ドジな詩人の永遠の戦場
Tom Eny
ドジな詩人の永遠の戦場
ドジな詩人の永遠の戦場
1. 虚構の成功と致命的なドジ
七海(ななみ)は、ネットの動画投稿サイト「V-Stream」で急速に人気を集めるクリエイターだった。彼女にとって「細かいこと」とは、自分の**「詩(魂)」を邪魔する余計なノイズだと信じていた。絡まったケーブルの山、左右違う靴下——彼女のドジな日常**は、完璧主義的な技術への抵抗であり、不完全な自己を肯定する彼女の哲学そのものだった。
彼女のPC周りは、黒い蛇のように絡み合ったケーブルの山。デスクには、乾いたコーヒーの薄茶色の染みが広がり、左右色が違う蛍光色の靴下が転がっている。コーヒーカップを掴んだ指先から力が抜け、ぬるい液体がデスクに広がるが、その湿った感触にすら七海は頓着しなかった。
七海は、数字が上がると**「天使の微笑み」、下がると「悪魔の慟哭」**という顔芸をする、数字の奴隷と化していた。
七海がアップロードした原曲は、風呂場で思いついたボイスメモ音源だった。ファイルには、微かな水滴の「チャプ」という音と、七海自身の**「フンフン」という鼻歌**がノイズのように混じっていた。セキュリティ設定を見た瞬間、七海はためらいなく宣言した。「こんなの覚えるの面倒くさくてドジ踏んじゃうだけじゃん」。
パスワードを安易に「デビュー曲のタイトル」に設定し、二段階認証はスキップした。
彼女は、その選択が何を意味するか、全く知らなかった。
七海が知らないうちに、DTMer P(プロデューサー志向のファン)がアカウントに侵入。Pの編集は、すべての音が壁のように分厚く、低音が「ドンドン」と胸を圧迫するような、完璧な**「音圧の暴力」だった。これが大ヒットし、七海は「天使の微笑み」**を浮かべた。
2. 数字のジェットコースターと愛の代理戦争
しかし、その天使の微笑みは長くは続かなかった。
七海の数字は、ある日を境にジェットコースターのように乱高下を始めた。 七海の知らないところで、DTMer S(ソウル至上主義のファン)がアカウントに侵入。Sの上書きは、高音域が**「シャリシャリ」と耳を刺すような粗いノイズが乗り、元の音源のチープなプリセットの「ピコピコ」という響き**だけが強調されていた。
七海はパニックに陥った。ジェットコースターのような数字の乱高下に、彼女の内面では「私の才能が不安定になったのだ」という虚構の絶望が広がった。彼女は**「悪魔の慟哭」**の顔でコメント欄を見るが、技術論を「細かいこと」として避け、「ノイズゲートって何?警備員かな?」と解釈し、論争から目を背けた。
PかSが上書きするたびにパスワードは変更されたが、七海は「面倒くさい」と、その都度、「デビュー曲のタイトル」に戻すという、自衛に対する極度の拒否反応を続けた。この**「ドジ」こそが、二人の哲学的な対立を永続させる代理戦争**の装置だった。
3. リアルへの侵食とドジな情報流出
七海が焦燥感に苛まれる中、「代理戦争」はデジタルからリアルへと侵食した。小規模なライブイベントでのこと。 一曲目の「Pの完璧な人間調教版」から、二曲目に移った瞬間、「Sのベタ打ちの粗い音源」に突然切り替わった。観客席の熱狂が、七海に照明よりも強く、直接的な熱として押し寄せる。七海は、生身の観客の戸惑いという生々しい結果を前に、ステージ上で完全にフリーズした。
音がない。
ただ、心臓の動悸だけが、耳の奥で壁を叩いていた。
チャンネル閉鎖を決意した七海は、親友に最後の相談をするためPCを開いた。「私の才能は脆かった」と語る七海に、友人は問う。「パスワード、何にしてるの?」「デビュー曲のタイトルだよ。だって、あれ、覚えやすいからドジらないじゃん…」
友人がPCを借りて何か操作をしようとした瞬間、七海がドジって絡まっていたマウスのケーブルに足を引っ掛けた。画面が切り替わった瞬間、白く光るモニターに、PとSの血のような赤い文字での罵倒の応酬が、閃光のように一瞬だけ焼き付いた。
七海の指先から、熱が消えていった。
友人は息を飲んだ。「…あんたの**『才能の波』だと思ってたものは、あんたが気づかないところで、二人の元・親友がコンテンツを上書きし続けた結果だよ!そして、このドジなパスワード設定こそが、あんたの『愛すべき不完全さ』を危険な不正な介入に晒したんだよ!**」
4. 真実の露呈と自衛の啓示
七海は力なくパスワードを変更し、二段階認証を設定した。
指先は、冷たさでわずかに震えていた。
この**「細かい作業」こそが、自分の「ドジな詩」と熱狂的なファン(愛)を守るための、最も基本的な「完璧な自衛」であることを、彼女は初めて自分の意志で実行した。エンターキーを打った瞬間の指の確かな感触が、彼女に「自衛」**という行為の重さを教えた。
5. 再出発とドジな誓い
パスワードは変わった。だが、戦場そのものは変わらなかった。 DTMer Sが最後に上書きした**「ベタ打ちの粗削りな原曲」が固定された状態を、PとSの信奉者たちが「商業性」と「芸術性」の攻防の場**として利用し続けた。
大衆的な再生数という**「数字」は落ちたが、コメントの量という「アクティブな数字(エンゲージメント)」は維持されていた。七海は悟った。この熱狂的な攻防の上に存在する不完全な自分の「詩」**こそが、真の愛着であると。
PCを閉じ、立ち上がった七海は、まず床に絡まりきった黒いケーブルの山に手を伸ばし、それをゆっくりと解き始めた。
次の曲のファイルを保存しようとするが、ファイル名をドジって「カチカチヤマ」と打ちたいのに**「カチチヤマ」**と打ち間違えた。
「…あ」
七海は、苦笑いした。そして、初めて心から笑った。
『細かいことは気にしない』ドジな自分は変わらない。だが、その不完全さ(詩)を、誰にも、二度と、邪魔させない。自衛の盾を持って、自分の意志で愛していくと強く誓った。
次の曲のパスワードを、彼女がまた「カチチヤマ」に戻してしまうかどうかは、誰にも分からなかった。
七海は、その永遠の戦場の上に、不完全だからこそ愛おしい自分の「詩」をそっと置き続けた。
そして、彼女の新しい「詩」がベタ打ちのままアップロードされるのを、Pがどんな「愛」をもって迎えるのか、Sがどんな「魂の叫び」で応えるのかを、誰も知る由はなかった。
ドジな詩人の永遠の戦場 Tom Eny @tom_eny
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