EP 20

最終話 歴史の傍観者

1944年(昭和19年)12月1日。

スイス・ジュネーブで「日米停戦協定」が調印された日、日本は熱狂と混乱の渦にあった。

「勝った!」「ウルシーの神風だ!」

国民は、本土が無傷のまま訪れた「勝利」に沸き立った。彼らは、サイパンで栗林が稼いだ時間も、仁科博士が開発した「旭光(原爆)」の真実も知らない。ただ、東條総理の指導と、山本長官(奇跡的に生還した英雄)の奇襲作戦が、米国を屈服させたと信じていた。

その「勝利」の祝賀ムードの頂点、12月10日。

総理官邸。

坂上真一(東條英機)は、山本五十六と二人きりで向き合っていた。

「…(東條)総理。本当に、よろしいのですな」

山本は、目の前の男の決意を確かめるように言った。

「貴官こそが、この国の真の救世主だ。国民は、貴官を神と崇めるだろう」

「やめてくれ」

坂上は、東條の顔で、45歳の海上自衛官の疲れた笑みを浮かべた。

机の上には、もう残り少なくなった珈琲飴の瓶が置かれている。

「俺は、東條英機だ。この戦争を『始めた』男だ。それは、ウルシーの一発では消せん事実だ」

彼は、窓の外の、まだ焼けていない東京の街並みを見た。

「俺の役目は終わった。…この国の『戦後』を導くのは、死の淵から戻った英雄(きみ)の役目だ」

坂上は、一枚の辞表を山本に差し出した。

「『ニ号研究』と『旭光』に関する全ての資料、そして第二号(まだ影も形もない)のブラフ(脅し)の全権は、君に委ねる。米国は、我々の『核』を恐れて、必ずや自国の核開発を急ぐだろう。本当の戦争は、これからだ。…『撃たせない』戦争がな」

山本は、その辞表を、重い歴史そのものを受け取るかのように、両手で受け取った。

「…承知した。坂上…いや、東條総理。貴官の『合理』、この山本五十六が、命を懸けて未来へ繋ごう」

その日、東條英機は「健康上の理由」を以て、内閣総理大臣及び陸軍大臣の全ての職を辞した。

後任には、国民の熱狂的な支持を受ける「生還した英雄」山本五十六が就任。山本は、強力な指導力で「核の抑止力」を背景にした戦後復興と、米国との冷たい和平交渉(核軍縮交渉)へと舵を切っていく。

坂上真一の、第二の人生が始まった。

彼は「東條英機」という名前を半ば捨て、人里離れた伊豆の小さな屋敷に隠棲した。

山本が手配した、最低限の護衛という名の「監視」の中で、彼は歴史の傍観者となった。

彼は、自分が変えた世界のニュースを、ラジオと新聞だけで見守った。

1945年、米国がニューメキシコで核実験に成功。「第二次ウルシー危機」が勃発するが、山本の冷静な外交交渉により、日米間での「核相互不使用条約」が締結される。

1947年、ソ連も核実験に成功。世界は、日・米・ソによる「三極の冷たい平和」の時代へと突入した。

1950年代、日本は「核保有国」としての微妙な立場を維持しつつ、奇跡的な経済復興を遂げる。

坂上は、その全てを、縁側で珈琲をすすりながら眺めていた。

彼は、もう「いずも」の司令官ではなかった。ただの、歴史の染みが付いた老人だった。

彼は、東條英機の肉体が老いていくのを、ただ受け入れた。白髪が増え、腰が曲がり、あの甲高い声も、次第にかすれていった。

彼が唯一続けたのは、故郷・広島の新聞を取り寄せることだった。

そこには、B-29も「旭光」も落ちなかった、平和な日常が綴られていた。彼の祖父(特攻に行かなかった)が、孫に囲まれて笑っている写真が載っていたこともあった。

それを見るたび、彼は「これでよかった」と、東條の顔で静かに頷いた。

そして、数十年の歳月が流れた。

1975年(昭和50年)、秋。

坂上真一(東條英機)は、80歳を超え(史実の東條より長生きした)、寝たきりに近い状態になっていた。

彼を「東條英機」として記憶している人間は、もうほとんどいない。山本五十六も、数年前に国葬で見送られた。

ある晴れた日の午後。

縁側で、車椅子に座った坂上は、うつらうつらと微睡んでいた。

世話係が、彼の好物だからと、一粒のキャンディを掌に載せてくれた。

それは、彼が愛した「珈琲飴」だった。

彼は、震える手でそれを口に運んだ。

苦くて、甘い。

その味が、彼の最も古い記憶を呼び覚ました。

(…艦(フネ)に、帰りたい)

彼が見た最後の夢は、1941年の官邸ではなかった。

202X年、彼が仮眠を取った、護衛艦「いずも」の司令官室だった。

『司令、2時間経ちました。起きてください』

副長の声が聞こえる。

『…ああ、今行く』

坂上真一は、そう呟こうとして、だが、もう声は出なかった。

彼は、東條英機の顔のまま、この上なく穏やかな表情で、そっと息を引き取った。

元総理大臣・東條英機の死は、新聞の片隅に小さく報じられた。

「開戦の責任者、和平の推進者…毀誉褒貶(きよほうへん)の生涯を閉じる」

彼が、21世紀から来た海上自衛官であり、広島の悲劇を回避し、ウルシーで核の引き金を引いた「鬼」であり、そして、ただ故郷を救いたかった一人の男であったことを知る者は、もうこの世界には誰もいなかった。


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空母艦長(45歳)の俺が、真珠湾直後に東條英機に転生。徹底した合理的戦略で『B-29と原爆』の未来を潰し、日本を勝ちに導く 月神世一 @Tsukigami555

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