美しい、とあなたが言うなら
マツリカ
第1話
ラピスラズリの瞳に流れるような黒髪。
小柄で柔らかな肢体を包むのは、シンプルなダークブルーのルームドレス。
薄闇の中で雪のように淡く光る白い肌とは対照的に、鮮烈な赤い唇が妙に蠱惑的な少女の名は、リーゼロッテ・ルスカ。
今年で18歳になる、ルスカ侯爵家の一人娘である。
ここに観客がいれば、瀟洒なソファに深く腰を沈め、物憂げに中空へと視線をさまよわせる美しい姿はまるで物語のワンシーンのようだと語るだろう。
◇ ◇ ◇
この世界は、どうやら大いに狂っているらしい。
初めて自分の姿を鏡で見たときから、その感覚は変わらない。
お嬢様は変わっていらっしゃる――そんな遠回しな言葉も、私には肯定の証だった。
世間の美の基準は、私の感覚とは正反対だ。
ぼんやりと重く淀んだ頭の靄を払うように、頭を左右にゆるく振った。
視界の端に揺れる長い髪の影を少しばかり煩わしく思いながら重い腰を上げる。
そのまま部屋の隅にひっそりと隠されるように置かれた姿見の前に立つ。
室内はやや薄暗いが、鏡に映った自分の姿を確認することはそう難しくない。
精緻な細工の施された鏡の中からこちらを見返すのは、世に絶世の美姫と讃えられる私自身だ。
垂れた一重の瞼は重く、奥に隠れた濁った青を覆い隠す。
鼻は低く丸く、唇は小さく突出し、不自然なほどにぽってりと赤い。
赤い唇とは対照的に、血管が透けて見えそうなほど病的に青白い肌。
それらを縁取るのは、仄かに青みを帯びた黒髪。
脂肪の付きやすい体質で、豊満といえば聞こえの良い体型。
関節が消えて、まるで赤子のようにふくふくとした丸い手。
いったいこれのどこが絶世の美姫だと、鏡を見るたびに奥歯を噛みしめる。
それでも人々は口を揃える。羨望や嫉妬を込めて、「ああ、なんと美しい」と。
嫌味ではなく本心からそう言っているのだと気づいたとき、この世界が狂っていると知った。
誰からも誰よりも、美しいと讃えられるリーゼロッテ・ルスカ。
しかし幸か不幸か、彼女の美的センスは世界基準より大きく外れたところにあったのだ。
リーゼロッテは世における美の特徴を「狂っている」と評していたが、世界の大多数から見ればリーゼロッテの方がよほど狂っているのだが。
一体どこで生まれた価値観なのか、世における美の特徴をそのまま具現化したような容姿を持つ私は、皮肉なことに己の一切を美しいとは感じなかった。
美しいとされる自分を、美しいと思えない。
だからといって口に出せば、たちまち方々からの悪意に身を貫かれることになるだろう。
閉塞的な貴族社会で幼い頃からそれを知っていた私は、沈黙を選んだ。
美しいとされる自分を美しいと感じることができない。
なんて贅沢な悩みでしょう、と苦笑をこぼしながら、幾度となく繰り返した思考の波に飲まれていきそうになる。
そんな思考を現実へと掬い上げるように、コンコンと控えめなノックの音が部屋へ響いた。
その音を聞いて、反射的にパッと時計へ目を向けると、屋敷を出る刻限が迫ってきている。
それを一層憂鬱に思いながらノックの主へと声をかけた。
「どうぞ」
「…失礼します」
音もなく開かれるドアから現れたのは侍女のアリシアだった。
淡い金髪を一つにまとめ、春を思わせる新緑のようなライトグリーンの瞳が印象的なスラリとした長身の女。
アリシアは主に向かって軽く一礼をすると、淡々とした表情を変えることなく言う。
「そろそろ支度のお時間です」
「…そうね、いい加減準備をしないと間に合わないわ」
心底憂鬱ね。
アリシアの手を借りて柔らかなソファから腰を上げる。
「お嬢様、ドレスのご希望は?」
「なんでもいいわ。アリシアが決めて」
「いつもはご自分で選びたがるじゃないですか、夜会の日はいつもそうですね」
アリシアは苦笑を浮かべる。
夜会の日には決まって繰り返されるこの会話も、もはや恒例行事となっていた。
「でしたら先日奥様に頂いたダークブルーのドレスはいかがですか?星空のように美しい布地の。まるで月の女神様のようで、よくお似合いでしたよ」
「ならそれでいいわ。ネックレスはお父様に頂いたパールのにしてね」
お母様のドレスだけを着たらお父様が拗ねちゃうわ、とほんのわずかに微笑むと、アリシアも微笑を返す。
「ではそのように。…髪型はどうしますか?」
「うーん、リボンの編み込みにしようかしら。ほら、先日買ったサテンのリボン」
「素敵ですね。お色の希望はありますか?」
「そうねぇ、イエローかホワイトか…。アリシアはどちらがいいと思う?」
「そうですねぇ…」
一度合わせてみましょうか、とアリシアは手元のボックスからリボンを2本取り出した。
癖のないまっすぐな黒髪とリボンをあわせて、手際よく編み込んでいく。
アリシアの手が止まるころを見計らって、声をかけた。
「…どうかしら?」
鏡は嫌いだ。
身支度の際に最後の確認を除いて鏡を見ないことにしている。
それを知るアリシアも鏡を勧めることはしない。
「どちらも大変お似合いですが、ドレスのお色とあわせるとイエローが良いかと」
「アリシアの目利きなら間違いないわね、イエローにするわ」
「かしこまりました。ドレスの用意をしますので少しばかりお待ちを」
綺麗な動作で一度礼をし、アリシアがクローゼットからドレスを持って戻ってくる。
夜空に光を編みこんだようなダークブルーのドレスに袖を通しながら、その手伝いをするアリシアの顔を何ともなしに眺めた。
目尻のきゅっと上がった丸い瞳に、すっと通った高い鼻。
薄い唇はアプリコットのような色合いで、白い頬にはうっすらとそばかすが散っている。
淡い金髪にペリドットのような瞳、スラリとした肢体が相まって、まるで気高い獣のような印象を受ける。
アリシアこそが驚くほどの美人なのに、と心中でため息を吐いた。
こういう人こそ美人と呼ぶべきだ、本来なら。
この世界において真逆に近い価値観を持つ私がそう感じるということは、世間では全く真逆の評価を受けているという事になるのだけれど。
「…なにかついてますか?」
知らず知らずのうちにまじまじとアリシアの顔を眺めてしまっていたらしい。
思わず見惚れてしまった、と言ったところでアリシアは変わらず信じないだろうし、胡乱げな顔でこちらを見るだけだろう。
嫌味だと思われても困る。
「何でもないわ。さ、次はお化粧をお願い。」
「かしこまりました。」
足に纏わりつくドレスの裾を慣れた仕草で捌きながら、椅子に腰かけた。
アリシアがカートを引きながらリーゼロッテの背後へ回り、慣れた手つきで髪を結い上げ始める。
「……。」
広い自室に沈黙が満ちる。
リーゼロッテはあまり積極的に会話をするタイプではないし、アリシアもどちらかと言えば寡黙な性格だ。
とはいえ、アリシアとの付き合いはもうずいぶんと長いし、今更その沈黙を苦と感じるようなことは無い。
ぼんやりと中空を見つめたまま動かなくなったリーゼロッテに声をかけることもなく、アリシアは慣れた手つきで身支度を整えていく。
髪を結い、雪のように白い肌に頬紅を叩き、赤い唇により赤い紅を差す。
決して短くはない時間をかけて、身支度を終わらせた。
「さ、お嬢様。できましたよ。」
「ありがとう。」
その言葉を合図に椅子から立ち上がり、鏡の前へ足を向けた。
普段は手触りの良い天鵞絨で隠されている鏡の前に立ち、さっと頭の先からつま先まで視線を走らせる。
豪奢な鏡の中には、美しいドレスを纏う太った女が不愛想な顔つきで立っていた。
丸い体を包む夜空のドレスも、編み込まれたイエローのリボンも、地味な顔に施された化粧も、似合わない。
だから鏡は嫌いなのだ、と苦々しく思う。
周囲の声だけ聴いていれば、自分は絶世の美女であると夢を見続けることができるのに。
鏡はいつだって現実を突き付けてくる。
鏡を憎々しげに睨みつけながら、思わず言葉が漏れた。
「…こんな女が美しいだなんて、おかしな世界だわ」
「…お言葉ですが、おかしいのはお嬢様の頭の方では?」
鏡の中の女が、私の言葉を嘲笑うように口角をわずかに上げた気がした。
リーゼロッテの苦みがにじむ声に、アリシアが侍女としては些か不遜な言葉を返す。
「お嬢様程お美しい方、そうそういらっしゃらないと思いますけどね。今日だってまるで月の女神様のようです。…何度も申し上げますが、本当に変わった目をお持ちですね」
「私はきっと、正しい目をお母様のお腹の中に置いてきてしまったのかもしれないわ」
確かに、この甘く優しい世界の中で生きていけたらそれはどれほど幸せな事だっただろうかと思わないことも無い。
しかし現実の私の目はそうではないし、美人として振舞おうにも生来の卑屈な性質がひょっこりと顔を出してしまうのだ。
「さ、もう行きましょう。馬車を正面まで回してくれる?」
「既に手配済みです」
「流石ね。私の侍女は優秀だわ」
沈みかけた気分を無理やりぐっと引き上げて笑う。
もったいないお言葉です、とアリシアも笑った。
鏡の中で微笑む“絶世の美女”をもう一度睨みつける。
――やっぱりおかしい、この世界は。
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