第4話 三俣山荘から双六岳、下山へ

 翌日、寒さを感じて目が覚めた。


 すこし失敗した。寝袋の中に雨具上下、ダウンジャケットと着込んでいるが、下半身は一枚少なかったのだ。


 夜明け前だが、すでに周りの活動は開始されている。


 私ものそりと身体を起こし、着替えてテント内の整理を終え、ついでテントの撤収に移る。


 すべて完了したのが朝五時。


 気温は零度付近か。


 もはや、動き出したほうが体が温まる。


 頭上には星々がまだ輝いている。


 地上にも地を這う小さな光の点がいくつも輝く。鷲羽岳山頂への道を進む人々のヘッドライトの光だ。きっと山頂で日の出を眺めるために、暗闇の中登っているのだ。


 自らも、再び重い荷物を背負い、ハイマツに覆われた登山道を過ぎ、再び三俣蓮華岳への道を歩む。


 荒涼とした岩の道を赤い光が照らす。


 東に連なる槍ヶ岳、穂高連峰などの峻嶺が影絵のように浮かび上がる。


 赤く燃える日輪が、稜線の輪郭を焼く。


「おはようございます」


 すれ違う人に挨拶を交わす。

 北アルプスの早朝は存外に人が多い。


「おはようございます、素晴らしい景色ですね」


 マナーとしての挨拶に私は一言添えると、すれ違った人は笑顔で返した。


 きっと、多くの登山者がこの景色を目に焼き付け、同じ感情を抱いていることだろう。


 だが、私の頭の中にはイワナの、生命を美しく凝固させた流滴のような姿が焼き付いて離れない。


 山だけでも、釣りだけでも成し得なかった成果である。


 思えば山に登ることも、釣りを始めたのも辛い仕事やコロナ禍で山への遠征ができなくなったことからの逃避行動でしかなかった。


 しかし、否定的に捉えられる逃避からも得られるものはあるのだ。


 そして、それは唯一無二の山行と釣行へと私を導いてくれた。


 自信と言うにはおこがましい。


 今回の旅の雛形は雑誌に載っていたものの焼き直しだ。


 きっとさっき挨拶を交わした人にも、自分だけの美しい景色というものがあり、きっとすれ違う人の数だけ存在するのだろう。


 しかし、それでも、私だけの、俺だけの山と釣りの記憶は確かに刻み込まれた。そこからふつふつと湧泉のような生命力が静かに、だが確実にあふれてくるのだ。


 やれる、歩き出せると。


 すれ違う人々もより多くなってきた。


 一日目に素通りした双六岳の山頂を踏む。


 そこからの景色はSNSでも有名な天空の滑走路、と名付けられたものと気づく。槍ヶ岳へ続いているような壮大なものだ。


 意気が揚がる。


 透き通った青空と雄大な山岳の裾に広がる紅葉。来た時よりも一層鮮やかさを増している。


 相変わらず天気は晴天であったが、はるか山の向こうから雲が沸き立っているのが見えた。午後からは天気が崩れる予報だ。


 この山行で私の何かが変わったわけではない。私の人生は平凡のまま、仕事や現実の問題はまた休み明けに始まる。


 つまづいてしまった小説にも向き合わなくてはならない。


 でも、きっと、まだ進める。歩き続けられる。


                   (了)

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また、何度でも 〜北アルプス、黒部川源流釣行〜 香山黎 @kouyamarei

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