大鳥のかげ

ペンギンの下僕

 彼の人生には、常にかげがかかっていた。決して逃れえないかげである。

 彼は姓名を、熊審ゆうしんといい、春秋時代の南方の大国、の王だ。

 熊審の心に常にかかっているかげとは、彼の父であり先代の王である。荘王そうおうおくりなされたこの王はまさに名君であった。

 楚はもともと、中原から見て僻地である。そのころ、中国は周王朝の時代であり、乱によって周王室の力が衰えたりといえども中原にはまだ尊王の気風が吹いていた。

 しかし楚は蛮夷ばんいを自称して周の爵位制度に従わず、当時は周にしか許されていなかった王を自称していた。

 春秋時代が始まってしばらくの間、楚は南方での勢力拡大に注力していた。

 その流れが変わったの成王せいおうの頃だ。なお成王は熊審の曽祖父にあたる。

 成王は、即位して暫くの間は歴代の王にならって南方の小国を攻めるくらいのことしかしていなかった。一度、当時中原で覇者であったせい桓公かんこうに攻められたことがあったが、この時にも最終的には桓公と盟を交わしている。

 事件は前六三九年に起きた。

 という地で諸侯が集まって盟を交わすことになった。主催者はそう襄公じょうこうである。宋は由緒のある国であり、襄公は覇者であった桓公が太子の後見を任せたほどの人物である。

 しかし国としては小国であり、楚のほうが大きく強い。

 この召集に腹を立てた成王は、盟に参加すると見せかけて盂に赴くとその場で襄公を捕らえ、辱めた。襄公はのちに釈放されるのだが、宋にとっては大いなる侮辱である。

 そして翌年、楚と宋は戦うことになる。

 泓水おうすいの戦いと呼ばれる合戦で、楚は宋を散々に破った。

 いよいよ南方で楚の勢威は高まったが、北で新たな覇者が現れた。しん文公ぶんこうである。文公はその九年という短い在位の間に北方をまとめ、諸侯の盟を仕切るまでになった。

 かくして春秋時代は、北方の大国・晋と南方の大国・楚との二極時代へと突入する。

 諸国は晋に付くか、楚に付くかという選択を迫られた。

 この時代にあって大いに武威を天下に示したのが楚の荘王――熊審の父である。

 荘王の人生は即位したその時から波乱に満ちていた。

 当時、自らの待遇に不満を持っていた臣下による乱が起き、その最中に国都から拉致されてしまったのである。

 幸いにして荘王は一命をとりとめ、乱は収束した。

 しかしこの事件は、父祖の業績を見て、自らも富国強兵に励み、やがては北方の晋を凌駕して天下に覇を示さんと意気込んでいた荘王にとっては出鼻を挫かれたような思いである。


 ――慎重にいかねばならぬ。


 荘王の父、穆王ぼくおうの時代にも楚は伸張を続けた。しかし勢いが盛んになるとやがて衰えが見える。荘王はこの乱を、天が与えた戒めだと思うことにした。

 しかしてその戒めを受けて荘王が取った方針は実に大胆極まるものだった。

 先君が死んだら次の君主は三年間、喪に服さなければならない。そのあいだ、聴政は宰相に任せるのが決まりである。しかし荘王は後宮に籠って日夜、酒と女に明け暮れた。さらに、その行いを諫める者は死罪と布告を出したのである。

 荘王はそうすることで、臣下を見た。

 真に国を思い、死を恐れずに正しいことを為せる者は誰であろうかを見極めたのである。

 やがて伍挙ごきょという臣が現れた。彼は直諫という形を取らず、


「三年の間、鳴くことも飛ぶこともしない鳥がいます。これはいかなる鳥でしょうか」


 と謎々の形で荘王に問いかけた。

 荘王はこの時、左右に姫を抱いているという実に不真面目な状態であったが、


「飛び立てば天にまで昇り、鳴けば人々を大いに驚かせるであろう」


 と真面目な顔で答えた。

 無論、伍挙の言う鳥とは荘王のことである。荘王は伍挙の言いたいことを察して、


「退出せよ。そなたの意図はわかっている」


 と言って伍挙を下がらせた。

 やがて荘王は後宮から出ると、伍挙をはじめとする名臣を次々と擢登し、奸臣を粛正した。

 鳴かず飛ばずとは、現代ではいつまでもうだつの上がらない者の意であるが、元は大願のために雌伏する者を指す。

 さて、三年の雌伏から起きた荘王は、伍挙に言った通りに天にまで昇り、人々を驚かせた。

 着実に国力を満たし、ついにはひつの地で晋を破ったのである。

 熊審は、そんな父を見続けてきた。

 邲で晋に勝ったことは楚の力を確実に天下に示した。楚の絶頂期はこの時であったと言ってよいであろう。

 しかしそれは同時に、熊審の心を昏くした。

 名声も覇権も、極まればやがて衰えていく。過去、偉大な君主が立って国を強くしたことはあれど、その威勢が永久に盛んであった試しはない。ならば父、荘王によって打ち立てられた楚の盛況もいずれはやせ細っていく。そんな予感が熊審にはあった。

 そうならぬためには、父を超えるしかない。

 良きものを受け継いで、それを損なわずに保全するということは、一から大業を為すよりもずっと難しい。まだ幼い太子の身でありながら、いずれ訪れるであろう自らの君主としての時代を、熊審は悲観的に遠望していた。


「父王は父王、貴方は貴方です。父王の業績を継ぐなどとは思わず、ただ楚国だけを継ぐのです」


 熊審をそう言って窘めたのは、母の樊姫はんきである。

 樊姫は荘王の妻であり、おそらく正室であった女性である。

 普通、国君の妻は他国の公女から娶り、国名+姫という形で呼ばれる。樊姫は、樊国から嫁してきた姫であった。

 樊は陽樊ようはんとも呼ばれる。そして陽樊の地は周王朝の独断で晋に下賜されたのだ。

 陽樊の者はこれに反抗したが、ついにはその民を城から出して晋に陽樊を明け渡している。それ以降、史書には地名としての陽樊は出てきても国名として現れることはない。樊という国は滅んだと見てよい。

 つまりこの人は亡国の姫であり、それゆえに、したたかな女性であった。

 荘王が即位してから聴政を行わなかったことは先に記したが、実は後宮に引きこもってばかりいたわけではなく、狩猟にも夢中になっていた。樊姫はこれを諫めたが荘王は聞き入れず、そのために樊姫は肉食を断って狩猟好きを戒めた、という話がある。

 これは『列女伝』にある逸話で、享楽に耽る夫を身をもって正そうとする賢夫人という構図なのであろうが、しかし事実の樊姫の意図とは異なるのではないかと思う。

 国君が行う狩猟とは単なる娯楽ではなく、軍事演習の一環を兼ねている。

 荘王は遊びに熱中して臣下を見極めながら、同時にいずれ自らが陣頭に立って晋と戦うために備えていたのではないだろうか。愚王のふりをしながら、胸中に大きな野望を秘めている夫のことを樊姫は誰よりも理解しており、覇道の成就を願い、あるいは、


 ――私は、わかっております。


 と暗に語るように、肉食を断って示したのではないだろうか。

 樊姫は国家の盛衰を知る人であり、だからこそ我が子を教導するにあたって多くを語らなかった。

 英邁な父と達観した母。

 その両者に育まれたのが熊審なのである。




 そして前五九一年――荘王がこうじた。


 ――ついにこの日が来てしまったか。


 というのが、熊審の素直な思いである。

 父の死に悲嘆するよりも、これから先の自分に待ち受ける波乱を予感して、まだ若い熊審の目の前はいっそう昏くなった。

 父の葬儀を終え、遺体が陵墓に納められても、荘王という名の大鳥がずっと天空を舞っていて、自分の治世を覆っているような心地である。過去に聖王名君は数あれど、その次代の名は埋没して日が当たらないことが多い。自分もまたそんな日陰の君主の一人となるのではないかと、否が応にも思わずにはいられなかった。


 ――私は死ぬまで、父から逃げられぬ。


 そう思いながら、しかし君主として立ったからにはそんな泣き言をいつまでも言ってはいられない。

 熊審は、いかに胸中にそういった苦しみを深く抱えていようとも、それを誰にも悟らせまいと覚悟を決めた。

 早速、衰兆が顕れた。

 当時、魯国ろこくは楚の盟下にあり、楚をたのんで斉を討とうとしていた。しかし荘王の死のせいで楚が出撃できなかったため、晋の力を借りて魯を討ったのである。

 服喪の最中にこのことを聞いた熊審は、朝廷に出ることを決めた。


 ――元より我らは蛮夷よ。我が父も服喪の間に享楽に耽っていた。ならば、私も服喪を破ることとしよう。


 動乱の時代にあって、三年の空白を生むことを熊審は善しとしなかった。

 そして、魯の標的となった斉を助けるべく行動を起こした。援助の軍を出すことを決めたのである。

 この時、斉との連携のために巫臣ふしんという者を斉へ派遣することを決めた。

 しかし命令するにあたって巫臣を一目みて熊審が感じ取ったのは、


 ――この者も、私と同様に、大きなものに囚われている。


 ということであった。

 巫臣は荘王の頃からの名臣であり、血筋を遡れば楚の王室に辿り着く。勲功、血筋ともに優れた揺るぎのない楚の元老の一人だ。荘王の覇業の補翼の一端を担った人物であり、その賢明さは十分に知っている。

 しかし今、熊審の前に拝している巫臣を見ると、その言動に冴えがない。

 それどころか、自分に似たものを感じるのである。それはつまり、何か大いなるものに囚われて執心しているようなのだ。それが何なのかまでは熊審にはわからない。しかし粛々と出立の言葉を語る巫臣を見て、


 ――この者は、二度と戻らぬであろう。


 という予感がした。

 果たしてその通りになった。

 巫臣は、鄭にいた夏姫かきという寡婦を連れて晋へ走ったのである。

 それを知った楚の公子、子反しはんは、賄賂を晋に送って巫臣を重用させないための工作をすべきだと熊審に説いた。

 一つには巫臣が楚の内情に通暁しており、その智慧が楚の脅威になると感じたからであり、もう一つの理由として、子反と巫臣の折り合いが悪かったということがある。

 しかし熊審は、


「巫臣の才が認められれば、晋はまいないを受け取っても彼を重用するだろう。無能ならば、財貨を送らずとも擢登されまい」


 として子反の提言を退けた。

 この頃の巫臣は夏姫という女に囚われていた。

 夏姫は春秋時代における屈指の美女であり、その妖艶さは多くの男を虜にし、その人生を狂わせてきた。その仔細を熊審は知らないが、しかし巫臣が何か、社稷や血縁よりも大きなものにその生を傾けているということだけは悟っており、故に巫臣の去就について半ば諦観していたのである。

 一たび大きなものに囚われてしまった者が、そこから逃れることは実に難しい。そして、逃れようとあがくほどに破滅という名の孔底へと引きずり込まれていくのである。そういう感覚を熊審が理解していたのは、樊姫による教導の賜物であった。


 ――人はみな、何かしら逃れえぬ天命を与えられている。しかし、それに超克する力を同時に与えられる者は一握りしかいない。父や祖父にはそれがあった。いや、楚の覇業が曽祖父から興ったとすると、父で三代となる。余徳は尽き、天与の力はもはや楚に与えられておらぬかもしれない。


 その感覚は熊審を悲観的にした。

 しかし、


 ――だが、私は楚の君として立つことになった。それ以外のものを与えられなかったからといって、投げ出すことなど許されようはずはない。父のかげが一生つきまとい、その威光に私という存在が埋もれてしまうとしても、かげの届かぬほどの異境まで逃げてしまうようなことをしてはならない。


 とも思うのは、熊審がただ荘王のかげに囚われているだけでなく、やはりその血と勇気をも継いでいる証である。

 熊審には己が、運命を砕くための力を持っているとは思っていない。

 だからこそ、自分なりの施策で、天命に向き合わなければならないと考えているのである。





 巫臣が出奔した年の冬。

 楚は蜀の地で、きょしんそうちんえいていせいと盟を交わした。しかしこの盟は「匱盟きめい」と呼ばれる。匱とは匣にしまうという意味があり、この盟に参加した諸侯はしんを憚って、匣の隅のような極西の地で楚と会盟したのである。

 荘王の時代であればあり得ないことである。

 弱年の熊審の器量を諸侯は懐疑の目で見ていた。

 ちなみにこの盟に参加したのは、熊審ではなく令尹れいいん子重しちょうである。

 令尹とは楚における宰相のことである。子重は荘王の代からの功臣であり、賢明な人だった。そして荘王の弟であり、熊審にとっては叔父である。

 荘王の頃の令尹は蔿艾猟いがいりょうという人であり、その頃の子重は令尹に次ぐ地位である左尹さいんであった。

 子重は盟に参加した者のうち、宋の右師ゆうしである華元かげんに挨拶をした。ちなみに右師は宋における宰相のことである。


「お互いに、心痛が絶えませぬな」


 子重は世間話のつもりでそう言った。というのも、宋も前年に主君が変わっており、新君は未だ服喪の最中である。熊審は喪を破ったが、新しい政権下での宰相というところは同じであった。


「そうですね」


 華元は短く、しかし柔らかい声で返した。


 ――相も変わらず、不思議な人だ。


 子重はそう思った。

 一国の宰相でありながら、野心のようなものがなく、さらに言うならば欲望のようなものもなさそうなのである。

 といって、清廉潔白で身を正して国事に当たっているのかと言われると、なるほどそうではあるのだろう。華元が宋の宰相になって二十年になる。その期間、宋は数多の波乱に巻き込まれながらもついに国を全うしてきた。それはひとえに華元の功績であるだろう。

 華元のそういった手腕を子重は、話には知っている。

 しかし当人を前にすると、伝え聞いたその逸話の人物が目の前の華元と結びつかない。のんびりとして、少し抜けたところのある好々爺にしか見えないのだ。

 さて、その翌年のことである。

 晋と楚の間で人質交換が行われることとなった。ひつの戦いでお互いが捕らえた要人を返還しようというのである。

 晋は楚の公子穀臣こくしんを。楚は晋の要人の子、知罃ちおうを。それぞれ出すことになった。

 熊審は知罃という人物に興味が沸いた。というよりも、知罃を通して晋のことを知りたいと思い、途中まで自ら知罃を送り、言葉を交わしたのである。


「貴方は我が国を怨んでいますか」


 知罃は首を横に振った。


「私は不才で、そのために虜囚となりました。ですが今、こうして帰国が叶いました。誰をも怨んでおりません」

「では、我が国の行いを徳と思いますか」


 熊審は踏み込んで聞いた。

 知罃はまた首を横に振った。


「両国は社稷を保つことを図り、民の平安を願い、怒りを収めて許しあおうとしているのです。これは二国の友好の問題であり、私の及ぶところではありません。故に、誰をも徳とはいたしません」


 熊審はそう聞いた己を愧じた。

 自分には父のように武威を示すということは出来そうにない。ならば徳を敷くことは出来ないかという考えからそう聞いたのだが、それもまた安易な考えであり、徳というものについてまったくわかっていなかったと思い知らされたのである。


「では、貴方が帰国なされたら何か我が国に報いていただけるでしょうか」


 これは君主としての熊審から発した言葉である。

 しかし知罃はまたも首を横に振る。


「怨みもなく、徳もないのです。誰にどのように報いる必要があるでしょうか」


 まっすぐな言葉だった。

 熊審は、はじめは晋について知りたいという好奇心からであったが、わずかに言葉を交わしただけで知罃という人物に畏敬の念を抱いた。


「どうか不穀わたしに、貴方のお考えをお聞かせください」


 不穀ふこくとは君主の一人称であり、しかもへりくだった言い方である。

 熊審は王の身でありながら、他国の臣に敬意を表し、自らを下げて意見を求めた。その在り方に感服し、知罃は己の胸中を堂々と、真摯に明かすことにした。


「貴国のおかげで帰国が叶いました。晋で国法に照らされて処刑されるとも、あるいは我が父の元に帰ることを許されて一族の法の下で処刑されるとも、私は死して不朽のものとなります。あるいは大度によって家を嗣ぐことを許され、軍務に従事することとなれば、不才の身ながら死力を尽くして晋のために楚と戦うでしょう」


 道理であり、人臣として正しい在り方であると思った。

 この時の知罃は未だ要職につかぬ大夫の身でありながら、これだけの気骨を有している。晋の人は末端までこのようであるのだから、熊審は、


「晋と争うべきではない」


 と言って、礼を尽くして知罃を帰国させた。




  楚の命運にまたかげりが見えた。

 それも、契機となる出来事は熊審のあずかり知らぬところで起きたのである。

 子重と、公子子反は共に巫臣ふしんに怨みがあった。そこで、巫臣が出奔したのを契機にその族を殺し、財を分配したのである。

 これを聞いた巫臣は大いに怒った。そして子重、子反の二人に書簡を送った。

 この書簡の中に、


『必使爾罷於奔命以死』


 とある。これは、必ずなんじ奔命ほんめいさせもってて死なしめん』と読み、つまり、息つく間もなく国事に当たらせて殺してやるという意味である。天衝の激情が込められた文章であったが、しかし、直接的に斃すと書かないのが巫臣という人であった。

 そして巫臣が取った手段はその通りに、迂遠でありながらも実に有効なものである。

 巫臣は楚よりさらに南方の呉国ごこくに目をつけた。

 呉は姫姓の国であり、周王朝と同室である。しかし蛮夷を自称する楚よりもさらに南方に位置するため、これまでほとんど歴史に現れてこなかった。国として在ることは楚人も知っていたが、ほとんど歯牙にすらかけたことがないと言っていいだろう。わずかに一度、荘王が盟を交わしたことがある程度だった。

 巫臣は晋の臣として呉に使者として向かった。

 呉もまた王を自称しており、当時の王は寿夢じゅぼうという。

 巫臣は寿夢に謁見すると、晋から持参した戦車の半分を呉に与えた。さらに御者と射手も与え、自らの子を連絡役として呉に留め置いた。

 この時から、呉は楚との盟を破り、たびたび楚に侵攻することになる。

 巫臣は寿夢の野心を刺激したのであろう。勇猛果敢な荘王はすでに死し、今の楚は弱い。これを討てば呉は一気に大国になれる、という風に唆したに違いない。そして寿夢はその言葉に乗せられた。

 かくして楚は南北に難を抱え、重鎮たる子重と子反は、書簡の通りに奔命することを余儀なくされた。

 どうしてこうなったのかわからないのが熊審である。

 熊審は巫臣の族の顛末を後になって知った。しかし、国家の重鎮として権勢を誇る子重と子反を咎められなかったのである。

 呉の度重なる侵攻の理由が巫臣の復讐と知ると、この悲観的で大人しい王としては珍しく、二人を自裁せしめんと考えもした。

 しかし、


 ――元をただせば、巫臣が帰らぬとわかって送り出したのは不穀わたしである。その軽挙が二人を動かした。こうなることを予見していれば、先に二人を降格させて事態を防ぐことも出来たかもしれぬ。しかし事が起きた今となって二人を罰しては、国難に当たる者がいなくなって、楚はいっそう弱くなるであろう。


 と考えた。

 熊審にとっては苦渋の決断であったが、間違いであったとも言えない。

 巫臣のことは子重と子反の過失であるが、熊審の治世の長きを支えた令尹は紛れもなく子重なのである。彼は功罪ともに大きく、名宰相と評することは出来ないが、熊審にとって害だけをもたらしたわけではない。

 呉の侵攻に悩まされるようになった楚であるが、悪いことばかりではなかった。

 晋で、楚にとっての追い風が吹き始めた。

 前に鄭で晋と楚が戦ったことがあり、楚の臣である鍾儀しょうぎという人物が捕虜となって晋にいた。晋の景公はたまたま彼を見かけて誰何し、楚の捕虜であると知ると詳しく話を聞いた。

 鍾儀はまず、自家の代々の官職について答えた。この時、鍾儀は泠人れいじんと言ったが、これは楽官のことである。そう答えたために琴を与えると、鍾儀は楚の音楽を奏でた。

 景公は熊審のことを聞いた。

 鍾儀は、


「私のような者が口にすることではありません」


 と口を閉ざしたが、景公はなおも聞いてきた。

 そこで鍾儀は、


「太子であらせられた頃は師父に仕えて学び、朝には令尹嬰斉えいせいどののところへ、夕方になると司馬そくどののところへ訪問されておりました。それ以外のことは存じません」


 と答えた。

 嬰斉は子重、司馬側は子反のことを指す。嬰斉、側は二人のいみなである。

 景公はこの話を士燮ししょうという臣にした。士燮は鍾儀を君子と評した。

 まず自家の官職のことを語ったのは、自分よりも職務を重んじるということである。楚の音楽を奏でたのは、祖国を忘れていないということ。楚王のことを聞いて太子時代のことを話したのは、楚の臣であるという自制があり、景公に媚びようという私心がないということ。子重と子反を諱で呼んだのは、景公への敬意である、と。

 士燮はさらにこう言った。


「自分の職務に背かないのは仁であり、国を忘れないのは信であり、私心がないのは忠であり、君をたっとぶのは敏です。どうか彼を帰国させ、晋と楚の友好の架け橋といたしましょう」


 景公は士燮の勧めの通りにした。

 前に熊審は知罃の言動を称賛して、晋と争うべきではないと言った。

 それと同じことを景公も思ったのであろう。楚にも人物はおり、景公と士燮にそう思わせたのは、一つには鍾儀の人格であるが、熊審の徳でもあるだろう。

 熊審は公子辰を晋に派遣し、晋の申し出を受け入れて現実のものにしようとした。翌年には晋も大夫を派遣し、いよいよ両大国の和議は現実味を帯び始めた。

 しかしこの年に景公がこうじたため、頓挫したかに見えた。

 だがさらに翌年。この偉業を為すために晋楚の両国間を奔走した人物がいる。宋の華元かげんであった。

 華元は子重と親交があり、また晋の欒書らんしょという大夫とも親しくしていた。

 折しも晋楚が和議の道を探っていると聞き、その間を取り持とうと考えたのである。

 楚にやってきた華元は、熊審にもまみえた。


 ――これがあの華元か。


 熊審は複雑そうな顔で華元を見た。

 それというのにも理由がある。荘王は晩年、宋を攻めた。当時、宋の君主は文公という人物であったが、右師は今と同じく華元である。この時の荘王はひつで晋を破り、まさに破竹の勢いであった。その威勢のままに宋都商丘しょうきゅうを包囲したのである。しかし荘王は、ついに商丘を攻め落とすことが叶わなかった。

 邲で晋を破った時が楚の絶頂期であるならば、そこにかげりが見えだしたのは商丘を落とせなかった時であると言ってよく、楚の斜陽の端を生み出したのは文公と華元である。

 怨みはない。

 そして今、華元が晋楚の和議のために奔走してくれていることは、熊審の意に沿うものでもある。

 しかしそれはそれとして、思うところはあった。

 だが華元と言葉を交わしていくうちに、熊審はだんだんと奇妙さを覚えはじめた。

 それは子重が華元に感じたのと同じであり、熊審にも華元という人物は、落ち着きのある人の好い老人としか思えなかったからである。


 ――この好々爺が指揮した国を、我が父は攻め滅ぼせなかったというのか。


 荘王の子であり、よく知っているからこそ、熊審にはそれが解せなかった。

 それでも、言葉を交わしているうちに熊審は、それまでは王としての厳格な顔しか見せていなかったのだが、段々と落ち着きの色を見せ始めた。

 華元との謁見が終わると、公子子嚢しどうが熊審の前に現れた。子嚢は熊審の兄弟である。後に楚の令尹となり、熊審の晩年の治世を輔翼する人物である。

 荘王の子ということもあり、子嚢もまた朝廷で華元を注視していた。しかし子嚢は華元のことを、ついにお人よしの老人だとしか思えなかった。子嚢は同時に熊審のことも観察しており、はじめは自分と同じような所感を抱いたことを察した。

 しかし言葉を交わすうちに、その疑問が氷解していったのも見て取ったのである。

 子嚢はその理由を熊審に聞いた。


「あの御仁は水のような人である。手のひらに収まっている間は害もなく、それどころか人の命を養ってくれるが、一たび敵対すればかわが大地を呑み込むかのように苛烈に迫ってくる。我らが父は商丘を攻めた時に初めて華元の恐ろしさを知ったのであろうが、我らは、かの御仁の深奥と相まみえぬように心がけねばならない」


 熊審は子嚢にそう言って聞かせた。

 そういうものだろうかと、子嚢は納得のいかない顔をしたが、しかし自分に見えないものが熊審には見えているのかもしれないと思い、その言葉を戒めとすることにした。

 そして翌年。前五七九年。ついに晋と楚の和議は成立した。

 中原に平和がもたらされたのである。

 この偉業を語るにあたって華元の名は外せない。

 しかしこの時の楚王が熊審であったからこそ成ったというのもまた事実であろう。もしこの時、荘王がまだ君位にあれば、いかに華元が名宰相であったとしてもこの和議は成立しなかったに違いない。

 これからしばらく、晋楚の間には平和が続く。

 しかし、永久には続かなかった。しかもその破綻は、楚より生じたのである。

 司馬の子反は、当時、晋の盟下にあった鄭と衛を攻めようとした。子嚢は晋との盟を裏切るのは悪であるとこれを諫めたが、子反は聞き入れなかった。

 そして何より、熊審は子反のこの意見を聞き入れて、自らも軍を率いて鄭に侵攻しているのである。

 この時、熊審が何を思っていたかはわからない。しかしこの一事は熊審の治世にとっては間違いなく大いなる過失であっただろう。




 そして前五七五年。

 運命の年が訪れた。

 間違いなく、熊審の治世においてもっとも波乱に満ち、その命運を危うくした一年である。

 この年の春、鄭はまた楚と盟を交わした。

 晋は鄭を咎めるために出兵した。盟を交わした以上、楚は鄭を守るために兵を出さなければならない。楚には中軍があり、左軍と右軍がその両翼のようにある。この時の楚の陣容は、


 中軍 子反

 右軍 子辛

 左軍 子重


 というものである。

 熊審は王なのでもちろん中軍にいる。

 子辛ししんは公子とされるが、熊審の叔父なのか兄弟なのかはっきりとしない。

 六月に、晋楚の大戦が始まった。会戦の地は鄢陵えんりょうという場所である。

 晋と楚の軍は激しく争った。

 乱戦となり、その最中に熊審は片目を射抜かれてしまった。それでも死にはいたらず、それどころか楚国屈指の弓の名手に二矢を与えて、自分を射た者を倒すように命じた。その射手は果たして、一矢で王命を果たし、残る一本の矢を持ち帰って熊審に復命した。

 この射手は、本邦において平安時代に源頼政の夢に現れ、弓矢を託したという伝説が残る養由基ようゆうきである。

 養由基の射術にて晋に対して一矢報いることは叶った。しかし、敗戦には違いない。

 楚は兵を纏めて少し下がった。

 晋は、わが軍は意気を高め気力を養い、明日また戦に挑むと楚の捕虜に吹聴した上でわざとこれを放した。熊審はこれを聞いて子反と向後の対策を講じようと呼びつけた。

 しかしこの時、子反は酩酊しており、熊審の招きに応じることができなかったのである。

 熊審は、もはや勝ち目のないことを悟った。


 ――やはり私に、父のような武威はない。


 避けてはならぬ戦であったが、しかし必死になって挑んだところで成果が得られるとは限らない。

 かつて荘王が邲で晋を倒して得た遺徳が、今日まで楚をかろうじて存続させていたが、鄢陵の敗戦で父の威光は完全に消え失せたのではないかという気になって、熊審を覆うかげはいよいよ、朔日の山道のような闇となってその心を呑み込む。

 こうして見れば、それまでは逃れえぬと思っていた大鳥のかげが、実は死してなお国を守っていた天蓋のようにも感じられた。悲壮しかもたらさぬと思っていたかげが、今は無性に恋しい。

 暗闇の中で熊審は、撤退すると決めた。

 負けた自分は不徳であるが、勝ち目のない戦を続けてやおら死者を増やすのは大愚である。

 熊審は全軍が撤退し、の地まで来ると人をやって子反に伝えた。


「かつて子玉しぎょくが晋に敗れた時には国君は出陣していなかった。此度は国君が出陣している。ゆえに、この敗戦の咎は貴方にない。すべて不穀わたしの罪である」


 子玉とは熊審の曽祖父、成王に仕えた将軍である。この時代にも晋楚の大戦があり、成王は晋との戦いを避けようとしたのだが子玉は交戦を主張した。そこで成王は子玉に一軍を与えたのだが、果たして子玉は惨敗した。

 その後、子玉は責任を取って自殺したのである。

 熊審はそのことを知っていたので、子反が責任を負わぬように敢えてそう伝えさせた。敗戦の責を自分一人で背負おうとしたのである。

 しかし子反は、王の軍を預かりながら敗走させたことは自分の罪であるとして自殺した。熊審を取り巻く闇はいっそう濃くなっていった。




 鄢陵の戦いの向後について話す必要がある。

 楚は撤退したので、ひとまずはそれで済んだ。手痛い敗戦であるが、まだ楚の威勢は、熊審が思うほどには楚は追い詰められてはいない。

 しかし鄭はそうはいかない。晋の率いる諸侯の軍に攻め寄せられていた。しかしこの時、鄭の公子である子罕しかんの夜襲が功を奏し、諸侯軍をどうにか撃退したのである。

 鄭は北の晋、南の楚という二つの大国に挟まれそれぞれの国に面従腹背をせざるを得なかった国である。しかし鄢陵の敗戦を見てもすぐに晋に走ることはなく、なおも楚の盟下にあり続けた。楚もまた、鄭に晋率いる諸侯の軍が迫るとこれを助けている。

 鄭の主君は成公であった。

 この君主は楚が窮地に追いやられた鄭のために、鄢陵で晋と戦ったことを恩として深く感謝していた。病床にあって、大夫の子駟ししは楚から離脱して晋と盟を交わすように勧めたのだが、成公はこれを断った。

 前五七一年、成公は薨じた。子駟は執政の座に就き、晋と結ぼうという流れに傾いていた群臣を一度は、成公の遺意を理由に退けた。しかしその翌年、前五七〇年には晋と盟を交わしている。

 この年、令尹の子重がしゅつした。

 過労死である。晋との戦いに加えて、呉の難は苛烈さを増していた。その心労が子重の体を蝕んでいたのである。巫臣の書簡の通りになったのだ。

 子重の後任は子辛ししんである。強欲な人物であり、楚の盟下の属国からあくどく貢物を徴収していた。それも、熊審に露見せずひっそりと行うという狡猾さまで会得している。

 盟下の小国は子辛のことを毛嫌いした。そして実際に、ちんは楚の盟下から脱して晋についた。

 共王にはこの陳の離脱が不可解であった。

 しかし盟主として、属国の離脱を看過は出来ない。司馬である公子何忌かきに命じて陳を攻めさせた。この時、熊審は公子何忌に、ほどほどにして苛烈なことをせず、陳の意図を確かめてこいと命じた。

 公子何忌は熊審の思いを汲んだ。

 鄢陵の敗戦はまだ新しく、晋と真っ向から対立してはならないという楚の現状も理解している。

 公子何忌は繁陽という地に軍を留めた。陳の国土こそ侵したが、そこから深く進むことをしなかったのである。陳に圧をかけ、使者を送ってくるのを待って離脱の真相を探ろうとしたのである。

 ところがこの時、訃報を聞いた。陳の君主、成公が薨じたのである。


 ――これから喪に服そうとする国を攻めるのは、我が君の意に適わないであろう。


 公子何忌はさっと退いた。

 陳の成公の訃報が前五六九年のことである。その翌年、熊審は再び陳に攻めた。しかし服喪の最中であるため、兵を率いて行きはしたものの、戦が目的ではない。離脱の理由を確かめるためである。

 この時、陳の人は子辛の苛烈な徴収のことを話した。

 熊審は赫怒して子辛を殺した。

 これほど熊審が感情を面に出して怒ったことはなかったであろう。しかし感情が落ち着いてくると、


 ――しかし、子辛を令尹にしたのは不穀わたしである。


 という自責の念が生じてきた。

 いよいよ熊審は、耐えがたくなってきた。父の威光から逃れえぬ自分を思いすべてを投げ出してしまいたいという孺子の頃の甘えた考えが、今になって頭をよぎる。


 ――そうとも。逃げてしまいたい。それが出来ぬならば、自裁してこの首筋をさくりと裂いてしまうのもよい。黄泉こうせんで父に合わす顔がなくとも、私の心だけは救われるであろう。


 熊審が奸臣を粛正しても、悪しき心をもって権力を濫用し、私腹を肥やす君側の奸は次から次へと現れる。子反と子重が巫臣の族を滅ぼしたこともそうであった。むしろ、楚の公子の中にこそそういう者は多いとも言える。

 しかしそういう公子ばかりではない。

 子辛の次に令尹になったのは公子子嚢しどうである。熊審の兄弟であるこの令尹こそが、熊審の治世において最も助けになったと言っていいだろう。

 ところで子嚢は、荘王の子ではあるが、熊審の弟ではないだろう。熊審が即位したのは十歳の時であるので、今は三十三歳である。熊審は在位は長いが、君主としては若い。そこへさらに若年の臣が執政となるとは考えにくく、異腹の兄と考えるほうが自然であろう。

 子嚢は外交において優れた感覚を有していた。


「陳を攻めましょう」


 と、さっそく熊審に進言した。

 楚は子辛の悪事を咎めるために子辛を斬ったが、陳は依然として晋の盟下にある。


「王は子辛を罰することで陳に誠意を見せました。しかし陳は方針を改めようといたしません。これを討って正し、楚の盟下の諸国に示しをつける必要があります」


 この出兵では陳を晋の盟下から離脱させることは叶わなかった。

 しかし子嚢はさらに、前五六六年にも陳を攻めている。晋は諸侯を率いて盟を起こし、陳を援助するために動いた。

 しかし陳の人は不安に駆られた。前に楚が陳を攻めた時も、晋の救援が来ると楚はさっと退いていった。今回も同じことになるかもしれず、そうなれば一度は救われるが、楚は時期を見てまた陳に攻め寄せるだろう。

 さらに言えば、こうして圧をかけることが子嚢の狙いでもあった。

 やがて綻びは陳の中から起きた。

 陳の哀公あいこうが会盟に出かけている間に、陳の二人の大夫は密かに陳の公子黄を外に出した。そして、楚に公子黄をわざと捕らえさせたのである。

 そして哀公にそのことを知らせ、


「急ぎお戻りください。さもなくば我ら群臣は、陳の社稷を保つために他の公子を君主として立てるかもしれません」


 と、君主を恫喝したのである。

 陳の臣民からすれば、憎いのは子辛だけであり、その脅威がなくなった今となっては、毎年のように訪れる楚の侵攻に耐えてまで晋の盟下にいようとは思わない。そういった雰囲気があることなどまるで察していなかった哀公は、この話を聞くと晋の会盟を放り出して、逃げるように帰国した。

 また子嚢は、晋についてもよく見ていた。

 前五六四年。秦が楚に出兵を請いに来た。晋を攻めようというのである。

 熊審はこれを許したが、子嚢は諫めた。

 この時の子嚢は、晋君の器量、その下にある卿大夫の人柄を説き、君臣が共に賢明で上下ともに調和が取れており、これと戦ってはならないと言った。晋という国のことをよく知っていたのである。

 熊審も子嚢の言葉に納得した。

 だが、


「私はすでに出兵を許可してしまった。晋には及ばないかもしれないが、取りやめることは出来ない」


 と言ってその諫めを聞かなかった。

 熊審の正室は秦の公女であり、この時の秦の君主、景公けいこうの妹でもある。そのよしみでの派兵だったと思われる。

 子嚢は浮かない顔をしたが、考え方を変えた。


 ――秦に一つ、義理を作ったと思うことにしよう。


 子嚢はこの頃から、秦に目をつけるようになった。

 秦は晋の西方に位置する国である。かつて穆公ぼくこうという名君が現れ飛躍を遂げたが、すでに穆公が薨じて五十年ほどの年月が経っており、あまり表に現れぬ国であった。

 子嚢は秦と近づき、西方から晋を牽制させることを考えたのである。

 この発想は巫臣が呉に目を付けたものと似ていると言ってよい。当時の呉と同じく、今の秦は中原にとって盲点の国であった。

 子嚢は後に自ら秦に赴き、派兵を請うことになる。前五六二年のことであり、秦楚の連合軍に攻められて鄭は服従した。

 晋はこれを咎め、鄭に派兵した。

 この時、鄭の救援に向かったのは楚でなく秦であった。秦はこの時、鄭に直接向かわずに晋を攻めたのである。そして秦軍は晋を破った。秦のこの動きの裏には楚の要請があったであろう。


「貴方が王になればよかったかもしれない」


 熊審は、子嚢と二人きりの時にそう言った。

 本心である。実に自由闊達に諸国を奔走し、鄢陵の敗戦で傾いた楚を立て直したのはひとえに子嚢の手腕であり、自分は君主として何一つ力になれなかったと熊審は感じていた。


「私が王となっていれば、子反、子重、そして子辛の三大夫が死んだ後に貴方が令尹となって、私と同じことをしたでしょう」


 子嚢も諂言てんげんを含まず、本心で答えた。

 子嚢もまた、この三大夫の時代を耐えてきた人である。彼らが軍事、執政の長であった頃の子嚢に日は当たっていなかった。


「王は玉座にて雌伏し、私は朝廷で雌伏していました。しかるに王の苦心は私の比ではありますまい。その重責に耐えてこられたことで、少しずつ良い風が吹こうとしております」

「なるほど。私も貴方も、鳴かず飛ばずの鳥であったということか。随分と長い雌伏になったわ」


 熊審は苦笑した。


「私は今まで、荘王という名の大鳥のかげを見てきた。いや、今もまだ私の心にかげりを作っている。しかし、それでよいとも思うのだ」

「我が国の夏は酷暑ですからね。かげがあったほうが涼しくてよいでしょう」


 それもそうか、と熊審は笑う。

 子嚢がそう言ってくれたことで熊審の心は軽くなった。これまでの長い在位にあって、いちばん、心が安らかであった時かもしれない。ふと空を見上げると、雲一つない空に、鳥の鳴き声が聞こえた気がした。

 前五六〇年。熊審は病に倒れた。

 一度は死んでしまおうかとさえ考えた熊審は、この時になって、もう少し生きていたいと思い始めていた。子嚢という令尹を得たことで、熊審の心に明るさが見え始めた時に病魔に襲われるとは、天数は実に残酷である。

 生きていたいという感情の変化は、しかし病と闘う熊審の心の中に、あの鄢陵の敗戦を回想させた。

 もう少し、子嚢とともに歩めば、ともすれば鄢陵の恥をぬぐうことも適ったかもしれない。しかし、いよいよ自分の死期を悟った熊審は、大夫たちを招いて言った。


不穀わたしの不徳によって鄢陵で敗れ、社稷を辱め、臣民を大いに憂いさせてしまった。不穀わたしが死ねば、そのおくりなは『れい』または『れい』とするように』


 生前の君主は、ただその国の君、または王と呼ばれるのみである。史書に残る、荘王や穆王といった名は死後につけられたものだ。

 諡は君主への評でもある。美諡びし平諡へいし悪諡あくしがあり、『霊』と『厲』は悪諡の中でも最悪のものである。

 大夫たちは流石に了承しなかった。誰も言葉を発しないのを見ると、熊審はもう一度繰り返した。それでも返事はなく、ついに熊審は五度も同じことを命じた。

 病に取り付かれながら熊審は頑なである。説こうにも聞き入れられず、見かねた大夫たちはついに諾と言ってしまった。

 熊審はその答えを聞くと安堵したように眠り、そのまま黄泉へ旅立っていった。

 大夫たちは諡号をどうすべきか子嚢に相談した。厲王、などと諡したくはないが、遺命がある。そう言うと子嚢は、何を悩むと言いたげに冷静である。


「王は諡号を『きょう』とせよ、とおおせになった」


 大夫たちは首をかしげた。熊審はそのようなことは言っていない。


「荘王の死後、我が国は四方に脅威があった。しかし王は果敢にこれに挑み、蛮夷を鎮撫し、度々出征を行ってその武威を示された。それでいて、ご自身の過誤について弁えておられた。これを『共』と言わずして何であろうか」


 と言ったので、熊審は、


 共王


 と諡された。『共』は『恭』にも通じる。荘王の武威を無暗に振りかざすことをせず、父に、国に、臣に、時には敵国やその大夫にさえ慎み深く、うやうやしく向き合ってきた熊審にとってこれほど適切な諡号はないであろう。

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