第7話 天才作曲家は師匠(仮)と弟子(仮)と公認(?)される

 地獄にも種類がある。壁越しに聞こえる絶望的なオンチ(物理的ダメージ)が第一地獄だとしたら、今、俺が置かれている状況は間違いなく「精神的ダメージ」の第二地獄だった。


 火曜日、三限。「西洋音楽史」。広い大講義室。俺はいつもの最後列の隅に座っている。だが、いつもと決定的に違うことが一つあった。


「(……視線が、痛い)」


 教室に入った瞬間から、そこかしこでヒソヒソと交わされる会話。明らかに俺(と、俺から三列ほど斜め前に座っている春日さん)に向けられる好奇の視線。


『おい、あれ天音だろ』


『マジだ。隣が春日さん? ……あ、今日、席離れてんな』


『ケンカでもしたのか?』


『いや、でも噂マジらしいぞ。高木が「練習室で密会してた」って言いふらしてたし』


『うわー、マジかよ。あの地味な天音が、春日さんゲットとか……』


(ゲットとか言うな。そもそも付き合ってない)


 原因は言うまでもなく、高木が拡散源となった「大学非公式掲示板サイト」のアレだ。


【速報】作曲科の天音と声楽科の春日さん、ガチで付き合い始める

 あのスレッドは、この数日でさらに加速していた。


『ソースは高木渉の目撃情報』


『放課後、防音練習室で二人きりで密会』


『食堂でも、隣同士でイチャイチャ』


『天音が春日さんのために曲を書いてるらしい』


『↑マジ? どんな曲?』


『てか、春日さんが天音のこと「師匠」って呼んでる説』


(最後の説は合ってるのがまた腹立たしい)


 俺がこめかみを抑え、ひたすら「無」の境地で講義が始まるのを待っていると。


「よお! 今週の『時の人』!」


 隣の席に夏目智也がニヤニヤしながらカバンを置いた。


「うるさい。お前も楽しんでるだろ、智也」


「当たり前だろ! こんな特等席でラブコメの主人公(お前)を観察できるんだぞ? ポップコーンが欲しいくらいだ」


「……帰れ」


「まぁまぁ。で、どうなんだよ実際。春日さんとは」


「どうもこうもあるか。ただの隣人だ。あいつが一方的に俺に『弟子入り』するとか騒いでるだけで」


「弟子入り! ぶはっ! お前、『Kanata』なのに『天音彼方』の『弟子』にされるのかよ! ややこしすぎるだろ!」


 こいつだけは事情を知っている(彼方=Kanata)うえに、春日美咲=白亜凛音であることにも、ほぼ気づいている。だからタチが悪い。


「つーか彼方」と、智也が俺にだけ聞こえる声で続ける。


「例の『歌ってみた』、再生数エグいことになってんな。週末だけで十万再生とかバケモノかよ」


「ああ(知ってる)」


「お前の『魔改造アレンジ』、世間様には『エモい』『神アレンジ』とか言われててマジでウケる。よかったな、ダサいのバレなくて」


「(……余計なお世話だ)」


 俺が智也に(声を出さずに)殺意の視線を送っていると。


「あ、彼方くん! 夏目くん! おはよー!」  


 噂の中心人物、春日さんが教科書を抱えてこっちにやって来た。


 (おい、まさか、こっちに来る気か)


 俺の絶望的な予感は的中した。


「あの、席、ここ、いいかな?」  


 春日さんは周囲のヒソヒソ声に気づいているのか、いないのか。  


(いや、気づいてるな。耳が真っ赤だ)  


 だが、彼女はあえて俺の「隣の席」(智也の、さらに隣)に、ちょこんと座った。


 瞬間、講義室のヒソヒソレベルが一段階上がった。


『おい、見たか?』


『春日さん、堂々と隣に座ったぞ』


『うわ、マジじゃん。公認かよ』


「……春日さん」  


 俺は低い声で彼女に話しかけた。


「は、はいっ! な、なんでしょうか! 師匠!」


「(……だから、その呼び方をやめろ)」


「お前、噂、気にならないのか」


「え? あ、う、うん……。ちょっとだけ、気になる、けど……」  


 春日さんは教科書を抱きしめながら続けた。


「でも! 私は彼方くんに音楽を教えてもらうって決めたから! こんな噂に負けません!」


「(いや、負けろよ。少しは気にしろよ)」


 こいつ、見た目に反して一度決めたらテコでも動かないタイプか。一番、面倒くさいやつだ。


「いやー、アツいね! 師弟愛!」  


 智也が俺たちの間でニヤニヤが止まらないという顔で、ポップコーンを食べるフリ

(エアポップコーン)をしている。


「智也。お前、あとで覚えとけよ」


「おっと、怖い。で? 師匠。今日の『レッスン』は、いつやるんだ?」


「……やらん」


「えー! なんで!?」  


 抗議の声を上げたのは、智也ではなく春日さんだった。


「なんでって……。俺は今週マジで忙しいんだ。それどころじゃない」  


 そうだ。今週末は、俺(Kanata)の人生初の「VCディレクション」が待っている。相手はお前(白亜凛音)だ。そのために、俺はお前のデビュー曲『Luminous(ルミナス)』の全パートの譜面とディレクション用の指示書を完璧に仕上げなければならない。


「そ、そんな……! でも、私、今週末すっごく大事な……あ、いえ、なんでもないです」  


 春日さんが、慌てて口ごもる。  


(そうだろうな。お前の「大事な収録」、俺が全部、仕切るんだからな)


「とにかく今週は無理だ。弟子入りだか何だか知らんが来週以降にしてくれ」


「うう……。わ、わかった……」  


 春日さんは、しょんぼりと肩を落とした。その姿に、講義室の男子たちから俺に向けて(無言の)非難の視線が突き刺さる。  


(俺はいったい何と戦っているんだ)


 その時、講義室の後方の扉が勢いよく開いた。


「セーーーーフ! あぶね、遅刻するとこだった!」  


 高木だ。高木は教室を見渡し、一直線に俺たちの(目立ちまくっている)一角に目をつけた。


「おー! やってんな、噂の三人組!」


 高木は大声でそう叫びながら、俺の前の席にドカッと座った。  


(やめろ。お前のせいで、収集がつかなくなってるんだぞ)


「よお、彼方! 師匠サマ!」


「高木。お前のせいで、掲示板がとんでもないことになってるんだが」


「あー、アレな! 見た見た! いやー、めでたいじゃん!」


「めでたくない」


「それにしても、春日さん!」  


 高木が俺越しに春日さんに話しかける。


「は、はいっ!」


「お前ら練習室で何の曲練習してたんだよ? 彼方に愛の告白ソングでも作ってもらってたのか?」


「ひゃっ!? あ、愛の……! ち、違います!」


「てか、マジで彼方の『弟子』になったのか?」


「え、あ、うん! そのつもり!」


「マジかよ! 彼方のどこにそんな魅力が……。いや、待てよ? こいつ、作曲科だっけ。春日さん、声楽科だろ? ……ははーん! 分かったぞ!」  


 高木が何かとんでもない勘違いをした顔で手を叩いた。


「お前ら、さては学園祭のステージ狙ってんな!」


「「……は?」」  


 俺と春日さんの声が、見事にハモった。


「だろ!? 彼方が作って春日さんが歌う、みたいな! うわ、エモ! 俺、応援するわ!」


「(学園祭? なんだそれ、面倒くさい)」


「そ、そんな、まだ何も……!」


「いいっていいって! 隠すなよ! いやー、青春だね!」


 (ダメだ。こいつの「陽キャ脳」による暴走は、もう誰にも止められない)  


 俺は議論を打ち切ることにした。


「……高木」


「ん?」


「お前、今日の講義のレポート、テーマ何だったか覚えてるか」


「え? レポート? ……あ」  


 高木の顔が、サッと青ざめる。


「やべ。忘れてた。今日、提出日じゃん……」


「そうだな。ちなみに、俺はもう終わってる」


「ま、マジで!? 彼方師匠! 一生のお願い! 見せて!」


「うるさい。講義に集中しろ」


「そんなぁ!」


 俺は、高木の泣き言を無視し、正面の教授に向き直った。  


(……少しは、静かになったか)  


 だが、俺の平穏は長くは続かなかった。


          ◇


 その日の夜。俺はスタジオで『Luminous(ルミナス)』の最終調整をしていた。ディレクション本番で、凛音(春日さん)に「こういう風に歌ってほしい」と伝えるための、俺自身の声で録音した「仮歌(ガイドメロディ)」の制作だ。  


(もちろん、ボイスチェンジャー越しで録音している)


「♪――(Luminousのサビ)」  


 我ながら完璧なデモだ。この通りに歌ってくれれば間違いなく、歴史に残るデビュー曲になる。


(だが、あいつに、これができるか?)  


 俺(彼方)が、あれだけ「聴け」と言い。俺(Kanata)が、VC越しで、あれだけ

「基礎練しろ」と言った。あいつは今ちゃんと「聴く」練習を……。


 ピンポーン。


 (……は?)  


 作業が中断された。こんな時間(夜九時)に誰だ。モニターを見るとそこには、両手に何か黒い物体が乗った皿を持った春日さんが立っていた。


「(……うわ。来た)」  


 俺はスタジオの機材の電源を慌てて落とし(Kanataの痕跡を消し)、スウェット姿のまま玄関に向かった。


「……何の用だ、春日さん」  


 ドアをチェーンロック分だけ開けて顔を出す。


「あ、彼方くん! こ、こんばんは! あの、これ……!」  


 春日さんが皿を差し出してくる。皿の上に乗っているのは以前も見た黒焦げのクッキーだった。  


(いや、今日は、マフィンか? 炭化していて、もはや判別がつかん)


「……お詫び、です」


「何のだよ」


「今日、大学で、高木くんたちに彼方くんのこと『師匠』とか言って、囃し立てちゃって……。彼方くん、ああいうの、嫌いかなって」


「……(嫌いというか、面倒くさいだけだ)」


「あとこれ!『弟子入りマフィン(チョコチップ入り)』です! 食べたら弟子入り許可してくれるかなって……!」


「(……発想が、意味不明だ)」


 しかもチョコチップの原型がどこにも見当たらない。すべてが等しく炭化している。


「……気持ちだけ、貰っておく」


「えー! 食べてよー! ……あ、もしかして、今、作曲中だった?」  


 春日さんが、俺が開けているドアの隙間から部屋の中を覗き込もうとする。


「(……ヤバい!)」  


 部屋の奥には俺の『Kanata』としての仕事場(スタジオ)が、丸見えだ。


「わ、わー! すごい! 彼方くんの部屋、初めて見た! ……あれ? 奥の部屋、なんか光ってない? 機材……?」


「見るな!」  


 俺は慌ててドアを閉めようとする。


「ひゃっ!?」


「いや、違う。今、散らかってるから」


「あ、そっか。ごめんね」  


(……危なかった)


「……あの、彼方くん。本当に今週忙しいの?」  


 春日さんがドアチェーン越しに不安そうな顔で俺を見上げる。  


(なんだよ、その顔は)  


 大学での「清楚系」でもなく、配信での「ハイテンション天使」でもない。ただの不安そうな「隣人・春日美咲」の顔だ。


「ああ。今週末に、デカい仕事の、締め切りがある」  


(嘘は言っていない。『VCディレクション』という超デカい仕事だ)


「そっか……。大事な曲?」


「ああ。多分、俺の(……いや、俺たちの)人生を変える大事な曲だ」


「……!」


 春日さんの目が、一瞬驚いたように見開かれた。


「そっか。彼方くんも、頑張ってるんだね」


「……お前も、だろ」


「え?」


「……いや。なんでもない。とにかく、今週は俺に構うな。集中したい」


「うん。わかった」  


 春日さんは、少し寂しそうに、だが、納得したように頷いた。


「じゃあ、この『弟子入りマフィン(炭)』は、ドアノブに下げとくね! 集中してお

腹が空いたら食べて!」


「(……絶対に食わん)」


「頑張ってね、彼方くん! ……私も、頑張るから!」  


 春日さんはそう言って自分の部屋(502号室)に戻っていった。


「……嵐みたいなヤツだ」  


 俺はドアノブにかけられた不吉な黒い物体(ビニール袋入り)を眺めながら、ため息をついた。


 スタジオに戻る。ヘッドホンを装着し作業を再開しようとした、その時。


 左の壁から、音が聞こえてきた。  


(また、練習か?)


 だがそれは、いつもの「オンチなアストロラーベ」でも、「地道な基礎練」でもなかった。


「♪――」


 (……『Luminous』だ)


 俺が作ったデビュー曲。あいつは、今、俺が(Kanataとして)送ったはずのデモ音源を聴きながら練習を始めたんだ。


「♪――」


(音程が、ズレてる)  


(リズムが走ってる)


 いつもの「悪い癖」が全部出ている。俺がVCであれだけ「聴け」と言ったのに。


「(……クソ!)」  


 俺はイライラしてヘッドホンのボリュームを上げた。  


(今週末。今週末だ。今週末、俺(Kanata)がこいつを根本から叩き直す……!)


 俺の隣人『天音彼方』としての我慢と、作曲家『Kanata』としてのプライドは、今、どちらも沸点に達しようとしていた。


          ◇


 そして運命の金曜日。レコーディング当日。


 朝十時。俺は大学の講義を(当然のように)サボり、自室のスタジオで万全の態勢を整えていた。モニターAには、『Luminous(ルミナス)』のマスタープロジェクト。モニターBには、スタジオと繋ぐためのVC(ボイスチャット)ソフト。そしてデスクの上にはボイスチェンジャー(威厳ボイスVer.)。


「……準備、完了」


 俺がヘッドホンを装着しようとしたその時。ピンポーン。  


(またかよ!)


 モニターを見るとそこには、いつものジャージ姿ではなく白のワンピースに薄手のカーディガンを羽織った、「大学の清楚系・春日美咲」スタイルの完全武装の彼女が立っていた。


「(ああ、そうか。今日は、こいつも『仕事』か)」  


 霧島さんやスタジオのスタッフに会うから、ちゃんとした格好をしているんだ。


 俺はため息をつきながら玄関に向かった。


「なんだよ。俺は今日忙しいって言ったはずだぞ」  


 ドアチェーン越しに低い声で言う。


「あ、ご、ごめん! 分かってる!すぐ終わるから!」  


 春日さんはなぜかそわそわと落ち着かない様子だった。


「……私、今日、すっごく大事な『用事』があって、今から都内に行くんだけど」


「(……知ってる。俺も今からお前と『用事』だ)」


「それで、これ!」


 春日さんがドアの隙間から、小さな「お守り」を差し出してきた。


「……は?」


「近所の神社の、『音楽上達』のお守り! 彼方くん、今週大事な曲の締め切りだって言ってたから! きっと神様が彼方くんに最高のメロディを降らせてくれるよ!」


「…………」  


(……お前)  


(お前が、今から、その『音楽上達』のお守り、握りしめてスタジオに行けよ……!)


 俺はそのお守りを無言で受け取った。


「ああ。サンキュ」


「うん! それだけ! ……じゃあ、私、行ってくるね!」  


 春日さんが、踵(きびす)を返す。


「あ、春日さん」


「?」


「……お前も、その『用事』、頑張れよ」  


 俺は自分でもなぜそんなことを言ったのか分からなかった。


 春日さんは一瞬、キョトンとした顔をしたがすぐに花が咲くように笑った。


「うん! 行ってくる!」


 パタパタと、軽い足取りで彼女はエレベーターホールへと消えていった。


「……さて」  


 俺はドアを閉めスタジオに戻る。机に貰ったばかりの「音楽上達」のお守りを置いた。


 ボイスチェンジャーの電源を入れる。VCソフトを起動する。チャット欄にしばらくしてから霧島さんから『Kanata先生、スタジオ側、準備OKです! 凛音ちゃんも、ブースに入りました!』というメッセージが届いた。


 俺はマイクのミュートを解除し、威厳のある「Kanata」の声で、告げた。


「……ああ。こちら(天音彼方)も、準備完了だ」


 史上最も奇妙な、壁一枚を(実際は数十キロを)隔てた二重のディレクションが、今、始まろうとしていた。


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