第2話 不満の集積罐

2024年10月16日――朝の市役所は、冷房が効きすぎていた。


五階のエレベーターを降りると、廊下の蛍光灯が昨日より白く見える。私は書類ホルダーを脇に抱え、市長室のドアをノックした。


「入ってくれ」


山城市長は、窓際に立ったままだった。皇居外苑の銀杏が、まだ緑の先端を彼の肩越しに覗かせている。


「石黒、2025年1月の試行実施は絶対に成功させる。30分単位の保育は、次期選挙の顔だ」


「承知しました。ただし、現金給付移行の経過措置が――」


「経過措置はお前の腕だ。法律の隙間を埋めるのが、副市長の役目だろう」


市長は振り返らない。私は、背中に向かって一礼し、室を出た。ドアが閉まる音が、冷たい廊下に響く。


――午後、二階政策課。


デスクの上は、プリントの山だ。


『令和6年度妊娠世帯に対する現金給付移行経過措置申請要領(案)』


表紙の文字が、蛍光ペンで黄色く塗りつぶされすぎて、読みづらい。


高梨勇課長が、私の前に突き出した。


「副市長、3月30日の期限は無理です。システムの改修だけでも二か月」


「法律上の期限だ。無理を承知で動く」


「ならば、対象を出生日ではなく『妊娠届出日』で縛りましょう。市長も喜ぶ」


「縛る? 高梨君、これは給付だ。縛るのではなく、届けさせるのが仕事だ」


高梨の眉が跳ねた。彼は、市長の意向を数値に置き換えるのが得意だ。


「出生が令和7年1月以降でも、妊娠届が6年度内なら対象。それを周知しきれないのが、我々の責任だ」


私は資料の端を折った。紙が鋭く音を立てる。


――三階廊下へ向かう階段で、青木美咲とすれ違った。


「副市長、高齢者の苦情、今朝だけで五件増えました。‘現金がいつ届くか、わからない’と……」


彼女の声は、冷房に負けないくらい冷たかった。


「電話記録は?」


「全部、音声で保存してます。七十二歳の女性、‘もう銀行なんか行けない’って泣いてました」


私は、廊下の窓から空を見た。曇り。銀杏の列が、灰色に沈んでいる。


「明日の市議会で、私が答える。今夜、全音声を抜き出してくれ」


青木は、こくりと頷いた。彼女の影が、蛍光灯の下で細く揺れた。


――夕方、市役所裏の神田川沿い。


川面に、赤いカエデの葉が落ちていた。


村井大樹が、タブレットを片手に立っている。


「副市長、これが今朝の電話記録の文字起こしです」


画面には、こう記されている。


『私、令和6年11月に妊娠届を出したのに、‘対象外’って言われました。銀行の手続き、わからない。もう子どもは産めない。これが最後の子なのに』


村井の声が、風に乗る。


「申請書の誤記です。出生日を和暦で書き換えたら、システムが‘7年度’と判定しました」


私は、カエデの下にしゃがみ込んだ。落ち葉が、古い資料のように、色めいている。


「修正は?」


「今夜中に、二百三十通。手作業です」


私は、川に向かって小石を投げた。波紋が、紅葉の色を散らす。


「調整役とは、不満の集積罐だな」


「罐が割れる前に、蓋を開けてください」


村井の言葉が、夕暮れに吸い込まれていく。


――夜、自宅の書斎。


デスクライトだけが、部屋を照らしている。


申請書の山――誤記の箇所に、赤いペンで線を引く。


インクが滲む。紙が破れる。


‘令和6年度’の‘6’が、‘7’に見え隠れする。


私は、ペンを握りしめた。先が折れた。


「なぜ、令和6年度に妊娠した母親たちの涙を、数値で測ろうとするのか」


声が、書斎に響く。猫が、ドアの外で鳴いた。


机の上には、明日の市議会質疑対応資料。


“現金給付移行経過措置の実績と課題”


一枚目に、赤いインクが滲み、破れている。


私は、破片を拾い上げた。


神田川の赤いカエデの葉が、頭に浮かぶ。


「調整役は『不満の集積罐』だ。だがこの罐が満たされる前に、あの母親たちの心を少しでも軽くする術を、明日見つける」


私は、新しいペンを取り出した。


インクは青だ。


明かりを消し、窓を開ける。


雲が切れ、細い月が出た。


市役所の方角――五階の市長室の灯りは、まだついている。


私は、破れた資料を胸に押し当てた。


赤い滲みが、シャツに移る。


それでも、明日の朝、市役所のエレベーターは動き始める。


私は、罐の蓋を、そっと開けてみることにした。

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