第3話 黒部川源流頭

 山荘は拍子抜けするほど清潔で綺麗であった。


 『黒部の山賊』の中では、小屋の周囲には獣や魚のはらわたが散乱し、燻製が並べられているという、ただならぬ雰囲気を描写している。


 が、八〇年近くたった現在、拍子抜けするほどの近代化された様相である。


 私は入口に置いてあるテント泊の受付用紙に必要事項を記入し、扉を開けた。 


「こんにちは」


 受付にいたのは山賊とは程遠い、はなやかな若い女性であった。


「こんにちは、テント泊の受付をお願いします」


「一名、明日下山ですね」


 山荘スタッフの女性は私が差し出した受付用紙を受け取り、色々と注意事項を説明してくれた。


 ふと、右耳にきらりと輝くピアスに目がいった。


 すぐに外に置いたザックとストックを取りに戻ると、もう一人、若い女性スタッフが慌ただしく駆け寄ってきた。


「救助要請があって、これから救助ヘリがくるので、テント場にはいけません。一度山荘の中で待機してください」 


 要救助者?


 急を告げる様子に私は無言で応じた。


 私と同じように山荘での待機に応じた登山者で入り口がごった返していたので、受付の奥の椅子や蔵書の置いてある棚の前まで進んだ。


 他のスタッフであろうか、赤いジャケットを着た男性が神妙な面持ちで行き来をしている。


 しばらくしてヘリのローター音が近づいてきた。窓ガラスが揺れ、深紅の機体色が青空に認められた。さっそうと二名の隊員が降りたち、爆音は遠ざかっていった。


 また混雑した入り口を割って、ベテランの雰囲気を漂わせる二人の男性が現れた。

 山荘のスタッフ、というより山岳ガイドや遭対協(山岳遭難防止対策協議会)のメンバー、といった感じだ。


 要救助者の男性の様子も見えた。黒いダウンジャケットを着ている。外傷があるとか、行動不能ということも、担架に担がれてとかいう状況ではなく、受け答えもできているようだった。


 隊員のてきぱきとした準備の後、男性は再び下降してきたヘリに収容されていった。 


 機体に富山県警、の文字が認められた。


 どくり、と心臓が鳴って、家族の顔が浮かんだ。


 あれは、私だ。一つでも間違いがあれば、彼のように遭難者となった可能性は否定できない。


 帰りも気を引き締めていかねば――。


 山荘スタッフが各所に声をかけ、騒然とした空気が和らいでいくのが分かった。




 予想外の出来事で時間が食われた。


 私はテントを設定すると、できる限り急いでアタックザックに必要最低限の装備を詰め込み、テント場にある黒部川源流の矢印標識のほうへ進んだ。


 ここから二〇〇メートルほど標高を下げる。小さな沢が登山道を縫うように流れている。


 黄色く色づいた葉叢は鬱蒼としていて、熊が出てきてもおかしくない。


 軽量な装備に変えて、体は一気に軽くなった。足に疲労は溜まっていたが、構わず駆けるように下る。


 しばらく進むと草木のない、開けたスポットに出てきた。

 

小さな開けた空間に降りると、黒部川源流頭、と刻まれた大理石の石碑があった。


 ここが地図上で記載されている黒部川の源流ということになるのだが、地図に記載されていない沢がある。


 この沢には見覚えがあった。


 雑誌に掲載された写真と、実際の地形が合致したのだ。


 私は五〇センチほどの棒、収納された竿を取り出し、釣り糸をリリアン、竿の先端に取り付ける。そして竿先からするすると引き伸ばしていくと三尺四寸の黒く細い竿が直立する。


 テンカラという日本の伝統釣法に用いるのべ竿である。この黒部の住人たちも同じ釣り方をしていた。疑似餌、昆虫や羽虫を模した毛鉤を用いて渓流魚を一日何十匹も釣っていたという。


 下に、一、五メートルほどの小さな川があり、ロープが渡してある。このロープを伝っていくと、さらなる奥地、雲の平を経由して、黒部五郎小舎、黒部五郎岳へと道は続く。


 莫大な水力が轟々と流れる川、ではなく小さな里川といってもいいくらいの穏やかな渓相。


 上流に見えるのはワリモ岳か。


 傾いた太陽の光は黄金のヴェールのように、広大な山並みをきらきらと照らしている。


 私は沢靴に履き替えず、それらに対峙した。もうすぐ日没だ。どうせ、そう長い時間は毛鉤を打てない。少しのポイントを流してだめならそれまでだ。


 それに水の中に入れば、警戒心の強い渓流魚にはすぐに察知されてしまう。


 岩から岩へ乗り移りながらの釣り。あえての縛りプレイが逆に強みになるはずだ。


 竿を跳ね上げる。


 ヒュン、ヒュッ――。


 竿が空を切る。反動が釣り糸を伝わり、毛鉤が水面に落ちる。流れの緩いところに流して、また投じる。


 三度流したのち、石を伝って次のポイントへ毛鉤を投じる。


 二つ目、三つ目、絶好の流速に毛鉤を落とす。

 流しきったところでピックアップする――。 


 と、水面が白く泡立った。


 アタリだ!

 ほとんど微弱で、毛鉤を食ったことすら気づかなかった。果たして、水から出た魚体は一五センチに届くか届かないかくらいの大きさであった。 


 あわててタモに入れる。


 ぬるりとした光沢のある体にうっすら白点があり、灰色と緑色を混ぜ合わせたような体色をしている。


 生きる岩石、と表現するべきなのだろうか。イワナの様相はその渓流と土地、環境で全く異なる。


 私は写真を撮ったあと、水に濡らした手で小さな魚体をすくい、そっと水の中に戻した。


 ゆっくりと水の中を泳いでいくイワナを見送り、スマホの登山記録用アプリを開く。GPSの表示は二四〇〇メートルを示している。多少の誤差はあるはずだが、およそ最高標高に住むイワナとみなしてよいだろう。


 「やったぞ!やった!」 


 私は一人で歓喜の声を上げた。


 穏やかな源流は、傾いた太陽が作り出した山陰の中に没し始めていた。

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