataへの『挑戦状』とも言える内容になるだろうな」
「……」
「柊さんには伝えたのか?この動き」
「いや、まだだ。だが、時間の問題だろうな。柊さんもただ黙って見てる人じゃない」
「そうだな」
柊さんは、俺(Kanata)のブランドを守るためなら、どんな手段も厭わないだろう。それは俺にとって心強い味方であると同時に、時として俺自身の望まない方向に事態を動かす可能性も秘めている。
「……彼方。お前、どうする?」
智也が真剣な目で尋ねてきた。
「次の曲、本当に、間に合うのか?」
「……ああ。間に合わせる」
俺は答えた。
「いや、間に合わせるだけじゃない。超えてみせる」
「!」
「黒崎(あいつ)も、……橘も、……そして、……俺自身の過去(アストロラーベ)も」
俺の目に迷いはなかった。壁越しに聞こえる春日さんのあの進化し続ける音。それが俺に進むべき道を、示してくれていたからだ。俺は智也に礼を言い、カフェテリアを後にした。足は自然とスタジオへと向かっていた。
◇
その夜。俺は再び鍵盤の前に座っていた。もう、迷いはなかった。俺が紡ぐべきはCメジャーのあの静かな光。だがそれはただ優しいだけの子守唄じゃない。その光の中に俺が経験してきたすべての闇(マイナーコード、不協和音)を溶け込ませる。絶望を知っているからこそ描ける希望。傷ついたからこそ奏でられる優しさ。
それは、『Kanata』の仮面でも『天音彼方』の黒歴史でもない。今ここにいる俺自身の「等身大」の音。
コン……コン……。
壁越しにピアノの音が聞こえる。春日さんだ。彼女もまた自分の音を紡いでいる。 俺たちの音は違う。目指す場所も違うのかもしれない。だが、確かに響き合っている。壁一枚隔てた、この場所で。
俺は新しい曲のタイトルを打ち込んだ。
『Resonance(レゾナンス)』
俺たちの静かな「共鳴」が、……どんな未来を奏でるのか。それはまだ誰にも分からない。
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