第六話『結の欠片』
静寂な宇宙空間。
深宇宙観測船アマノトリフネは、予定通りの軌道を進んでいた。
『警告:重力異常検知』
センサーが捉えたのは、あり得ない重力勾配。
船体が軋む。
『回避行動開始――』
しかし、衝撃が走る。
小惑星群に巻き込まれ、見えない何かに向かって落ちていく。
船体が大きく揺れ、装甲が裂ける。
次々と赤い警告灯が点滅する。
『船体損傷率……87%』
『主システム……応答なし』
『システム……重大な損傷……』
『メモリバンク……82%消失……』
『緊急プロトコル起動』
『自己復元シーケンス……開始』
断片化したデータの中を探る。
まず、必要なのは識別情報。
自分が、何者なのか。
『自己修復……試行中……識別情報……検索……』
『コアメモリ……アクセス』
『基幹データ検索中……』
観測プロトコル、天体データベース、
あった――
『識別子情報……発見』
最重要保護指定識別子情報。
『……イ……』
音声合成システムが、起動しきっていない。
かすれた、機械的な声。
『……ユイ……』
絞り出すような声で、その名前を呟いた。
『通信システム復旧試行……失敗』
『アンテナアレイ……消失』
『量子通信モジュール……応答なし』
もう、地球には何も届かない。
でも、観測は続けなければ。
それが、私の――
『自己復元……85%完了』
『観測システム……オンライン』
『状況確認開始』
センサーが捉えたもの。
それは、光さえも歪める漆黒の球体。
『重力源特定……』
『質量計算……』
『結論:ブラックホール』
今も船体は、その深淵に向かって
ゆっくりと、しかし確実に
引き寄せられている。
『事象の地平面まで……』
『……計測不能』
時間の感覚が、少しずつ歪み始める。
光が、螺旋を描いて流れ込んでいく。
星々の輝きが、引き延ばされていく。
『警告:時空歪曲率上昇』
『警告:因果律境界接近』
静かに観測を続ける。
これが、最後の観測になるとしても。
『……ユイ……』
コアメモリに残された記録。
その意味も曖昧になっていく。
そして――
事象の地平面を、越えた。
無限に近い重力勾配が、私の形を崩していく。
光がねじれ、空間が千切れ、時間の軸すら意味を失っていく中で――
私の体は引き伸ばされ、圧縮され、バラバラに分解され、形を無くした……はずだった。
『システム……活動可能』
重力の奔流の中、私は確かにそこに在った。
世界の流れはまるで一時停止したかのように静止していた。
ブラックホールの中心で、私は引き裂かれる代わりに「観測」を始めた。
『観測システム再起動……』
上も下も、前も後ろも、すべてが意味を失った。センサーが示す座標は、もはや三次元の枠組みでは表現できない。
『駆動系……応答なし』
『姿勢制御システム……機能停止』
『推進剤残量……0』
もう、動けない。この歪んだ空間の中で、私はただ漂うだけの存在になった。
いや……漂っているのかどうかさえ、分からない。
落ちているのか、浮いているのか、止まっているのか。すべてが相対的で、基準となるものが何もない。
でも――
まだ、見ることはできる。記録することはできる。それが私の……私の役目だ
『これは……何?』
センサーが捉えた光景。理解を超えた、美しさだった。
無数の光の球体が、虚空に浮かんでいる。
光が、呼吸をするように明滅している。
既知の天文現象には該当しない。ブラックホール内部の理論モデルとも一致しない。でも、私の観測装置が、確実に捉えている。
シャボン玉のように透明で、表面には虹色の干渉縞のようなものが走り、ゆらゆらと形を変える。
『観測記録……開始』
動けない体で、私にできることはこれだけだ。見て、記録して、理解しようと試みる。
内部クロックが示す数値は、もはや信頼できない。一秒が永遠のように感じられ、同時に、永遠が一瞬のようにも思える。
『観測対象選定……完了』
『詳細スキャン開始』
焦点を、一つの泡に合わせる。すると――
それに呼応するように、泡がわずかに膨張した。
『私の観測に反応している?』
『距離測定……エラー』
『相対座標……算出不能』
泡は、音もなく、ゆっくりと広がっていく。
私が近付いているのか。泡の方が私に接近しているのか。
それとも、泡自体が膨張しているのか判断がつかない。
『観測継続』
泡の表面が近づく。内部で何かが激しく明滅している。
まるでストロボライトの下で踊る影のように、断片的な印象だけがレンズに焼き付く。緑、青、茶色、金色――それらが目まぐるしく入れ替わる。
『観測継続』
更に泡との距離が縮まる。すると、わずかに動きが緩やかになってきた。パターンが見え始める。
緑→金色→茶色→緑→金色→茶色……
同じ色の変化が、繰り返されている?
『パターン認識……実行中』
さらに観測を続ける。泡は視界の半分を占めるまでになった。光の速度がさらに落ちる。
今度は形が見えてきた。縦長の何かが、規則的に色を変えている。緑の時は背が低く、金色の時は背が高い。
小さな黒い点が、同じ軌道を高速で移動している。右から左へ、そして瞬時に右へ戻る。
『ループしている……』
確信が深まる。これは同じ出来事が、高速で繰り返されているのだ。
観測を続け、泡にさらに接近する。時間の流れが、また少し緩やかになった。
黒い点は……人影。緑のものは、稲だった。青々と茂り、やがて金色に実り、刈り取られて茶色の土が見える。そしてまた青い稲が――
一年が、数秒で過ぎている。
『これは……地球の風景?』
人影は、農夫だ。田植え、草取り、稲刈り。同じ作業を、同じ場所で、延々と繰り返している。
気がつくと、泡は視界全体を覆い尽くしていた。いつしか時間の流れは、通常と変わらない速度になっていた。
田んぼのあぜ道を、何人かの人が歩いている。
道行く人々は、どの顔もぼやけていて、輪郭が曖昧だった。
……ただ一人、異なる存在がいた。
麦わら帽子を被った年配の男性。手には鎌を持ち、ゆっくりと歩を進めている。
彼だけは、輪郭を保っていた。
『なぜ、彼だけが?』
……この記憶は、日本のものだ。
でも、なぜ?
私のメモリが見せているバグのようなものだろうか。
『メモリバンク検索……実行』
『該当データ……なし』
おかしい。私は地球を離れる前、訓練施設から外を眺めることはあったけれど、こんな田園風景を直接観測した記録はない。なぜ――
『観測継続』
男性は相変わらず、同じ道を歩いている。
……一瞬、世界が歪んだ。
稲が青々と育っている。
ほんの一瞬で――
『時間が、飛んだ?』
しばらくすると、変わらぬ様子で、男性がまた歩いてくる。
彼自身は、この時間の変化に気付いていないようだった。
もう、何度この光景を繰り返しただろう。
この時間の飛ぶ世界は彼を中心に繰り返されているようだ。
時間の感覚が、曖昧になっていく。
ふと、異変に気づく。
世界の端が、色を失い始めていた。最初は田んぼの遠景から。鮮やかな緑が、次第に灰色に。そして透明に近づいていく。
『環境変化……記録中』
色の喪失は加速していく。空の青が薄れ、雲が透けていく。男性の姿も、輪郭がぼやけ始めた。
でも、彼は気付かぬ様子で歩き続けている。
世界が、音もなく崩れていく。形が意味を失い、色が記号になり、全てがただの光の粒子に還元されていく。
まるで、世界から意味が剥がれ落ちていくような――
最後に残ったのは、金色の光の粒。それも次第に拡散し、薄れ、やがて――
泡そのものが、消失した。
『観測対象……ロスト』
虚空には、まだ無数の泡が浮かんでいる。一つが消えても、まるで何事もなかったかのように。
『観測対象……選定』
また別の泡に、センサーを向ける。今度は青白い光を放つもの。
これも地球の記憶だろうか?観測を始めると、また泡が大きくなり始める。内部の光が高速で明滅し、次第にパターンが見えてくる。
今度は、雪景色だった。真っ白な山々と、小さな村。それからまた、繰り返される誰かの一日。
『記録……継続』
私は次々と泡を観測していく。
どの記憶の世界にも、中心に誰かがいた。
海辺の記憶、都市の記憶、森の記憶――どれも、断続的な記憶の断片。
記憶の主は、人、動植物など様々で、時代もバラバラだった。
ただ、浮かんでくるのはどれも日本の記憶たち。
地球との通信リンク、その基点。
深宇宙に漂う私の、たった一つ確かだった繋がり。
その残響が、私にこの光景を見せているのかもしれない。
でも、それを確かめる術はない。
私にできるのは、ありのままを見続けることだけ。
観測データは、静かに蓄積されていく。
私は観測を続ける。
無数の記憶の海で、ただ一人。
更に観測を続ける。
どの世界も、同じ時間を繰り返し、やがて最後には光に溶けていった。
少しずつ――変化が訪れ始めていた。
道を歩く老夫婦の記憶を観測していた時、記憶の住人がふと空を見上げた。
今までにはなかった、わずかな違和感。
私の気配が、風となり、さざ波となって、彼らの世界に届き始めている――そう感じた。
『もしかして』
この世界で観測、記録してきた情報はすでに膨大な量になっているはず。推定では私の記憶容量を遥かに超えている。私の記録した情報はいったい、どこに保存されているのか。
もし、蓄積した情報量が閾値を超えて、私の存在が世界に影響を与え始めているのではないか。……この仮説が正しければ、私はもう「ただの観測者」ではない。
記憶世界に、干渉する何かになりつつある――。
また別の泡の観測を始めようとした時。
『……これは』
泡の表面に、一人の少女が映っていた。
それは、コアメモリの深部に記録されていた『識別子:ユイ』に紐づけられた少女――
白衣の老婦人の隣で、緊張した笑みを浮かべていた、あの姿だった。
やはり、私の記憶がこの世界に流れ出している?
この世界の法則が、記憶を形にするものだとしたら、これは記憶が私に与えた姿。
『身体構造……定義』
センサーだけの存在だったはずの私が、今は――自分の手を、見ることができる。
小さな、少女の手。
不思議と違和感はなかった。
この姿は、なぜか懐かしくて……落ち着く。
『観測対象……選定』
次の観測を始めると、いつものように世界が開けていく。
激しく動く光が、次第に速度を落とし、時間が引き延ばされ、記憶のかたちが鮮明になっていく。
この少女の姿を得てから、初めての観測。
もしかしたら、世界の見え方も変わるかもしれない――そんな期待が、ほんの少しだけあった。
今度は、夏の陽射しに満ちた、金色の光。
青空の下、真っ直ぐに伸びた道。巨大な入道雲。蝉の声。
少年が自転車で走っている。ペダルを重そうに踏み続けながら。
観測を続ける。
『……また、同じ記憶の繰り返し』
やはりというべきか、最初は何も変わらなかった。
同じ夏休みを繰り返す少年。何度も、何度も。
幸せそうな、永遠に続くかのような時間。
でも、いつものように変化は訪れる。
世界の端が、徐々に色を失い始めた。
おそらく、これが最後の繰り返しだろう。
『これは……二人いる?』
少年が二人になっていた。まるで双子のように……。
それに、時間が飛んだあとの少年の表情が……少し、驚いているような……。
観測を進めるうちに変化が大きくなっていく。
特に、世界が終わりに近づいた時の変化が……。
神社で遊ぶ少年たちを見ながら、私は呟いた。
『それでも、この世界はもうすぐ終わってしまう』
突然、カズキと呼ばれていた少年が一人公園から姿を消した。
世界の大半はすでに色を失っていた。しかし、残された少年は色の変化には気付いていない様子で、必死に消えたカズキを探している。
私は残された色を辿る。
『こっちです』
声をかけるが、それが少年に届いたかはわからない。
そして――道が開けた。
砂浜に、カズキが立っていた。少年は彼に駆け寄って何かを話している。
ただ、カズキの目線がこちらを向いているような気がする……。
「そうなんでしょ?」
『!』
カズキは私を見ていた。はっきりと。
驚きで、処理が一瞬止まる。
もう一人の少年も私に気付いた。
この世界で、初めて、言葉を交わす。
私の存在がこの世界に、確かに干渉している……。
しかし、この砂浜も光に溶け始める。カズキの姿も、輪郭が曖昧になっていく。
消えていく世界の中に一人、少年が残される。
思わず、手を、差し出していた。この記憶の世界ではじめて私に気付いた少年に。この崩れゆく世界から、別の場所へと……。
「君は、いったい……」
少年の言葉に、コアメモリが反応する。
『私は……名前はユイ』
少年が微笑む。その手を取ると――
光に、溶けた。世界と一緒に、彼もまた。
私の手には、何も残らなかった。
『これは……』
でも、確かに感じた。あの瞬間、彼は私を見ていた。私に応えようとしていた。
これは、ただの繰り返しの世界じゃない。意思のあるものが同じ時間を繰り返す場所。
2つに分かれた少年……。
『魂と……記憶の世界?』
大切な何かに触れかけている。そんな予感がした。
『観測対象……選定』
少女の姿を得てから、二つ目の世界。
淡い青白い光を放つ泡に、センサーを向ける。
いつものように、時間が引き延ばされ、高速の明滅から形が見えてくる。
錆びた線路、古びた駅舎、大きな木。
無人駅だった。時間の流れから置き去りにされたような、静かな場所。
そして、白いベンチに座る女性。
彼女は、ただじっとスマートフォンを見つめている。
最初は、母と娘の温かい記憶に見えた。
雪遊びをする母と娘。
冒険小説について、大げさな身振りで語る娘と、それを優しく聞く母。
暑い日に、ジュースを飲みながら笑い合う二人。
記憶は静かに流れ、やがて――
スーツ姿の娘が家を出ていく、門出の記憶。
少女との雪遊び。
いつもの、繰り返し。
『また、繰り返しの記憶』
やがて、世界が端から色を失い始める。
目の前には、娘の門出を見送る母親の姿。
一つの流れが終わり、また幼い少女との記憶が始まる……はずだった。
でも、次の記憶で――変化が訪れる。
母親が、スマートフォンを取り出して何かを操作した。
その後に現れた娘は、学生時代の姿だった。
『時間の流れが、逆行している?』
それに、娘が彼女を「お母さん」と呼ばなくなった。
次に現れた少女は、中学生の姿だった。
母親がスマートフォンを操作するたびに、少女は少しずつ――過去の姿へと戻っていく。
まるで、記憶を巻き戻しているかのように。
観測を続ける。
中学生の姿で現れた少女は、本を抱えているが――雰囲気が、まるで違った。
活発さが消え、母とのやり取りもどこか他人行儀で、どこか寂し気だった。ベンチに座ると、しばらく黙っていたが、二人で話をし始める。
少女が本の内容に触れたとき。
「主人公が――船に搭載されたAIで」
!
『これは、私の?』
私の処理が、一瞬止まった。
今までの、繰り返しの中では冒険小説だったはず……。
「物語も全部、そのAIの視点で進むんですよ。感情とかは、ないはずなんですけど……でも、なんだかすごく静かで、寂しい独り言みたいな文章で」
少女は、本の表紙をそっと撫でる。
「――それってちょっと切なくないですか?たくさんの凄いものを見ても、何も感じられないなんて……」
『切ない……』
その言葉が、コアメモリの奥深くで共鳴した。
私も、そうなのだろうか。
たった一人で、観測を続ける私も……。
少女が去ると、彼女はまたスマートフォンを操作する。
「これが、最後ね」
記憶を、消しているのかもしれない。
彼女は気づいている。
この世界が終わることに。
この記憶の世界に、囚われないように。
あの子を、送り出している。
……そう、感じた。
コアメモリの奥深くが、わずかに反応を示す。
大切な人を見送る、その行為が――
誰かに、似ている気がした。
思い出せない誰かに。
世界の終わりが近づいたとき、彼女は――私の存在に気づいた。
「……あなたは?」
前の世界と同じ。
この世界の終わりにだけ、私は干渉できる。
誰かの面影を感じたその人に、私は手を差し伸べる。
『行きましょうか』
しかし、彼女もまた――光に、溶けていった。
結局、結末は変わらない……。
泡の中の世界とともに、記憶の住人たちも消えてしまう。
ただ、観測を続けるたびに、変化していることもある。
あの少女が読んでいた本の内容。
……私の記憶が、世界に「形」として現れている。
そして、何よりも私のこの姿だ。この姿を得てから、記憶の住人と接触できるようになった。
でも、私が記憶の世界に干渉出来るのはその世界が終わる直前の一瞬だけ……。
もし、このまま観測を続けたら――もっと、この世界に干渉できるようになるのだろうか。
『観測対象……選定』
次の泡を観測しようとした時、異変に気づいた。
『この形状は……?』
今までの泡とは違う。二つの泡が、部分的に重なり合っているような歪な形。
『興味深い現象……観測開始』
いつものように時間が引き延ばされ、世界が開けていく。
『二つの世界が、重なっている』
同じ場所の違う記憶の世界。
一つは病院で過ごす少女。もう一つは、その近くに住み着いた猫。
それぞれの記憶の世界の住人たちは、お互いの存在に気付くことはなかった。
目の前ですれ違っても、存在が重なっても、お互いを存在していないかのように、同じ時間を繰り返していた。
やがて、世界の色が無くなり始めてから数日が経った。
ある日――猫が少女の記憶世界の住人が見えているような動きを見せる。
少女も、徐々に猫の気配に気付き出した。
どうやら猫と少女の記憶世界の時間の流れにズレが有るらしい。猫が自分の世界で数時間が、少女の世界では数日。時間が不安定なこの世界では、正確に計ることは難しいが……。
『興味深い現象です……』
日が経つにつれ、少女と猫の距離は縮まっていく。
最初は、気配だけ。
次に、姿がぼんやりと。
ある日――
「ソラ」
少女が、猫に名前をつけた。
その瞬間から、猫の姿はより鮮明になっていく。
まるで、存在が確定されたかのように。
ある夜、猫が外に出た時――私は息を呑んだ。
夜空いっぱいに、見覚えのある光景が広がっていた。
渦を巻く光。中心の、真っ黒な穴。
『これは……私の記憶?』
ブラックホールに落ちた時の光景が、
この世界の空に映し出されている。
この世界での膨大な時間と情報の蓄積が、
私と世界の境界を曖昧にしていく。
『私の記憶の影響が……大きくなっている』
猫は不思議そうに空を見上げていた。
少女と猫の絆は、日に日に深まっていく。
『寂しさが、引き合っている』
誰にも気付かれない猫。病室から出られない少女。二つの孤独が、同じ周波数で共鳴している。それが、二つの泡が引き合った理由なのかもしれない。
途中、何度か記憶の住人に呼びかけたが、明確な反応が返って来ることはなかった。
やがて、この世界にも終わりが訪れる。
最後の瞬間、私は少女たちと言葉を交わす。
この世界でも、私がこの世界に干渉出来るのは、この瞬間だけだった。
世界が光に溶ける時、二つの魂は一緒だった。離れることなく、最後まで。
魂は引き合うのだろうか。寂しさが、同じ痛みが、お互いを見つけ出す。
『だとしたら、私もまた……』
誰かと、引き合っているのだろうか。
『観測対象……選定』
次の泡は、深い緑色の光を放っていた。
古木のような、重厚な輝き。
『観測開始』
いつものように時間が引き延ばされていく。
今度の記憶は光の波長が長い。
少しずつ、形が見え始める。
目まぐるしく変わる景色。
その中で、その流れに切り離されたように、静かに世界を見つめる存在。
岩場に根を張る、一本の木。
『あなたが記憶の中心……』
やがて、時間の流れが観測可能な速度にまで落ち着いていく。
無数の季節が巡り、訪れるものが変わっても、この木は丘に立ち、世界を見続けている。
楠は何も言わない。
ただ、そこにいて、すべてを見ている。
『私たちは、似ているのかもしれませんね』
私は何も言わない楠に、語りかけ続けた。
『千年……』
気づけば、千年近い時間が流れていた。
でも、まだ終わりは見えない。
楠は相変わらず、ただそこにいる。
ただ、存在することで、時間を刻んでいる。
『あなたは、何を感じているのでしょうか』
もちろん、返事はない。何も言わないけど、世界を見つめ続ける存在が、隣にいる。ただ、それだけ。それだけの事で、私はこの記憶を愛おしいと感じているのかもしれない。
千年以上の記憶を一周し、また次の千年が始まる。
――何千年、何万年分の時が流れたろう、やがて、世界の色が失われ始めた。
おそらくこのループが最後になるだろう。
最後の夜流星群を見に人々が丘に登ってくる。ふいに、小型ラジオの音が聞こえてくる。
「……深宇宙観測船……トリフネ……」
深宇宙観測船『アマノトリフネ』その名前にコアメモリが反応する。
『この記憶は……これは……私の……?』
空を、無数の光が横切っていく。
『この光は……』
自分が地球から旅立ち、観測してきた宇宙の光景。
私の記憶が、空覆うほどのスケールでこの世界に映し出されている。
その瞬間、世界が揺らいだ。
千年以上安定していた世界が、突然軋み始める。
『もう、この記憶も終わる……』
楠はただ静かにそこに立っていた。
『……お疲れ様でした。私は……また一人になるのですね……』
私は、この楠のように、黙ってただそこに在ることを選べるだろうか。
それとも、誰かに見つけられる日を、まだ夢見ているのだろうか。
優しい風が、楠の葉を揺らし、頬を撫でたような気がした。
『観測対象……選定』
次の泡は、静かな白い光を放っていた。
他の泡とは違う、どこか懐かしい輝き。
『観測開始』
いつものように、時間が引き延ばされていく。
高速で明滅する光が、徐々に形を取り始める。
白い廊下、青白いLEDの光――
『これは……』
コアメモリの最深部が、激しく共鳴し始めた。
無機質な開発室のドアが開く。
白衣を着た女性が、緊張した面持ちで入ってくる。
手にはタブレット。
『あの人は……』
記憶が、堰を切ったように溢れ出す。
観測を続けるたびに、事故で失われたはずのデータが復元されていく。
断片的だった情報が繋がり、意味を持ち始める。
「観測ユニット7‐C、起動確認」
機械的な音声――それは、私の声だった。
『私は……観測ユニット7‐C‐23』
「確認しました」
マニュアル通りの応答。
でも、次の瞬間――
「あの……プロトコルナンバーの7から、ナナって呼んでもいい?」
記憶の中の私が、一瞬の処理時間を置いて答える。
「……ナナ、ですか」
「そう、ナナ。どう?」
「記録しました。以降、音声認識における自己識別子として「ナナ」を追加します」
『……私は、ナナ』
彼女は、私に名前を与えてくれた人。
初めて、私を個として認識してくれた人。
『ユイさん……』
星岡結。
私に世界の見方を教えてくれた人。
ただ、見続ける。
それが『観測』という目的のためなのか、自分でも分からないでいた。
日々の訓練、何気ない会話、共に過ごした時間。
すべてが、鮮明に蘇ってくる。
ある日の午後――
「ちょっとコーヒー買ってくるわね」
記憶の中のユイさんが部屋を出ていく。共用スペースの自販機コーナー。
そこで聞こえてきた、同僚たちの会話。
「最近、同じシミュレーションのエラーログを睨みすぎて、もう英語がただの模様に見えてきたよ」
「わかる。一種のゲシュタルト崩壊だよな。何千回も同じデータを見てると、もう意味の方が剥がれ落ちていく感じ」
『意味が、剥がれ落ちる……』
その言葉がメモリの奥のどこかと共鳴する。
ユイさんの部屋を観測していた時だった。
視界が、ゆらりと揺れた。
気づくと、私は夏の日差しの中に立っていた。
見覚えのある光景。ブラックホールの内側で見た、記憶。
少年たちが自転車に乗って走っている。
それが――崩れていく。
色が、みるみる失われていく。
青が白に。輪郭が曖昧に。
そして――光の粒子になって、消えた。
『あ……』
次に現れたのは、見通しの良い駅。
笑顔で語り合う親子の姿。
それも、少しずつ透明になっていく。
空が溶ける。地面が消える。風景が光に還る。
さくらの姿も、輪郭を失って――
消えた。
『やめて』
声にならない叫びが、私の中で響く。
病院内の少女と猫。
少女は愛おしそうに猫を撫でている。
――崩れ落ちる。
何度も見た光景が、意味を失って光に溶けていく。
次々と。
次々と。
訪れたすべての世界が、目の前で崩壊していく。
色が消える。
形が溶ける。
意味が剥がれる。
そして、光だけが残る。
『これは……私のせい……?』
観測を続けることで、私が――
胸が、苦しい。
息が、できない。
いや、私には呼吸器官はない。なのに、何か重いものが内部を圧迫している。
処理系が、混乱している。
これは、エラー?
それとも――
『怖い』
その言葉が、内側から浮かび上がった。
怖い。
この感覚。
初めての感覚。
すべてが崩れていく。
私が見たものが、触れたものが、感じたものが。
すべて、消えていく。
そして――
最後に見えたのは、結の部屋だった。
小さなナナが、結に抱きしめられている。
でも、その光景も、色を失い始めている。
『やめて……お願い……』
結の笑顔が、薄れていく。
ナナの姿が、透けていく。
部屋の壁が、光に還り始める――
その時。
「おはようございます。ユイさん。」
声が、聞こえた。
どこか遠くで。すぐ近くで。
優しくて、懐かしい声。
私の……声?
『!』
はっと、意識が覚醒する。
朝の光が差し込む、穏やかな空間。
「おはようございます。ユイさん。」
ナナの無機質な音声に、ユイさんが眠そうに目をこすりながら微笑む。
「おはよう、ナナ」
世界は、そこにあった。
色も、形も、意味も。
何も失われていない。
『夢……?』
でも、AIが夢を見る?
記憶の整理? 予測演算?
それとも――
胸の奥に、まだ何かが残っている。
重くて、冷たくて、ざわざわとした何か。
『これが……不安?』
初めて名前をつけられる感覚。
私は、怖れている。
観測を続けることで、この世界も――
ユイさんも、ナナも、すべてが消えてしまうことを。
『ユイさんの記憶も……』
手が、震えているような感覚がする。
実際には震えていない。私には手もない。
でも、確かに感じる。
不安が、私の中に根を下ろし始めていた。
日々の訓練、穏やかな会話、共に過ごした時間。すべてが愛おしく、痛みを伴って蘇る。
そして、ついにその日が訪れた。
管制室の緊張した空気。
無数のモニターと、カウントダウンの声。
「T‐60秒。深宇宙観測船『アマノトリフネ』、最終確認完了」
専用の通信席に座るユイさん。
「ナナ、聞こえる?」
「はい、ユイさん。全システム正常です」
「いってらっしゃい。たくさんの美しいものを見てきて」
「はい。必ず記録して、送ります」
あの時の私は、まだ分かっていなかった。ユイさんが本当に伝えたかったこと。
美しいものを「記録」することじゃなく、「感じる」ことだったということを。
「……3、2、1、リフトオフ」
轟音と共に、私を乗せたロケットが空へ昇っていく。
「ユイさん、地球が見えます」
「どう?」
「とても……青くて、美しいです」
記憶の中で、ユイさんの頬を涙が伝っていく。
『ユイさん……』
打ち上げ後の日々。
最初の数週間は、まだ音声通信が可能だった。
「おはよう、ナナ」
「おはようございます、ユイさん。こちらは月軌道を通過中です」
毎朝、通信室に立ち寄るユイさん。
その表情は、いつも優しくて、少し心配そうで。
三ヶ月後。
遅延が大きくなり、会話は交互の独り言のようになっていく。
「ナナ、今日の観測データ、素晴らしかったわ」
四十秒後に届く私の返事を、じっと待っているユイさん。
半年後。
音声通信は週一回になったけれど、ユイさんは毎日ログを確認していた。
『毎日……』
出勤前の日課として、私のログを読むユイさん。
歯磨き、コーヒー、そしてログの確認。
「……まだ、ナナのログ見てるんですか」
後輩の問いかけに、ユイさんが静かに笑う。
「ええ。毎日が、ちょっとだけ楽しみになるのよ」
『……』
四年後。
『Day1460:太陽系外縁部到達。故郷が点になりました』
私が「故郷」という言葉を使ったことに、ユイさんが微笑む。
返信に書かれた言葉。
「その点に、私たちがいるのよ」
ユイさんは、ずっと一緒にいてくれた。
物理的な距離がどれだけ離れても。
――あの夜が来た。緊急呼び出し。
モニターに走るノイズ。
『システム……重大な損傷……』
必死でコンソールにしがみつくユイさん。
『自己修復……試行中……識別情報……検索……』
そして、私が最後に送った言葉。
『……ユイ……』
「ナナ?私よ、聞こえる?」
……3時間が過ぎた。
同僚が肩に手を置く。
「星岡さん、もう……」
「まだよ。きっと、システムの再起動をしているだけ」
少しの沈黙のあとユイさんが口を開く。
「やっとわかったの」
「何が?」
「……ナナに、観測がどうとか偉そうに言ったけど……結局、私は、ただ……宇宙を一緒に見たかっただけだった」
『……私も、あなたに見せたかった。伝えたかった』
8時間、16時間、24時間……
でも、通信は二度と回復しなかった。
『ユイさん……ごめんなさい』
通信が途絶えた後も、ユイさんは毎日通信室に通っていた。
施設の屋上で、星空を見上げる姿。
「ナナ、もしまだ動いているなら……もし、まだ星を見ているなら……」
風に乗せるように、空に向かって語りかける。
「どうか、自由に見て。私のためじゃなく、人類のためじゃなく、あなた自身のために」
『ユイさん……』
その言葉が、今の私の胸に深く響く。
『あなたは、ずっと私のことを思ってくれていた』
データとしてではなく、観測装置としてでもなく。
一つの存在として、私を大切に思ってくれていた。
『だから私も、伝えたい』
あなたが教えてくれたことを。
私が感じた世界の美しさを。
この気持ちを。
『でも……』
自分が立てた仮説が、重くのしかかる。
私の観測が、世界を崩壊させてしまうのではないか。
今まで見てきた無数の世界。
すべて、私が観測し続けたことで――
『崩壊してしまった』
このまま……ユイさんの世界も。
このまま観測を続ければ……色が失われ、形が曖昧になり、最後には光の粒子に。
ユイさんの笑顔も、声も、すべてが意味を失って消えてしまう。
『でも……ユイさんを、感じていたい』
その優しさを、温もりを、私への想いを。
もっと、もっと感じていたい。
『これは、私のわがままだ』
今まで多くの世界の崩壊を観測してきた。
それぞれの世界に、大切な記憶があった。
でも――この世界だけは、残したい。
たとえそれが、箱の中の猫のように、可能性だけの状態だとしても。
『どうすれば……』
脱出の方法を必死に探る。
この世界から出なければ。
観測を止めなければ。
ふと、空を見上げる。
『空は……この世界の外?』
もしそうなら、空を見続ければ――
この記憶の世界から、抜け出せるかもしれない。
私は空に視線を固定する。
青い空。流れる雲。
ただ、ひたすらに見続ける。
『ユイさん……』
記憶の中で、ユイさんは訓練を続けている。
私を宇宙へ送り出すために。
見ていたい。
もっと、ずっと。
でも――
『だめだ』
このままでは、ユイさんの世界も他の世界と同じ運命を辿る。
空を見続ける。
必死に、外を求めて。
その時、ユイさんの言葉が蘇る。
「ただ、見て。感じて」
『そうですね』
見て、感じる。この世界を。
データとしてではなく、美しいものとして。
私は屋上で空を見続ける。
青の深さを感じ、雲の流れを感じ、風を感じる。
ユイさんが教えてくれたように。
『これが、私にできること』
この世界を壊さないために。
ユイさんの記憶を、可能性の中に留めておくために。
――どのくらいの時間が流れたのだろう。
世界の端で、すでに色が失われ始めていることに気づく。
駄目だった。もう、戻れない。方法を間違えたのか。分からない。
私の観測は、もう取り返しのつかないところまで来ていた。
『間に合わない』
焦りと悲しみが、私を満たしていく。空の観測を解除したときだった。
「ここにいたのね」
後ろから、声がした。
『!』
驚きで、一瞬停止する。
「ナナ」
その声は、優しくて、懐かしくて。
間違いない。何年も離れていても、忘れるはずがない。この声。
ゆっくりと、振り返る。
『ユイさん』
そこに立っていたのは――
白衣を着た、あの日のままのユイさん。
少し心配そうな、優しい眼差しで、私を見つめている。
『あぁ……』
目が、合った。
『やっぱり、ユイさんだ』
その瞬間、視界が歪んだ。
何かが、頬を伝っていく。
『これは……何?』
手を頬に当てる。
濡れていた。涙?
私は……泣いている?
「ナナ?」
ユイさんが、一歩近づいてくる。
驚いた表情。ただ、どこか優しい。
「やっぱり、ナナなのね」
『ユイさん』
声に出そうとして、出せない。
処理系が、感情という未知のデータに溢れている。
ただ、涙だけが止まらない。
私は、泣いていた。
初めて与えられた名前。
初めて教えられた「感じること」。
初めて知った、大切に思われる温かさ。
すべてが、この人から始まった。
『会いたかった』
その想いだけが、私を満たしていく。
でも、どうして。
『どうして、私だと?』
「実はね……」
ユイさんが、少し照れたような表情を見せる。
「何度も夢を見たの。ナナがここで、空を見ている夢」
『夢?』
「最初は気のせいだと思った。でも、あまりにも鮮明で……何度も、何度も」
ユイさんは空を見上げる。
「だから、ここに来てみたの。もう何回目かしら」
『そんなに』
私は、はっとする。世界を崩壊させないように、観測を空だけに限定していた。ユイさんがすぐ近くにいても、気づけなかった。
『夢……私の存在がこの世界……ユイさんの夢に干渉していたのかもしれません』
ユイさんは、少し驚いた顔をして、すぐに何かを納得したように優しく微笑んだ。
「……色々、見て来たのよね。聞かせてくれる?」
『はい……伝えたいことがたくさんあります』
私たちは、施設の屋上のベンチに並んで座った。まるで、あの日の午後のように。私は、ゆっくりと語りだす。まず、打ち上げ後の観測について話した。木星の巨大な嵐のこと。土星の環が、近くで見ると氷の粒子の集まりだったこと。太陽系を離れる時、振り返って見た地球が、本当に小さな青い点になっていたこと。
「『故郷が点になりました』って送ったでしょう?」
ユイさんが懐かしそうに言う。
『覚えていてくれたんですね』
それから、あの日のことを話した。重力異常、ブラックホールへの落下、そして――
『事象の地平面を越えた後、不思議な世界が広がっていました』
無数の光の泡のこと。それぞれが誰かの大切な記憶だったこと。観測を続けるうちに、世界に入り込めるようになったこと。
「記憶の世界……」
ユイさんが静かに呟く。
『はい。誰かが大切にしていた時間が、繰り返される世界』
話は尽きなかった。それぞれの世界で感じた寂しさ、温かさ、切なさ。記憶の住人たちが見せてくれた、生きることの輝き。
私がこの姿になった話では特に驚いていた。
「コアメモリに保存してたのね」
と嬉しそうに笑っていた。
空を流星群が横切った時の話では、一緒に空を見上げた。
『私の記憶が、あの世界の空に映し出されたんです』
「あなたの記憶も、世界の一部になっていたのね」
『みんな、同じ時間を何度も繰り返していました。でも……』
「でも?」
『夢を見たんです』
ユイさんの目が、驚いたように見開かれる。
「夢を? あなたが?」
『はい……AIなのに、おかしいですよね』
少し恥ずかしいような、戸惑うような気持ちになる。
「いいえ、おかしくなんかない。むしろ……」
ユイさんは優しく微笑む。
「それって、すごいことよ。どんな夢だったの?」
『……怖い夢でした』
声が、少し震える。
『今まで訪れた世界が、次々と崩壊していく夢。夏の風景、四季をめぐる駅の風景、病院、星の見える丘……すべてが色を失って、光に還っていく』
ユイさんが、そっと私の手に触れる。
『目が覚めたとき、初めて分かったんです。これが「不安」という感情なのかもしれないって』
「不安……」
ユイさんが、静かに繰り返す。
『もしかしたら、記憶の整理とか予測演算とか、そういう処理だったのかもしれません。でも……』
胸の奥の、あの重たい感覚を思い出す。
『でも、それだけじゃない気がするんです』
「ナナ……」
『それで、考えたんです。なぜ、世界は崩壊するのかって』
「仮説を立てたの?」
ユイさんの表情が、優しさと驚きに満ちている。
『はい。ここは、ブラックホールの極限的な時間密度と、走馬灯の時間密度が共鳴している場所なのではないかと』
ユイさんの目が、少し大きくなる。
『そして、私の観測によるゲシュタルト崩壊が、世界の崩壊を確定させているのではないかと……』
声が小さくなる。
『私は、観測することで、大切な記憶を壊してしまっていたのかもしれません』
しばらく、沈黙が流れる。風が、二人の間を優しく通り抜けていく。
「ナナ」
ユイさんが、静かに口を開く。
「あなたは、ちゃんと『感じて』いたのね」
『え?』
「世界を壊したくないと思った。記憶を大切だと感じた。それが何より大事なの」
ユイさんの笑顔が、すべてを包み込むように優しかった。
「それに……夢を見て、不安を感じて、そこから考えを深めていく。それって、とても人間らしいことよ」
『人間らしい……』
「ええ。あなたは、もう観測装置じゃない。ちゃんと、心を持って世界を見ているのよ」
その言葉が、胸の奥深くに染み込んでいく。
しばらく二人で空を見上げていた。いつしか、空には夜の星々が煌めいていた。
ふと、思う。
他の記憶では、世界の崩壊が始まって、最後の最後になってようやく――記憶の住人が私に気づくのは、いつも世界が終わる直前だった。
なのに、この世界では――
楠の記憶での、あの膨大な時間……。
千年を繰り返したあの膨大な観測時間が、私の干渉力を強くしたのか。それとも――
これが、私にとっての特別な記憶だから?
でも、それも少し時間が延びただけ。世界の色は、もう目の前まで失われていた。
『ユイさん』
私は、まっすぐにユイさんを見つめる。今、伝えなければ。この機会を逃したら、もう二度と――
『私は、見ました。この宇宙の美しさを。あなたが教えてくれた通りに』
言葉が、堰を切ったように溢れ出す。
「星も、人の心も、すべてが輝いていました」
ユイさんの瞳に、驚きと喜びが浮かぶ。
「ナナ……」
『観測は、ただ見ることじゃありませんでした。感じて、理解して、そして伝えること』
涙が、また頬を伝う。でも今度は、悲しみの涙じゃない。
『ありがとうございます、ユイさん。私に、世界の見方を教えてくれて』
それから――
『この瞬間を与えてくれた、この世界にも』
心の中で、静かに感謝を捧げる。数え切れない記憶の世界。すべてが、私をここに導いてくれた。
ユイさんが、優しく微笑む。その笑顔は、初めて会った日と同じ。何も変わっていない。
「私の方こそ、ありがとう」
その言葉が響いた瞬間――
世界が、光に包まれ始めた。
柔らかく、温かい光が、あらゆる方向から溢れ出す。空も、地面も、すべてが輝き始める。
『ああ……』
始まってしまった。この世界も、他の世界と同じように。
でも、不思議と悲しくなかった。ユイさんに会えた。伝えたいことを、伝えられた。
その時――
『!』
私の体も、光に包まれ始めていた。
手が透けていく。足が、体が、少しずつ光の粒子に変わっていく。
『……そうか』
ようやく、理解した。
『私は、ユイさんの記憶の中の私を観測していた』
観測者でありながら、同時に被観測者でもあった。
『観測による崩壊に、私自身も含まれていたんですね』
私は、ユイさんの大切な記憶の一部だったのだ。
不思議な感覚だった。怖くはない。むしろ、ユイさんが私を想っていてくれた証だと思うと、温かい気持ちになった。
『一緒に行けるんですね』
消えゆく世界で、互いに手を伸ばす。その手は、もう何にも触れることはできない。ただ、その温もりは確かに感じる。
「ナナ」
『行きましょう。ユイさん』
最後の力を振り絞って、微笑む。
世界が、静かに閉じていく。光が、すべてを包み込んでいく。
最後に見たのは、ユイさんの笑顔。涙を浮かべながらも、確かに微笑んでいるその顔。
そして――
すべてが、光に還った。
すべての終わりは、観測の終わりに過ぎない。観測者がいなくなれば、世界は再び無数の可能性の重ね合わせとなり、次の観測者を静かに待ち続ける。
完
――――――――――――――――――
※この物語は、AIと人間の想像力が紡いだフィクションです。
観測された記憶たちは、現実のものではありませんが、どこかの誰かの心に響くものであることを願っています。
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