第10話 タネは芽吹き
ノエルは机に突っ伏し、深い溜息を何度も吐いた。
「……仕事が手につかない」
机の上の書類は、まるで“現実”そのもののように重かった。
湯気の消えた飲み物に触れても、冷たさが胸に沈むだけだった。
「先輩は……今、どこで何をしてるんだろう」
ぽつりと漏らした声は、虚空に吸い込まれた。
そのとき――
魔道端末が鋭く震え、画面が光を放つ。
ノエルは条件反射のように手を伸ばした。
さきほどまで途切れていた集中力が、瞬間だけ鋭く復活する。
しかし、表示された名前を見た瞬間、胸が一気に凍りついた。
――デントリエス。
『ダグラスが自白した。調書を添付する。確認しておくように。』
ノエルの呼吸が浅くなる。
「……自白……?」
震える指先で資料を開いた。
『私は、とんでもないことをしました――
休みの日、眠気のまま料理をしてしまった。
その後の記憶がありません。
……きっと私が火を起こしたのです。』
視界が揺らぐ。
父親が眠い目をこすり、幼い息子に笑われながら台所に立つ姿。
そんな光景が脳裏に浮かんだ。
だが同時に、胸の奥底で“理性”が鋭く警鐘を鳴らした。
――これは違う。
――これは「真犯人」が成立させたい物語だ。
ノエルは机を握りしめる。
自白の文字が心臓を締め付けた。
「先輩は……第三者の関与を疑っていた……。
なら……この自白は、誰かが――」
喉の奥が焼けるように熱くなった。
その瞬間。
「ノエルちゃん、頼んでた資料はできたかな?」
現実へ引き戻すようなハルヴァの穏やかな声が響いた。
ノエルは慌てて資料を差し出す。
「で、できました……!」
「おお、早いねぇ」
ハルヴァは笑みを浮かべたが、
ノエルのわずかな震えに気づいたのか、表情を和らげた。
「……先輩って、今どこにいるか……ご存知ですか?」
ハルヴァは一瞬だけ目を伏せた。
「さてね。あいつは……自由に動くから」
笑ってはいるが、声には疲れと諦観が滲んでいた。
「正義感……なのかな。
突き進むあいつを、僕は止めることができないんだよ」
ノエルは拳を握る。
今は、その“正義感”がとても遠く感じた。
「……私、カタリナさんのところへ行ってもいいですか」
ハルヴァの眉がぴくりと動く。
沈黙。
支部長としての責任と、部下への信頼がせめぎ合う時間だった。
やがて――
ふっと目を細め、低く呟く。
「君たちは……自分の正義を持っているんだね」
ノエルをまっすぐ見つめたあと、
ハルヴァは大きく息を吐き、決断した。
「ノエル補佐官、自由行動を許可する。
危険を感じたら必ず連絡を」
「……ありがとうございます、支部長」
ノエルの目に、強い光が戻る。
鞄を掴み、迷いなく扉へ向かった。
その背中を見送りながら、ハルヴァはぽつりと呟く。
「……似てるよ。やっぱり、あいつに」
遠ざかるノエルの足音が、
かつての“失われた補佐官”の姿と重なる。
ハルヴァは小さく笑った。
「……部下の成長ほど、怖くて……嬉しいものはないね」
室内には、重たい静寂だけが残された。
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