熱意の周波数
須藤
〜更迭された名将の再起〜
序章:冷たい辞令と錆びた喉
彼の指導のもと、チームは甲子園の常連校となり、最高成績は夏の大会準優勝。誰もが認める名将だった。
部屋には、長年愛用した野球道具の革の匂いと、葉巻の煙が漂っている。だが、その匂いも、胸に広がる虚無感を消してくれない。
更迭の理由は「時代にそぐわない暴力的な指導」、具体的にはパワハラだ。
「先生の情熱は分かります。ですが、今はそういう時代ではない」
校長室で受け取った辞令の紙は、指先から体温を奪っていった。校長は世間体を気にして、彼の功績すべてを裏切った。あの時の平板な声が、今も耳の奥で反響している。
不動は、誰にも会わず、何も語らない。かつてベンチから怒鳴り続けた喉は、今は砂を噛んだように
2. 教え子たちの沈黙
更迭後、かつての教え子たちが何人も訪ねてきた。
彼らは知っている。不動の指導が自分たちの「骨」になったことを。当時は理不尽だと涙を流したことも、今となっては人生の「地金」になっていることを。
彼らは家の前に立ち、庭に水を撒く不動に声をかけようとした。しかし、不動は決して顔を上げない。かつてグラウンドで泥水を飲み交わした教え子たちを、見えない壁で隔てるように無視し続けた。
不動は分かっていた。彼らは自分を「間違っていない」と擁護してくれるだろう。だが、その擁護は現代社会の前では無力だ。彼らをこれ以上、巻き込むわけにはいかない。
だから会わなかった。彼らが置いていった古いサインボールを、夜中に一人、そっと手に取る。ボールはかつて泥にまみれた時の重さを失い、羽のように軽い。不動の胸の奥だけが、その軽さに抗おうとしていた。
3. 回想:切り取られた三十秒
更迭の原因となった映像。それは、誰かのスマホで録画された、わずか三十秒の動画だった。
真夏の炎天下、グラウンドの
不動は、練習日誌を右手で握りしめ、一直線に部員のミズキに向かって歩み寄る。その歩調は速く、威圧的だ。ミズキは頭を下げたまま、首筋に汗の玉を光らせている。
不動はミズキの目の前に立ち止まると、日誌を突きつけた。二人の顔の間に、薄い紙の境界線だけがある。
不動の口は激しく動くが、音声はゼロ。彼は日誌のページをめくり、あるページをミズキに突きつける。太陽光が紙面に反射し画面を白く焼き切る。次の瞬間、彼は日誌を両手で掴み、乾いた紙を引き裂いた。破片が白い雪のようにミズキの顔の横へと散っていく。
ミズキは両手を握りしめ顔を上げた。頬には、土と汗の層を伝って涙が流れる筋が見える。彼の唇が動くが、声は聞こえない。ただ、肩が小さく震え続けている。
周りの部員たちは全員、動きを止めてその様子を見つめている。誰も介入しない。
映像は、ブレがさらに大きくなり、地面の土を数秒映した後、途切れた。
その無音の三十秒間は、彼の「指導の熱」を完全に剥奪し、ただの「暴力的な行動」としてSNSを通じて世界に提示した。
4. アカリの提案
更迭から三年が経っていた。
そんなある晩、かつて野球部のマネージャーだったアカリが訪ねてきた。彼女は今、IT企業の社員だ。「ビジネス」という名目で、強引に扉をこじ開けた。
「先生の『熱』を、活かせる場所があります」
アカリが持ってきたのは、「魂の喝! デジタルコーチング」という企画書だった。
「現代の若者は、先生が言う『本気の喝』を誰も入れてくれない。彼らは、先生の本物の火を求めています」
企画は、不動がオンライン上で、受験生やアスリート志望者に対して、顔も名前も伏せた状態で一対一のメンタル指導を行うというもの。
「物理的な接触は一切ありません。先生の言葉と声の熱量だけが商品です」
不動は、アカリの持つマイクとヘッドホンを見た。
「俺の熱は、土の匂い、汗の味、そして拳の重さがあってこそだ」
不動は呟いた。
「違います。先生の熱は、その声の周波数にあります。ここでなら、誰にも『暴力』だと誤解されずに届けられるんです」
アカリの言葉に、不動の身体が微かに震えた。
5. 声の再生
不動は、渋々マイクの前に座った。目の前のマイクは金属の塊だ。彼の吐く息も、怒鳴る声の飛沫も、フィルターが遮断する。
ヘッドホンから、依頼者の緊張した声が聞こえてくる。
「受験まで一週間ですが、どうしても集中できません……」
不動は目を閉じた。かつてグラウンドで感じた、土の感触、夏の空気、すべてを思い出す。
「いいか、お前……」
不動は叫んだ。それは怒号ではなかった。圧縮され、純化されたエネルギーだ。
「集中できないのは、逃げているからだ!お前が今座っている椅子を、自分の熱で溶かしてみろ! それができないなら、明日も、明後日も、同じ場所で腐った夢の匂いを嗅ぐことになるぞ!」
マイクを通じて伝わった彼の声は、不必要なノイズを濾過され、純粋な周波数としてヘッドホンに叩きつけられた。
何回かの熱い言葉が交わされた後、ヘッドホンの中で依頼者が嗚咽する音が聞こえる。だが、それは屈辱の涙ではない。
「ありがとうございます……。初めて、本当に怒られました……」
セッションが終わると、不動は全身から力が抜けるのを感じた。喉に、再び血の味がした。
彼は悟る。自分の指導が「暴力」という物質的な形式を失ったことで、初めて「魂」として伝わったのだと。
6. 新しい導線
数ヶ月後、「不動巌の喝!」は、Z世代の間で評判になっていた。
彼はもう、グラウンドには立たない。代わりに、自宅の防音室で、ヘッドホンをつけ、マイクに向かって話し続ける。彼の指導法は、もはや「非効率な精神論」ではない。「メンタルの限界を突破させる音声コンテンツ」だ。
ある日、不動の携帯に一通のメッセージが届いた。送り主はミズキだった。
「先生、ぼくは今、教育実習中です。先生の新しい活動を知りました。時代は変わっても、先生の熱は変わらないんですね」
不動は、静かに画面を見つめた。そして、短く返信した。
「お前も、熱を持ち続けろ」
彼は、ふと自分の手を見た。この手で、かつて選手の肩を叩き、ノートを引き裂いた。
今、彼の熱意は、この手ではなく、一本の細いマイクケーブルを伝って、遠く離れた若者のヘッドホンに届けられている。
時代は、指導者を孤独な檻に閉じ込めたのではない。その檻の壁は、熱を純粋に濾過するためのフィルターだったのだ。
不動は、静かにマイクの電源を切った。
マイクケーブルの細い線は、もはや鎖ではない。それは、暴力という「物質」から解放された、純粋な「声の炎」を運ぶ導線だった。不動の熱意は、時代という壁を貫通し、新しい世代の心に届き続ける。
不動巌は、ようやく指導者として救済されたのだ。
熱意の周波数・了
熱意の周波数 須藤 @blendyz
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