EP 10

呉の盟約

1943年1月下旬、呉軍港。

護衛空母「冲鷹」が、無傷の輸送船団を伴って帰港した。

そのニュースは、陸軍ではなく、まず海軍上層部を震撼させた。

「『冲鷹』艦長及び、護衛海防艦艦長からの戦闘詳報…」

呉鎮守府の司令部で、海軍の参謀たちが青ざめた顔で書類を読み返していた。

「米潜水艦、二隻撃沈、一隻大破。船団被害、ゼロ…」

「馬鹿な…『冲鷹』の旧式電探と素人同然の哨戒機で、ウルフパックを返り討ちに?」

「問題はそこではない」参謀長が、震える指で報告書の別紙を指差した。「これだ。『戦闘は、終始、東條総理の直接指揮下で行われた』」

報告書には、坂上(東條)が発した、神業的な命令の全てがタイムスタンプ付きで記録されていた。

「『敵潜のパターンA(深深度)投射を中止させ、パターンC(浅深度)に変更』」

「『二匹目の、聴音不能な敵潜(無音潜航)の位置を、誤差なく特定』」

「『艦長、これは…真実か?』」

「『真実です。彼は…まるで海図の底が見えているかのようでした』」

海軍の「聖域」である艦橋で、陸軍のトップが、海軍の誰にも真似できない「神業」をやってのけた。

これはもはや「侮辱」や「統帥権干犯」を超えていた。

それは、純粋な「恐怖」だった。

その日の午後、呉の海軍工廠を見下ろす、鎮守府長官室。

「総理、よくぞご無事で…」

出迎えたのは、海軍大臣の嶋田繁太郎と、そして、ラバウルからこの報告のためだけに緊急帰投していた、連合艦隊司令長官・山本五十六だった。

坂上(東條)は、彼らに向かい、無言で珈琲飴の包み紙を破った。

艦橋での戦闘以来、誰も彼のその仕草を「西洋かぶれ」と揶揄しなくなっていた。

「(東條)総理」

山本が、重々しく口を開いた。彼の顔には、12月に論破された時の怒りではなく、深い困惑と、ある種の畏敬が浮かんでいた。

「『冲鷹』での指揮、報告書を拝見した。…単刀直入に伺う。貴官は、一体何者なのだ?」

部屋の空気が凍りつく。

赤松秘書官や他の将校は、息を呑んで退出した。

二人きり。陸軍のトップと、海軍のトップ。

坂上は、東條の丸眼鏡の奥から、山本の目を真っ直ぐに見据えた。

(今だ。彼を失えば、俺一人では海軍を動かせない。暗殺される。賭けるしかない)

「山本君」坂上は、東條の甲高い声ではなく、坂上真一の冷静な声色で言った。「俺が何者かは、重要ではない。重要なのは、俺が『何を知っているか』だ」

「知っている…?」

「ああ。君が強行しようとしたミッドウェーは、暗号が解読され、空母4隻が沈む『罠』だった。俺はそれを止めた」

「!」

「ガダルカナルは、兵力の逐次投入と兵站軽視で、数万の兵が餓死する『地獄』になるはずだった。俺はそれを、統合任務部隊(Joint Task Force)という『合理』で制圧した」

「……」

「そして、先日の『冲鷹』。米潜水艦は、君たちの想定より遥かに高性能なレーダーと、群狼戦術を完成させている。俺は、21世紀…いや、未来の『対潜戦闘(ASW)』でそれを叩いただけだ」

山本五十六の顔から、血の気が引いた。

未来。

その一言が、これまでの東條の全ての「神業」に、恐ろしいほどの説明をつけてしまった。

「信じられんだろうな」坂上は続けた。「だが、君は合理的な男だ。ギャンブラーだが、確率を計算する。事実(ファクト)だけを並べよう」

彼は、立ち上がった。

「第一。1943年4月18日。君は、前線視察のために、ブーゲンビル島上空を飛ぶ」

「なっ…なぜ、まだ決定もしておらん視察の予定を…」

「その情報は、暗号解読によって、すでに米軍の手に渡っている。当日の天候、護衛機の数、飛行ルート、全てだ。米軍は『P-38ライトニング』戦闘機部隊を動員し、君を『暗殺』する。コードネームは『ヴェンジェンス(復讐)』」

山本の額に、脂汗が浮かんだ。

坂上の言葉は、あまりに具体的すぎた。

「第二。1944年、マリアナ諸島が陥落する。サイパンから飛び立ったB-29という超重爆撃機が、俺の『排気タービン(ターボ)迎撃機』が間に合わなければ、日本中の都市を焦土にする」

「第三。そして1945年8月6日。敵は、仁科博士が研究している『新型爆弾』を、俺の故郷、広島に投下する。一発で、10万人が死ぬ」

坂上は、山本の前に立った。

「俺は、それを止めるために、この『東條英機』という男になっている」

絶句。

山本五十六は、目の前の男が発する情報量に、思考が追いつかなかった。

狂人の戯言か。

だが、ミッドウェーを止め、ガダルカナルを制し、ウルフパックを殲滅した男の言葉だ。

「…(東條)総理」山本は、絞り出すように言った。「貴官の言うことが真実なら…我々は、どうやっても勝てないのではないか」

「『勝ち』の定義による」

坂上は、断言した。

「アメリカ本土を占領する『勝ち』は、100%不可能だ。

だが、『国体(皇室)を護持』し、『本土(広島)』の焦土化を回避し、『有利な条件』で講和に持ち込む『勝ち』は、まだ可能性がある」

「そのために、俺は君が必要だ、山本君」

「私…ですか」

「そうだ。俺には『政治力』と『未来の知識』がある。だが、俺は陸軍の人間だ。海軍は、俺を『国賊』と呼び、暗殺しようとした(『冲鷹』の件を暗に示す)」

「俺は海軍の『兵站改革』と『本土防空』を断行したい。だが、俺の命令だけでは、彼らは動かん。面子と伝統に殺される」

坂上は、頭を下げた。

東條英機が、山本五十六に。

「君の『カリスマ』と『人望』で、海軍を動かしてくれ。俺の『合理』と、君の『人徳』。それが、この国を救う唯一の道だ」

山本五十六は、深く目を閉じた。

彼が夢見た「艦隊決戦」は、この男によって否定された。

だが、その結果、海軍の虎の子の戦力は温存され、ガダルカナルで勝利した。

そして、この男は、自分の「死」すら予言してみせた。

「…わかった」

山本は、目を開けた。

「(東條)総理。貴官が狂人か、それとも神の使いかは、もはやどうでもよい。貴官の言う『事実』が、私の予測を上回っていることだけは、理解した」

彼は、坂上の前に進み出て、東條としてではなく、一人の「指揮官」に対するように、力強く敬礼した。

「連合艦隊司令長官、山本五十六。これより、貴官の『合理』に従おう。何をすればいい?」

「まず」

坂上は、初めて心の底からの安堵を覚え、そして「いずも」艦長としての笑みを、東條の顔に浮かべた。

「4月18日の、ブーゲンビル行きの切符(フライト)をキャンセルしろ。話はそれからだ」

ここに、日本の歴史上、最もあり得ない「同盟」が成立した。

未来を知る1佐(東條)と、海軍のカリスマ(山本)。

二人の男は、破滅の未来に対し、ようやく二人で立ち向かうことになった。

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