EP 13
陸軍省の迎撃
1943年(昭和18年)6月1日、午前4時。
まだ暁闇(ぎょうあん)に包まれた東京・市ヶ谷。陸軍省は、不気味なほどの静けさに満ちていた。
その静寂は、この国の運命を左右する嵐の前の静けさだった。
陸軍大臣室。
煌々と明かりが灯るその部屋で、坂上(東條)は、まるで通常業務を行うかのように、執務机に座っていた。
傍らには、拳銃のホルスターの蓋を開けた赤松秘書官と、憲兵隊の精鋭4名が、息を潜めて立っている。
机の上には、珈琲飴の瓶と、冷めて湯気を立てなくなったコーヒーカップ。そして、陸軍省周辺の「演習配置図」が広げられている。
「…総理。本当に、よろしいのですか」赤松の声は緊張で震えていた。「今からでも官邸の地下壕へ…」
「無意味だ」
坂上は、飴を一つ口に入れ、静かに噛み砕いた。
「俺が逃げれば、彼らは『東條逃亡』を大義名分に、政府全体を掌握しようとするだろう。そうなれば内戦だ。ここで俺が『大臣』として受けて立たねば、国が割れる」
午前4時15分。
遠くから、軍靴とトラックの地響きが聞こえ始めた。
「来たか」
坂上は、机に隠されたマイクのスイッチを入れた。これは、陸軍省の周囲に「演習」の名目で配置された、彼直属の近衛師団・鎮圧部隊の指揮所(コマンドポスト)に繋がっている。
「総員、配置につけ。発砲は、俺の合図があるまで厳禁。…赤松君、扉を開けておけ」
「はっ!? し、しかし!」
「歓迎する、という意味だ。彼らに、俺が逃げも隠れもしないことを見せてやる」
午前4時20分。
「ドガァン!」という音と共に、陸軍省の正面玄関が破られた。
「天誅!」「国賊・東條を討て!」
狂信に満ちた怒声が、廊下に響き渡る。反乱軍、約1500名。彼らは、東條が陸軍省にいるという情報を掴み、ここを「断頭台」と定めていた。
大臣室の扉が荒々しく蹴破られる。
「いたぞ! 東條だ!」
武装した陸海軍の将校たちが、雪崩れ込んできた。
彼らの目に映ったのは、逃げ惑う姿ではなく、執務机に泰然と座り、冷たい目でお茶(コーヒーの代わり)をすする、東條英機の姿だった。
「…騒々しいな」
坂上は、ゆっくりと立ち上がった。
「諸君ら、帝国軍人でありながら、陸軍大臣たる私に銃を向けるか。反乱か?」
「黙れ、国賊!」
反乱軍のリーダー、畑中大佐が拳銃を突きつけた。
「貴様こそ、山本元帥を見殺しにし、大和を解体し、聖戦を汚した張本人! 天皇陛下に代わり、天誅を下す!」
「陛下を語るな」
坂上の声は、東條の甲高いものではなく、艦橋で響かせる「いずも」艦長のものだった。
「諸君らが振りかざす『精神論』と『伝統』こそが、この国を滅ぼす。俺は、ただ『合理的』に、この国を『生存』させようとしているだけだ」
「問答無用!」
畑中大佐は、東條の(彼らにとっては)理解不能な言葉に激昂し、拳銃の撃鉄(ハンマー)を起こした。
「死ね、東條!」
彼が引き金を引こうとした、その瞬間。
「…反逆を、確認した」
坂上が、机のマイクに向かって静かに呟いた。
ドォォォォン!!
陸軍省の窓ガラスが、外からの轟音で一斉に震えた。
反乱軍の将校たちが驚いて窓の外を見ると、そこには信じられない光景が広がっていた。
「な、なんだと…!?」
「近衛師団…!?」
「い、いつの間に…包囲されている!」
陸軍省の広場は、坂上が配置した鎮圧部隊の戦車、装甲車、そして重機関銃の銃口によって、完全に包囲されていた。
彼らが突入した「入り口」は、すでに戦車で塞がれている。
「(東條)総理…貴様、知っていたのか!」
畑中が、今度こそ引き金を引こうとする。
だが、それより早く、大臣室の天井や物陰に潜んでいた坂上直属の憲兵隊が、一斉に彼らに銃口を向けた。
「動くな。動けば撃つ」
赤松が、冷静に畑中のこめかみに拳銃を突きつけた。
絶望的な静寂。
クーデターは、開始からわずか10分で、完全に鎮圧されていた。
「諸君らに告ぐ」
坂上の声が、陸軍省全体に設置された放送(スピーカー)を通じて響き渡った。
「諸君らの行動は、陸軍大臣(東條)に対する明白な反逆行為である。
君たちの大義は、今、ここで潰えた」
「武装解除し、投降せよ。抵抗する者は、容赦なく『反乱軍』として射殺する」
畑中大佐は、がっくりと膝をついた。
彼らは、自分たちの理想と情熱が、この恐ろしく冷徹な男の「迎撃」プランの上で、踊らされていたに過ぎないことを悟った。
1943年6月2日。
事件は「市ヶ谷騒乱事件」として、最小限の報道がなされた。
首謀者たちは、その日のうちに陸軍大臣(東條)直轄の特設軍法会議にかけられ、電光石火の速さで「反逆罪」により銃殺刑が宣告・執行された。
陸海軍に深く根を張っていた艦隊決戦主義者、精神論者、強硬派は、この「粛清」によって、物理的に一掃された。
官邸の執務室。
坂上は、処刑執行の報告書に、無表情でサインをした。
「総理…」赤松が、複雑な表情で彼を見ていた。「これで…軍は、完全に総理の意のままに…」
「ああ。邪魔者はいなくなった」
坂上は、窓の外を見た。
「だが、本当の敵は、こんな内輪のゴタゴタを待ってはくれない」
彼は、壁の地図を指差した。
太平洋のど真ん中、マリアナ諸島。
「(山本君の『偽装死』で稼いだ時間も、このクーデターで稼いだ権力も、全てをここに注ぎ込む)」
「赤松君、仁科博士と中島の技師長を呼べ。
『大和』のベアリングと、『粛清』で浮いた予算(反乱軍が使うはずだった兵器予算)を、全てくれてやる、と」
坂上(東條)は、軍部の完全掌握という、史実の東條英機すら成し得なかった「独裁権力」を手に入れた。
彼の次の戦場は、もはや国内にはない。
迫り来るB-29(超重爆撃機)と、それを運用する米太平洋艦隊との「マリアナ決戦」だった。
彼の口の中の珈琲飴が、いつもより苦く感じられた。
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