嫌いな笑顔

ヨリ

放課後に灯る光

 体育祭の写真。

 私は笑っていた。


 母のスマホで撮られた一枚。

 その隣には、担任の先生がいた。


 冗談も通じないほど真面目で、

 いつも私たちをまっすぐに見ていた。

 三年間、私を見守ってくれた人。


 高校の入学式で先生に出会った。

 最初の挨拶は淡々と進み、

 笑いも冗談もなかった。

 隣のクラスからは、楽しげな声が聞こえる。


「はぁ」


 窓の外では、先輩たちが部活動をしていた。

 この先生で一年を過ごすのか。

 担任ガチャ、はずれ。

 そう呟いて、心の奥に小さな繭が生まれた。

 私たちの担任は社会の先生だった。

 黒板には、数字と人名が静かに並んでいく。


「退屈」


 みんなが懸命にノートをとる中、

 私のページは真っ白だった。

 書く理由が見つからなかった。

 そして、成績も低いままだった。


 一年が過ぎ、二年生になった。

 教壇には変わらず先生が立っていた。


「おもしろくない」


 人間関係も現実も、何もかも気に入らなかった。

 私は悪くない。環境が悪いのだ。

 そう信じることで、心を守っていた。


「今年も一緒だな。よろしくな」


 笑顔で言われて、腹が立った。

 何がそんなに嬉しいのか。

 夜になると、なぜかその笑顔が思い出されて眠れなかった。


「腹が立つ」


 次の日も、その次の日も、

 笑顔ばかりが記憶に増えていった。


 テストの返却日。


「今回もダメだったか」

「そうですね」


 十八点。何もしなかったわけではない。

 やる気を出させない教師が悪い。私は悪くない。


「次は一緒に頑張ってみないか?」

「まぁ、気が向けば」


 勉強をしたくないわけではなかった。

 ただ、先生という生き物が気に食わなかった。

 私の苦労を知らないで「頑張れ」と言うだけの職業。

 虫唾が走る。


「よし、じゃあ明日の放課後、一緒に勉強しようか」

「わかりました」



 なぜそう答えたのか、今でも分からない。

 放課後、教室に残る。

 私だけではなかった。数人の生徒が机に向かっていた。


「私だけじゃないのかよ」


 小さくつぶやいたとき、

 先生がプリントの束を抱えて戻ってきた。

 顔には、あの気に入らない笑顔が貼りついている。


「じゃあ、みんなこのプリントをやってみて」

 『まとめプリント』と書かれた紙。

 説明を読み、名称を書くだけ。単純で退屈な問題。

大化の改新、征夷大将軍……どこかで聞いたような言葉を埋めていく。

 二割しかできなかった。

 どうせこいつも落胆する――そう思っていた。

 

「二割もできているじゃないか」


 その声に顔を上げた。

 先生は、八割が白紙のプリントを嬉しそうに見つめていた。

 カーテンから漏れた光が先生の顔を照らす。

 

「なんで?」

「え?」


 驚いた顔が返ってくる。


「なんで、こんなに白紙なのに嬉しいんですか」


 気がつけば、叫んでいた。

 偽善だと思った。怒られた方が楽だった。


「勉強が苦手な君が、ここまで努力したことがすごいじゃないか」


 なぜか、涙が流れた。

 悔しくも、悲しくもない。

 ただ、胸の奥がほどけていく音がした。


「あと二週間、一緒に頑張ろうな」


 その言葉が、涙に体温を与えた。

 ノートの余白が光を帯びていくように埋まっていった。

 面白いわけじゃない。

 でも、書かずにはいられなかった。

 黒板の文字を写真のように書き留めた。

 放課後に毎日同じプリントを解いた。

 先生は淡々と説明を続けた。冗談ひとつ言わない。

 なのに、明日が楽しみになっていた。

 テストが終わった。

 もうプリントがない。そう思うと心が剥がれ落ちた。

 五十点。私にしては上出来だった。


「頑張ったな」


 その声を聞いたとき、心の奥に小さな光が灯った気がした。

 家で母に自慢した。

 「もっと頑張りなさい」

 いつもの言葉。

 面白くない。

 先生なら、なんて言うだろうか。

 気づけば、あの笑顔を思い出していた。


「おはようございます」


 自分から挨拶したのは、人生で初めてだった。


「おはよう」


 少し驚いたように間をおいて、

 先生の笑顔が返ってきた。

 それから毎日、挨拶をした。

 笑顔が日課になった。

 先生の目が充血しているだけで、心配になった。


「先生、写真撮ろうよ」


 体育祭の朝、何気なく言っていた。


「いいぞ!」


 母がスマホを構える。

 シャッターの音が響いた。

 その瞬間、私の頬にも笑顔が宿っていた。

 三年生になった。

 先生は変わらなかった。

 悪くない気がした。

 大学受験を目指し、先生は毎週プリントをくれた。

 採点の欄には、小さなスタンプ。


「調子狂うな」


 そう呟きながらも、私は笑っていた。

 九十点。高校最後のテスト。


「よく頑張ったな!」


 先生が嬉しそうに解答用紙を渡す。

 その指先がわずかに震えて見えた。

 自然と「ありがとうございます」と言えた。

 大学にも無事、受かった。

 先生は泣いて喜んだ。

 大げさだと思いながら、悪い気はしなかった。


 卒業式の一週間前。


「実は、先生は結婚しました」


 終礼で指輪を見せた。

 その笑顔が、胸の奥で静かに砕けた。

時計の音だけが激しく響いた。


「奥さんはどんな人ですか?」

「馴れ初めは?」


 クラスメイトの声が遠のいていく。

 鞄をつかみ、教室を出た。

 意味もなく走った。

 涙が止まらなかった。

 理由は分からない。

 心の灯に氷が投げ込まれたような。

 冷たい涙が流れた。


 私の先生のはずだった。

 いつもの笑顔は、誰かの幸せに溶けていた。


「何が幸せだ」


 部屋でつぶやいた声は、

 光の届かない場所で消えていった。

 スマホを開く。

 体育祭の写真。

 私は笑っていた。

 けれど、今はもう笑えそうになかった。

 次に会うのは、卒業式。

 最後の笑顔は、もう隠れてしまった。

 卒業式の日。

 私の笑顔は欠席していた。

 涙があふれた。


「先生、幸せにね。今までありがとう」

「ありがとう。大学でも頑張れよ」


 二月の冷たい風が涙をさらった。

 頬を伝う、その冷たさの奥に、

 私の声が少しだけ強くなっていくのを感じた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

嫌いな笑顔 ヨリ @yori-2024

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画