第40話 天才作曲家は(運命の)前夜(イヴ)に(二つの)魂(アニマ)の完成を聴く

 木曜日。『Anima』リリース前日。午前中は柊さんやマスタリングエンジニアとの最終確認連絡に追われた。『Anima』の音源は完璧に仕上がった。あとは世に出るのを待つだけだ。プロモーションプランも最終決定し、関係各所への連絡も済ませた。午後になってようやく全てのタスクから解放され、俺はスタジオの椅子で深い安堵と共に仮眠を取ることができた。リリースは明日の午前零時。それまでの時間は、嵐の前の静けさのはずだった。だが、俺の心は完全には休まらなかった。頭の片隅には隣の部屋の住人、春日さんのことが引っかかっていた。俺が課したあの無茶な宿題。彼女は今どうしているだろうか。


 コンコン。


 夕方。控えめな壁のノック音で俺は目を覚ました。意識が覚醒するのと同時に心臓がどくりと跳ねる。  


(春日さんか)  


 時計を見ると午後七時。彼女は大学から帰ってきておそらく例の「宿題」の最終仕上げをしていたのだろう。約束の期限は設けていなかったがこのタイミングでノックしてきたということは……。


「師匠? 起きてますか?」


 壁越しの声。少し掠れているが、確かな達成感のような響きが感じられた。


「あの、できました。データ」


「!」


 俺は椅子から立ち上がった。  


(できた?あの『続き』が?本当に、このタイミングで?)  


 数日前に俺がダメ出ししてから、どれほどのものを完成させたのだろう。しかも彼女は連日、大学もあったはずだ。俺が想像していたよりも遥かに早く、彼女は自分なりの「答え」に辿り着いたのかもしれない。


「ああ。今、開ける」  


 俺はスタジオを出て玄関に向かった。ドアを開ける前に、一度深呼吸をする。どんな音が飛び出してくるのか。期待と少しの恐怖が入り混じる。ドアを開けるとそこには予想通り少し疲れた表情ながらも達成感に満ちた顔の春日さんが立っていた。手には彼女のノートPCを大事そうに抱えている。


「師匠! ありがとうございます!」


 彼女の声は弾んでいた。


「『続き』ができたんだろう」


 俺は努めて平静を装って言った。


「はい! あの、自信あります!」  


(自信?)  


 彼女の目には、以前の不安げな色はなく、自分が作り上げたものへの確かな輝きがあった。その変化に、俺は息を呑んだ。

 俺は部屋に上がってもらい、スタジオのパイプ椅子を彼女に勧めた。彼女は少し緊張した面持ちで部屋に入り、改めてスタジオの異様な光景……特に俺が作業するメインPC周りの機材群に目を丸くしたがもう何も言わなかった。ただ、パイプ椅子にちょこんと腰掛け、自分のノートPCを膝の上に置いた。


「聴かせろ」


「はい!」  


 春日さんはノートPCを開く。Logic体験版が起動した。


『Kasuga_DEMO_Final.logicx』。


 ついに『Final』と名付けられたプロジェクトファイル。そのファイル名に込められた彼女の覚悟が伝わってくるようだ。


「これが、今の私の『答え』です」


 俺は何も言わず、再生ボタンを押すように顎で促した。彼女はごくりと唾を飲み込み、深呼吸を一つして、クリックした。


 ――ポロロロロン…♪…キラリーン…☆  


 俺(過去)のメロディ。彼女(春日さん)が見つけた光(オルゴール)。ここまでは、俺が知っている音だ。


 そして、8小節目の終わりからの展開。E7 → Am → Bdim7 → E♭…俺が聴いたことのない、それでいてどこか懐かしい彼女だけの「物語」が紡がれていく。ピアノの旋律は迷いなく力強くそして優しい。


 技術的な粗はまだある。音源もチープなままだ。Logic体験版の限界だろう、時折わずかにノイズも混じる。だが、そんなことはどうでもよかった。そこに鳴っているのは紛れもなく「魂」だった。俺(過去)の魂を受け止め、俺(Kanata)の技術(ヒント)を吸収し、そして、彼女自身の「色」で塗り替えられた新しい「魂」。俺が指摘したストリングスやドラムの打ち込みも驚くほど自然になり、彼女が紡ぐメロディをしっかりと支えている。


 曲の終盤。前回、俺を打ちのめしたあの美しいピアノのアウトロ。それがさらに進化していた。ピアノの旋律に寄り添うように、微かに、だが確かに、彼女自身の、「声(ハミング)」が重ねられている。多重録音され、まるで小さな聖歌隊のようにアウトロのピアノを包み込んでいる。それは言葉にならないただの「響き」。だが、その響きは俺の黒歴史(Cマイナー)の持つ孤独や絶望を、……優しく、……暖かく、浄化していくかのようだった。


 曲が終わる。完全な静寂がスタジオを満たす。俺はしばらくの間動けなかった。  ただ胸の奥から熱いものが込み上げてくるのを感じていた。それは嫉妬でも畏怖でもない。純粋な感動と、……そして言いようのない安堵感だったのかもしれない。


「どう、でしたか?」  


 春日さんが震える声で尋ねた。彼女もまた、自分の作り上げた音の響きに圧倒されているようだった。


 俺はゆっくりと顔を上げた。言葉を探す。どんな賛辞も陳腐に聞こえてしまいそうだった。そして、『Kanata』でもなく、『師匠』でもなく、ただの『天音彼方』として心からの言葉を伝えた。


「ああ」  


 声が、少し掠れた。


「最高の……曲だ」


「!」  


 春日さんの目にみるみるうちに涙が溢れた。それは悲しみや安堵ではない。自分が信じた道を突き進み、何かを生み出した者だけが流せる、創造の喜びに満ちた美しい涙だった。彼女は嗚咽を漏らしながら、何度も「ありがとうございます」と繰り返した。


 俺は立ち上がりメインPC(Kanata用)の前に戻った。時計を見る。午後十時。  『Anima』のリリースまであと二時間。運命の時が迫っている。今、この瞬間彼女に聴かせるべきものは何か。俺は確信していた。


「春日さん」


「は、はいっ」


 涙声で彼女が返事をする。


「……今から、俺(Kanata)の、『答え』も、聴くか?」


「え?」


 俺は柊さんに送った『Anima』の最終マスター音源データを再生する準備を始めた。彼女が作り上げた魂(デモFinal)。俺が作り上げた魂(Anima)。二つの魂が、今、この場所で本当の意味で出会う。俺たちの、「魂(アニマ)」の本当の「対話(セッション)」が、今、始まろうとしていた。



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