Y市綺譚
寶石 史
橘邸の怪
一 交通指導
長く勤めたアパレル会社を退職後、自宅でぼんやりと日々を送っていた私の元に自治会の役員がやってきたのは八月の盆明け、まだまだ夏の盛りの暑い日だった。さすがに玄関先では失礼だろうと、あまり効かない旧型のエアコンが怪しい音を立てている応接間で話を聞く。汗を拭き拭き、出された冷たい麦茶を一気に飲み干した自治会長が言うには、近くの交差点で小学校の子ども達の交通指導と登校見守りを長く続けてきた人がこの夏体調を崩し、高齢でもありこれ以上は難しかろうと、九月の新学期に向けて後任を探しているとのこと。つまり退職して暇そうにしている私に白羽の矢が立ったわけだ。断るという選択肢ももちろんあったが、自宅のある地元でいずれは自治会の何かの役が回ってくるだろうという自覚もあり、聞けば登校時の朝のみ一時間弱の役割らしい。これを引き受けておけば他の面倒な自治会役員からは逃れられると考え、少々打算的な思惑もあって引き受けることとした。――思えばこれがあの恐怖体験の始まりだったのだ。
後任があっさり見つかり大喜びで引き上げていった自治会長は、その日のうちに帽子とタスキ、電池式ホイッスル、横断旗を届けてくれた。新学期の始まりは十日後だが、それまでにと私を現場まで案内し、細々とした注意事項を伝達してくれる。ほぼ同じ内容を書いたマニュアルが、前任者の手書きのメモ付きで渡されていたので、それに目を通せばだいたいわかるのだが、一応殊勝な表情で自治会長の話を聞いた。
私の担当する交差点は、自宅から歩いて十分、自転車を使えば三分ほどで行けそうだ。四車線の国道に二車線の市道がぶつかるT字路で信号機と横断歩道がある。朝夕には国道側も市道側も交通量がかなり増え、特に市道側から市の中心部へと向かうために国道に右折してくる車が多かった。子ども達が向かう小学校は国道を渡った少し先で、交差点からも鉄筋三階建ての白い校舎が見える。この一帯はY市の中心市街地からは少し離れた地域で、国道をメインに一般住宅と小規模オフィス、商店が混在した日本中どこでも見られるようは平凡な町並みが広がっている。
九月、さすがに最初は少し戸惑ったものの、交通指導にはじきに慣れた。要するに市道方面から集団登校でやってくる小学生を、青信号のうちに無事渡り終わらせればいいのだ。集団登校は多くて十人前後の登校班グループで、まず確実に渡り終えることができたし、続く別のグループが無理に渡ろうとするのを止めて、次の青信号を待たせるのがもっぱらの仕事だった。横断旗で停止した車を牽制しつつ子ども達を横断させるのはなかなかいい気分だった。運転手にしてみれば信号に従って停車しているだけなのだが、まるで私がそれをさせているように思えてくる。万が一事故でも起これば、責任を問われる可能性もあることは知らされていたが、慣れるに従って緊張感は薄れ、その分、道路を渡っていく一人一人の子ども達に意識が向くようになってきた。
前任者のメモ書きに赤字で、『安全に道路を渡すこと以上に、子ども達に声をかけコミュニケーションを取りながら、一人一人の様子、変化に気を配ること』とあった。最初は「教員じゃあるまいしそこまでは……」という気持ちだったが、子ども達と毎朝の挨拶を交わすようになると、名前と顔も一致するようになり、実際、自宅近所の子ども達の登校班も来るのだった。子ども達の様子から気持ちの浮き沈みや体調の善し悪しなど推し量れるようになってくるのだ。
見守り交通指導を始めて半年、さすがに冬場の立ち番は寒さがこたえてつらかったが、ようやく暖かくなり始めた三月のはじめ、私はいつもの時間にやってきた登校班がひとり少ないことに気がついた。信号待ちの間に確認してみる。
「あれ、ゆかりちゃんはお休みかな?」
そう声をかけると、登校班リーダーの六年生の女子が教えてくれる。
「家まで迎えに行ったら、ゆかりちゃんのお母さんが出てきて、風邪ぎみなので二、三日お休みしますって」
「そう……」
信号が青になり、渡り始めた子ども達を見送りながら、私には何かひっかかるものがあった。 ゆかりちゃん、橘友加里は二年生。元気な優しい子で、誰よりも大きな声で挨拶し、九月には私の前任者の体調を心配して家までお見舞いに行ったとか。ところが年が明けた頃からめっきり表情が暗くなり、うつむき加減に登校してくる姿が気になった。それでも私の姿に気がつくと以前と同じく大きな声で挨拶してくれるので、まあ大丈夫かな、と思うようにはしていたのだが。
その翌日も、登校班に橘友加里の姿はなかった。そこで見守りの仕事が終わってから、自転車で彼女の家まで行ってみる。以前夕暮れ時に妻と町内を散歩していたとき、たまたま道路で遊んでいる橘友加里を見かけて声をかけると、満面の笑顔で「ここがわたしのうちよ」と教えてくれた。その家である。交差点からは私の自宅の反対側だが、自転車でやはり五分程度の場所にあった。
あの日はもう夕暮れで、彼女の家はシルエットのようにしか確認できなかったのだが、こうして朝の光で眺めてみると、大きな二階屋である。そう古い家ではないが、屋根は黒瓦を葺いた入母屋の古風な造りである。部屋数もかなりありそうだ。ただ、今改めて見てみると、この家にはそこここに気になる箇所が目立った。まず庭が荒れ果てている。冬場で雑草はそう多くないが、ここ暫く手入れをしている様子が見られない。夏であれば草茫々であろう。二階を含めガラスのひび割れやカーテンの破れが何カ所もある。確か両親に祖母も同居するごく一般的な家庭で、まだ二歳の弟がいたはずだ。この荒れかたはただ事ではない。家の前でどうしたものかと迷っていると、ゴミ袋を持った近所の主婦らしい中年女性の姿が目に入った。思い切って声をかける。こうしたとき、見守り交通指導員の服装に名札までつけていると怪しまれずにすむので都合がいい。
「あのう……急に声をかけてすいません。ここ何日か朝の交通指導で、橘さんの娘さんの姿が見えず心配しています。他の子はかぜ気味で欠席すると聞いたようですが……」
その主婦は、最初怪訝そうに私の話を聞いていたが、それでも答えてくれた。
「ああ、ゆかりちゃんね。……うちには小学生の子がいないもんでよくわかりませんが、やっぱり学校休んでるんですか」
「やっぱり、とは?」
「いえねぇ、……橘さんち、このところ様子が変で、近所周りでもいろいろ噂になってるんですよ。」
しかし、この主婦はしゃべりすぎたと思ったのだろう、急に口が重たくなった。
「まあ、これ以上は近所づきあいもありますしね、もう勘弁してくださいな。ゆかりちゃんの事でしたら、小学校の先生に相談なさったらどうですか」
そう言うと、主婦はゴミ袋を抱え直して足早に立ち去っていった。これ以上は話せないという拒絶の空気が強く感じられ、私もそれ以上の質問は遠慮せざるを得なかった。しかし今の主婦の様子から、橘家で何か尋常ではない状況が発生しており、それが原因での橘友加里の欠席ではないかという思いが一層強まってくる。私は思い切って橘家の門前まで戻り、門柱に取り付けられた呼び鈴を押してみる。家人が出てきたら身分姓名を告げ、ゆかりちゃんの体調を尋ねるつもりだった。少し離れているが同じ町内である。見守り交通指導員という立場で、そう不自然な訪問ではないだろうという気持ちがあった。少しばかり待ってもう一度押してみる。門に付けられた郵便受けに、DMの類いがかなりの数溜まっているのが目についた。家からは何の反応もない。門から磨りガラスの入った両開きサッシの玄関までは三メートルほどあり、家の中の様子はわからない。ただ、まったくの無人というよりは、確かに何かの気配が感じられる。実際昨日は登校班リーダーの六年生がゆかりちゃんの母親に会っている。無人のわけがないが、たまたま外出しているだけなのかもしれない。ただ、敷地内の駐車スペースには白い軽自動車があり、フロントガラスは雨と埃で汚れていた。しばらく使われていないようだ。
とにかくその日はそれ以上どうしようもなく、私は自宅へ引き上げたのだった。
二 家庭訪問
翌日は、朝から小雨。支給された指導員用コートを羽織れば傘をさすほどでもない。雨はみぞれ交じりではなく、春を感じる暖かい日だった。やはり登校班に橘友加里の姿はない。子ども達に尋ねてみても、みな困ったように首を振る。すべての登校班が道路を渡り終わったのを確認し、私はその場から学校に電話をかけた。通学路見守り指導員の対応教員は教務主任で説明会等で顔見知りである。ゆかりちゃんの欠席が気になる旨を話すと、たまたま担任が近くにいたらしく電話をつないでくれた。担任とは面識はないが、若い男性教員らしい。岡本と名乗った。
「おとといの朝、母親から欠席連絡があり、その後学校からは毎日電話してるんですがつながらなくて、留守電に連絡だけ入れていました。今日で三日目ですので、これから家庭訪問するつもりです。よろしければご一緒しませんか?」
私に異存はなく、そのまま少し待つと小学校の方から走ってきた自動車が私のいる市道の路側に停車した。若者の好みそうなRV車である。降りてきた若者はまだ二十代だろうか、はっきりした声で「岡本です」と名乗った。ベージュの上着に黒いズボン、ネクタイにスニーカーといういかにも「先生」という服装だ。
「よろしくお願いします。自分一人で行くつもりでしたが、地域の指導員さんに同行していただければ助かります」
「いや、私にはどれほどのこともできませんが……岡本先生は橘さんのお宅には?」
「昨年五月に家庭訪問させていただいたきりです。橘友加里は二年生の割にはしっかりした感じの子で、特に心配はなかったんですが、年が明けてから様子がおかしく、心配して声をかけても何も言わないし、まあ、欠席するようなことはなかったので、つい安心してしまって……ちょっとまずかったなと正直思ってます。」
自分の至らなかったところを、素直に口に出せる若い岡本先生の育ちの良さと真面目さに、私は好感を持った。
「ご家族は、ご両親の他、おばあさまと二歳の弟と聞いていますが……」
「僕もそう聞いています。家庭訪問でお目にかかったのはお母様だけですが」
岡本先生は車への同乗を勧めてくれたが、橘家までたいした距離ではないので私は自分の自転車で移動した。 橘邸に着くとすでに岡本先生は門前に車を停めて私を待ってくれていた。弱い春の雨は相変わらず降り続いている。家の様子は昨日と変わりない。門柱の呼鈴の反応も同様だった。岡本先生はあたりまえのように門を開いて玄関へと向かう。さすが若くても家庭訪問に慣れているなと、変なことに感心する私だった。岡本先生はそのまま遠慮なく玄関のドアをノックする。
「橘さん、橘さん、……小学校の岡本です。ゆかりちゃんの担任の岡本です。ご不在ですか?」
家の中からは何の反応もない。不在なら当然返事はないだろうに、などと考えていると、突然岡本先生が私に向かって言ってきた。
「庭に回ってみましょう。こんな大きな家ですから玄関先の声が届いていないかも知れない」
「いいんでしょうか?」
「僕も指導員さんも身分立場ははっきりしているし、万が一家の中で事故やトラブルが発生している場合、玄関先だけで引き返すと、後々非難の標的にされることだってあるんです」
なるほどと思う一方で、この若い教師が一番心配しているのは「虐待」なんだろうなと気がつく。安易に口に出さないのは、校長や教頭の指導だろうか。……とにかく岡本先生の後について玄関から敷地内を家に沿って右手に移動し庭に向かう。橘邸の外塀はブロック積みの密閉タイプではなく、ステンレスの格子柵に添って低木が植え込まれている。昨日は外部からも庭が荒れているのはわかったが、実際中まで入ってみると、雑草が伸び放題、軒下には枯死した植木鉢が並び、屋根の高さまで伸びた冬枯れの落葉樹が寂しげである。その下に風に飛ばされたのか緑色のベビーカーが転がっていた。橘友加里の幼い弟のものだろう。庭に面した部屋は全面サッシだが、カーテンがしっかり引かれて中の様子は覗えない。そこを岡本先生はドンドンとたたき同じように声をかける。
「橘さん、橘さん、…小学校の担任の岡本です」
中からの反応はやはりない。 それでも岡本先生は声をかけ続ける。自分なら早々にあきらめるが、と声をかけようとした時、ふと大きな給湯室外器の陰になった勝手口が目についた。そしてまさかね、と触れてみたドアノブがあっさりと廻ったのだ
「先生!」
と声をかけてからしまったと思う。この熱心な若い先生はここから家の中に入り込みかねないではないか。さすがに不法侵入である。しかしすでに遅く、私の様子に気がついた岡本先生は、私から奪い取るようにドアノブを手にすると、一気にドアを開いてしまった。
「ちょ、ちょっと先生、これ以上は……」 と、制止しようとしたその時だった。
家の中から、何かが倒れるような大きな音と家が震えるような地響き、そして何とも形容しようがない、人あるいは動物の叫び声、あるいは鳴き声が聞こえたのだ。
さすがに岡本先生も私も凍り付いて、お互いの顔を見合わせた。
「き…聞こえましたか?」
「ええ、聞こえました。人の、悲鳴だったような。それにあの地響きは…地震ではないですよね、ガス爆発か何か?」
家の中はそれっきり静まりかえっていた。何かが爆発したような臭いも火の気もない。開いた勝手口からはごく当たり前のシステムキッチンが見える。先生が言う。
「入ります。入ってゆかりちゃんを探します。体調が悪いなら、まだ中にいる可能性が高いんだ。不審者が入り込んでる可能性もあるでしょう……指導員さんは念のため警察に連絡をお願いします。」
さきほどの叫びと音を聞いた以上、私に異論はなかった。岡本先生が靴を脱いで上がり込むのを横目に、携帯電話で地元の駐在所に連絡する。駐在の桐山巡査長とは交通指導や非行防止の会で、すっかり顔なじみになっていた。 運良く電話を取ったのが本人で、私は手早く巡査長に状況を説明する。
「確かに事件の可能性もありますが、その岡本先生にはこれ以上家の中に入り込まないように止めてください。私も本署に連絡を取ってすぐに向かいます」
落ち着いた巡査長の言葉に少し動揺が収まる気がした。ここから駐在所は近く、パトカーでも自転車でも五分というところだろう。 家の中からは橘友加里を呼ぶ先生の声が聞こえてくる。私はその声を追って家の中へ入った。キッチンは家の端、南東の隅にあり食器類も流しもきちんと片付けられていた。キッチンを出ると広くて長い廊下の左右に部屋が並んでいる。電気をつけたのは先生だろうか。床にはうっすらと埃が積もり、照明の下、先生の足跡が点々と目立った。「橘友加里が休み始めてせいぜい三日、それにしては埃が……?」不審が心中に広がってくる。しかし確かにさっきの叫び声は家の中から聞こえた。それにあの家中を揺るがした地響きはいったい何だ。先生を追いながら自問するが、答えなど出るわけもない。
「先生、ここでしたか――」
岡本先生はキッチンから三つめの部屋にいた。一度廊下の突き当たりまで行って引き返してきたことが、床の足跡でわかる。私のを別にして、他には一切足跡がないのだ。この埃が溜まってから私達以外にはここを通った者はいない。……それが何を意味するのか?
「ここがゆかりちゃんの部屋です。彼女はいませんね」
岡本先生は学習机に置かれたままのノートをめくりながら言う。四畳半の部屋はきれいに整理されており、ベッドとクローゼット、壁にはいかにも小学生らしいアニメキャラのポスターが貼ってある。 ごく当たり前の小学生の女の子の部屋である。
「僕が先週金曜に出した宿題がまだやってありません。橘ゆかりは、帰宅すると何をおいても宿題を済ませるタイプなんですが、それに手がついていないと言うことは、金曜の帰宅直後に何かあったのかもしれません」
まだ何か話したがる先生に、すぐに警察が来ることを告げると、少し安心したような声だったが、「まだ二階を探していない」 と言った。
「家庭訪問でも二階には上がってないです。橘友加里の部屋はここですし。……確か彼女が二階のおばあちゃん、という言い方を学校でしていましたから、上は同居のおばあさんのテリトリーだったのかもしれません」
ちょうどその時、玄関がノックされた。桐山巡査長が到着したようだ。私が玄関に向かって大きく声をかけ、さっき私たちが入った勝手口に回ってもらう。巡査長はすぐにやってきた。まずはパトカーより先に駐在所の自転車で駆けつけたという。岡本先生を簡単に紹介する。
「なるほど、一階にその子の姿も他の家人の姿もないということですね……二階はまだ未確認と。では、――上がってみます。叫び声もしくは悲鳴を聞かれたのなら時間が押しているかも知れない。急ぎます」
階段は一階廊下のほぼ中間点から上に向かって伸びていた。
「ついて来られるなら、少し間隔をあけて来てください。大丈夫とは思いますが、万が一のこともあります」
来年四十になるという巡査長は、派出所勤務一筋のベテランだ。慣れた様子で腰の拳銃に手もかけず、ゆっくりと階段を上っていく。私と岡本先生は少し遅れて後を追った。橘邸の二階は窓際に広い廊下があり反対側に部屋が並ぶつくりで、窓のカーテンも、壁に飾られた絵画や調度品も、みな品がよく高価なものに見えた。ただ、外からも見えたように、このカーテンは何カ所か大きく切り裂かれたようになっている。確かに二階は年長者、ゆかりちゃんの祖母のテリトリーのようだ。ただ高齢者が暮らしていたにしては、階段にも廊下にも手すりのようなものは見当たらない、元気なおばあさんだったのだろうか。……それにしても二階は妙なにおいがする。そう考えているとき、岡本先生が声をかけてきた。
「巡査長の様子が変です。」
言われて見ると、桐山巡査長は一番奥の部屋の入口で立ち止まり、中に入らず覗き込んでいるようだ。 横顔しか見えないが、表情が険しい。
「し、小学生が、ゆかりちゃんがいたんですか?!」
岡本先生が近づこうとすると、巡査長は厳しい声で私たちを制止した。
「違います、小学生も誰もいません! この部屋には入らないでください」
しかし中をのぞき見ることまでは止められなかったので、私も先生も巡査長の肩越しではあるが中の様子を見ることができた。
家具ひとつない六畳間ほどの床いっぱいに、巨大な赤黒い浸みが広がっていた。 木目のフローリングだったのだろうか、周辺の浸みのない場所の方が狭い。浸みはもう乾いており、廊下から見る限りではぬれた感じはしなかった。しかし明らかに動物的な生臭い不愉快なにおいが部屋に充満し、廊下にまで拡散しているようだ。
「こ、これって血ですかね? 人の血――それとも動物?」
つい声が出た私はいったい誰に話しかけたのか、見ただけでは答えようがない問いだ。そしてこの部屋にはさらに、
「壁に描かれた模様…あれは絵ですか文字ですか?」
そう聞いてきたのは、桐山巡査長だった。ここは二階端の角部屋だが小さな窓がひとつだけしかなく、他の面はすべて白い壁紙である。そこを埋め尽くしているのは、黒…たぶん墨汁のようなものでびっしりと描き込まれた細かい模様あるいは文字のようなもので、その一部は天井まで伸びている。巡査長が思わず聞いてきたのも無理はない。その模様は何とも表現できぬ奇妙な規則性をもって壁に直接描き込まれており、印刷物などではない。同じパターンの模様はひとつもなく、描き込んだ時に垂れたと思われる墨汁の滴りも模様の一部と化している。敢えて言えば不気味な黒い蔓性の植物に部屋全体が包まれているようにも見えるのだ。 こうした状況でなければ、前衛芸術としても相当なパワーを秘めているとも言えた。しかし今私達三人に共通する感覚は、これがとてつもなく不安をかき立てるもので、見れば見るほど不快であるのに、惹きつけられ目が離せなくなるものだということだった。
その時、部屋の小さな窓にパトカーのライトが赤く照り返すのが目に入った。我に返ったように桐山巡査長が私と岡本先生に言う。
「とりあえず、一度出ましょう。事件性があるかどうかはこれから調べます」
まだ確認できてない部屋が二階にはあったが、この部屋を目にしてすっかり気が引けてしまった私達はおとなしく階段を降り勝手口から外に出る。後ろの方では巡査長がパトカーで駆けつけた警官と無線で話しているのが聞こえた。
外に出ると、いつの間にか小雨は止み、薄い雲間から柔らかな三月の日差しが差し込んでいた。思わず二人同時に深呼吸していた。岡本先生が相当動揺しているのがわかる。自宅のあの様子では、彼のクラスの橘友加里が普通の状況で明日以降登校してくるとは思えないのだろう。それは私も同感だった。しかしいったいどこへ行ってしまったのだろうか。ゆかりちゃんも、その家族も。
当然ながら庭先で駆けつけた警官二人に呼び止められる。事情は桐山巡査長が連絡済みらしく、とりあえず担任と交通指導員という私たちの立場は理解しているようで、ここでしばらく待つようにと言われ、二人はそのまま家の中に入っていった。岡本先生は校長と連絡を取る必要があるようで、少し離れて携帯で何やら話し出した。 警官達はすぐには出てこず、先生も話が長引くようで、私はひとり取り残された気分でぼんやり橘邸の荒れた庭を眺めているしかなかった。勝手口を開けようとしたとき聞こえた叫び声と音は何だったのか、家全体が震えたあれは?……私一人なら錯覚、幻聴とも考えられるが、隣にいた岡本先生も同時にそれを聞いている。確かに何かがあった、起こったのだ。しかし全部を見たわけではないが家の中には何の異常もなかった、あの二階の部屋と、誰もいないことを別にして。
そんなことを考えながら庭を見ていたとき、私は何かひっかかるものを感じた。何だろう、何かが違う。つまりこの家に入る前と何かが。まだ一時間も経っていない。私は本気で自分の記憶と今見ている風景を照らし合わせていった。何も変わっていないはず……いや、そうだ。庭木の下に転がっていた緑色のベビーカーがないのだ。庭をうろついて探してみるがどこにもない。後から来た巡査長や警官が動かしたのか、そんな必要はないはずだ。なぜなくなった? 誰かが持ち去ったのか、しかし何のために? どうでもいいことだったのかもしれない。しかしこの特殊な状況である。やはり気になった。
やがて、別の車両が到着し、白衣を羽織った男女が降りてきた。あの部屋を染めているのが人間の血かどうかを確認するために鑑識担当が呼ばれたに違いない。先ほどの警官同様、私たちをじろりと見たが特に何も言わず、家の中に姿を消した。
「警察は、事件性があるかどうかを確認しようとしてるんですね」
いつの間にか、学校への電話を終えた岡本先生が私の横に戻ってきていた。確かにあれが人間の血だとすれば、明らかに傷害あるいは殺人の可能性を前提に捜査をする必要があるだろう。そうでなければ一家五人の失踪事件として捜査するにしても、本人達の意志で家を出たか何者かに拉致されたのかはっきりしない以上、捜査対象とできるかどうか、現時点では何とも言えない。――やがて桐山巡査長がもう一人の警官と共に出てくると、私たちに今日のことをいろいろと確認された。ただ家庭の内情についてはわからないことが多く、岡本先生も担任として子どもに関わる部分しか答えられない。それを察した巡査長はやがて質問を切り上げ、申し訳なさそうに言った。
「今日は一度お帰りいただいても結構ですが、後ほど署の方までお越しいただいき詳しいお話を伺うことになるかもしれません」
私たちに異論はなく、ようやく橘邸から引き上げることになった。時間はそろそろ昼近くなっている。門までは巡査長が送ってくれた。驚いたことに、いつの間にかパトカーと警官が増え、今出ようとしている門には例の黄色いテープが貼られようとしていた。さすがに騒ぎに気がついた近所の人たちが少し離れて見守っている。その中には昨日私が橘家についてたずねた主婦もいた。岡本先生が私に言う。
「どうやら、警察は人間の血の可能性が高いと見たようですね。大変なことになりました。橘友加里が心配です」
私も、毎日登校を見守っていた少女の安否は心配だったが、とんでもないことに遭遇してしまったという思いの方が強かった。ふと先生に聞いてみる。
「先生、庭にあったベビーカーをご存じないですか、緑色の?」
唐突に問われた先生の表情から、私は質問をすぐに取り消す。
「あ、いいんです。気になさらないでください。年寄りの思い違いでしょう」
「はあ、僕には何が何だか……混乱しています。今日はお世話になりました。学校に戻ります。そうだ、携帯のアドレスを交換しておきましょう。何かあれば連絡しますから」
なるほど、そういう手もあるんだなと、若い先生に教えられた私だった。
三 妻の警告
ようやく解放された私は自転車で帰宅する。昼食には間に合うだろう。家で待つ妻には、小学校の先生と家庭訪問すると連絡してあった。
帰宅すると妻は台所でなにやら料理を炒めていた。
「ただいま、遅くなった」
「すぐできるから、ちょっと待ってて」
いつもの夫婦の会話。私は自室でさっと着替える。鏡には交通指導員ではない初老のくたびれた男の姿が映っている。その時いきなり鏡に妻の姿が映り、少し驚く。
「ど、どうした?」
これはいつものことではない。心なしか妻の表情が険しい。妻は言う。
「あなた、どこへ行ってたの?」 厳しい口調だ。
「だから、連絡したじゃないか。家庭訪問するって…」 私はそう答えるしかない。
まるでいかがわしい店で遊んできた夫を問い詰めているようだな――、と思いながらふと思い出した。妻には霊感がある、というよりかなり強い。
こんなことがあった。TVで心霊番組は人気のプログラムのようで、月に一、二回はオンエアされている。私は割と好きなのだが、妻はこれを嫌い、ちらりと画面を見ると「やらせね」と言い放つのだ。興が冷めるので注意すると不機嫌になってしまう。ところが半年ほど前だったか、同じような番組を私が観ている時だった。このところ人気に陰りの出てきた女性タレントがリポーターで、心霊現象がたびたび確認されるという廃工場跡を廻るという意図の番組だった。タレントは一生懸命怖がったり、多少の笑いを取ったりしていたのだが、妻は珍しく私と一緒にその番組を観て、そして言うのだ。
「このタレント、この仕事断ればよかったのに」
いつもと妻の口調が違うなと私は感じたが、その時は妻からそれ以上のコメントはなく、結局そのままになっていた。……数週間後のTVでそのタレントがマンションから投身自殺したニュースが流れ、驚いて妻に声をかけると、
「ただの偶然でしょ」とつれなく答えるのだった。
思えば、同い年の妻が霊感が強いと感じることは度々あり、若い頃にはいろいろ聞きただしたこともあった。しかしそうした話題は「地雷」であり、本当に機嫌が悪くなるので、夫婦で年を重ねるうちに、いつしか会話に上らなくなったのだ。
その妻が、今回は本気で私を問いただしている。その勢いに押され、私は先ほどまでの橘邸の出来事を妻に話していた。聞き終わると妻はきっぱり言った。
「あなた、その家には二度と近づいちゃだめ。もし警察が現場でもう一度確認をなんて言ってきても絶対断って」
その後はなぜと聞いても妻は一切答えない。二人は少々気まずい昼食をとることになった。
さすがに同じ町内である。橘家の事件はあっという間に地元の人々の間で広まっていった。この日警官から話を聞かれている私の姿を見かけたという町内の知人の中には、わざわざ私の自宅まで訪ねてくる者さえいた。ほとんどは妻が対応してくれたし、断り切れない相手には、私が警察から口止めされていると直接断った。 夜には電話は地元新聞社からもかかってきた。まあ私も交通指導員の服装だったし、どこの誰かなどすぐにわかってしまうのだろう。私から何も言えないという点では同じだったが、むしろマスコミ側が、この事件をどう受け取っているかがよくわかった。結局、不審な一家失踪事件ではあるものの、誰かの遺体が発見されたわけでもなく、事件性が曖昧だとしてまだ記者会見などもおこなわれていないようだった。おそらく今頃警察はさらに人手を増やして敷地内の地面でも掘っているかも知れない。気になったのは、「橘家の誰かが何かの宗教にはまって、それが家族で争いになっていたという話がありますが、何かご存じですか?」という問いだった。知らないと答えつつ、あの二階の不気味な模様が頭にちらつく。橘家の誰かとすればゆかりちゃんの祖母の可能性が高いと思った。
翌日の朝、私はいつものように交通指導に出た。子ども達も同じように登校班でやってくるが、 もちろんその中に橘友加里の姿はない。ひととおり子ども達を見送った時、警察から電話があり、都合がつけば署まで来てほしいとのことだったので、一度帰宅して自動車で警察署に向かう。市の中心部にある警察署は鉄筋四階建ての立派な建物で、何度か来たことはあるが、上の階は初めてだった。そこには桐山巡査長が待っていて、調書等ではなく、指紋をもらいたいとの事。さすがにいい気はしないが、一緒に家の中に入った以上、私の指紋が分別できなければ捜査に支障が生じるだろうと、素直に協力する。おそらく岡本先生も同様だろう。その場で、巡査長に尋ねてみる。
「橘のおばあさん、何か宗教にはまっていたのではという噂が地元にはあるようなんですが、本当ですか?」
本来なら安易に話してはいけないはずだが、知人の指紋採取というのがよほど後ろめたいのか、旧知の私を信頼しているのか、巡査長はこっそり教えてくれた。
「その噂は警察も把握しています。あの部屋は確かに怪しい感じでしたから。ただ、現時点の捜査では何かの宗教団体との接点は確認されていません。まあ、よほどの秘密結社でなければですがね。――もしそうした噂があるようでしたら、町内の方で否定していただくと助かります。なにせマスコミはそうしたネタに敏感で……」
結局警察署の用件は一時間弱で終わる。帰ろうと駐車場へ出たところで携帯が鳴った。小学校の岡本先生だ。
「指導員さん、小学校の岡本です。昨日はどうも。……ああ僕も朝一番で指紋採取でした。やっぱり嫌な感じですよね。ところで、昨日の帰り際にベビーカーのこと、何か私に尋ねられませんでしたか?」
突然意外な話題に触れられて、私は少しドキリとした。
「確かにお聞きしましたよ。いや、たいしたことではないんです。実は昨日、橘さんの家に入る前、庭にベビーカーがあるのを見たような気がしてたんですが、いつの間にか見当たらなくなって。まあ、私の勘違いかも知れませんが。」
「そうですか……いや、僕はぼんやりしてるんですかね、ベビーカーにはまったく気がつきませんでした。」
「それはいいんですが、なぜ今日になってその話を?」
そう尋ねたが、岡本先生は言葉を濁して答えなかった。 話題を変えたかったのか別の話をしてくる。
「そういえばうちの養護教諭が、一週間ほど前、保健室で橘に妙な話を聞いたと言うんです」
「妙な話?」 先生の口調は気になったが、その話は聞きたかった。
「彼女は、家が怖いので弟を連れて逃げる。……そう話したそうです」
「家が、怖い?」
「はい、当然養護教諭はなぜ怖いのかと聞き返したんですが、橘は口をつぐんで何も話さなくなったとか」
その時突然私の脳裏に、幼い弟を乗せた緑色のベビーカーを押す小さな少女のビジョンが浮かんだ。なぜか背筋がぞくぞくし、そのビジョンを振り払いたいのだが、瞼の裏に張り付いたように目をつぶればよけいにはっきりしてくる。結局電話は私の方から先に切ってしまった。
ようやく我に返ると、私はまだ警察署の駐車場にいるのだった。とりあえず自宅に向かう。警察署に行くと言って家を出たので、妻は心配しているだろう。帰宅して妻に今日のことを報告する。しばらく考えていた妻はやがて言った。
「あなた、もしこれから現実にその女の子やベビーカーが見えることがあっても、見えないふりをするの。絶対にそちらを凝視したり声をかけてはだめ。わかった?」
日頃は自分自身の霊感を認めない妻の、あまりに具体的な指示に、私は否応なく首を縦に振るしかなかった。
四 そして終局
一週間がたった。橘家の事件は特に進展していない。予想どおり警察は遺体を捜して庭から床下から掘り返したし、一家の交流先、関係者にはひととおり確認をとったようだが、何一つわからない。父親は勤務する建設会社をあの日以来欠勤、母親が週四日出ていた市内の書店のパートも同様だった。ただ二人とも職場の評判は悪くなく、問題らしいことは浮かび上がってこない。祖母の宗教疑惑もやはり単なる噂のようだ。ただ二階の大きな血痕は、DNA鑑定の結果、そのほとんどは祖母のもので、死に至る可能性もある出血量らしい。しかしそれ以外の何者かの血液も混じっているようで、その鑑定が難しいようだ。例の壁に描かれた不気味な文様については、マスコミには全く伏せられているらしい。無人の家は厳重に封鎖され誰も入ることができなくなった。
大量の血痕から、傷害・殺人の可能性は高いとは思われたが、何せ遺体ひとつ見つからず、一家五人全員が失踪したのだ。何らかのトラブルで何者かによって拉致されたと考えるのが自然だったが、家の中にその痕跡なく、何か争うような物音や声を聞いたり、不審な車が停まっているの目撃したりした近隣住民はいなかった。むしろ各部屋とも整然としており、家族が自主的に出て行ったのではと思わせるほどだった。要するに、事件としての可能性に何の裏付けも手がかりもないのだ。 警察の捜査は行き詰まりつつあるようだった。しかし、私が最初に橘邸を訪れた時に感じたあの禍々しい不安感、空気、そして叫び声と地響きはなんだったのだ。これをいくら警察に話してもほぼスルーされた。それはやむを得ないと思うが、橘さん一家の失踪が単なる「夜逃げ」などではないことを誰よりも感じているのは、私と岡本先生だろう。そしてもう一人、直接にはかかわっていないが、私の妻も私を通してそれを感じていた。
さらにひと月が経ち、四月になる。登校班の子ども達も一学年進級し、リーダーだった六年生は卒業していった。そして上学年の子に連れられた可愛らしい一年生が、満開の桜の下、大きく見えるランドセルを背負って小学校へ向かうようになった。見守り交通指導の私の役割は変わらない。おはようと声をかけ信号を確認して道路を横断させる。橘友加里も行方不明のまま三年生に進級した。いつしか彼女のことを話題にする子はいなくなっていた。 マスコミも三月のうちは一家失踪事件としてしばしば話題にしていたが、進展しない捜査と、遺体なども発見されていないこともあり、興味を失ったかのように無関心になっていった。妻の助言もあり、橘邸にはまったく足を向けなくなった自分だが、近所に住む町内会の知人の話では、家そのものは封鎖されたままで、さらに荒れた様子だという。町内でもあまり話題にはされなくなったというが、それは関心が薄れたのではなく、薄気味の悪さから口に出すのもはばかられるという感じであろう。家そのものがいやでも目に入る近隣住民としては当然とも言えた。
一番最後の登校班が渡り終えた時、見送っていた私は横断歩道のあちらにそれを見た。緑色のベビーカーを押す小さな少女。総毛立つのを覚えたが、とっさに目をそらす。これも妻の助言に従ったのだ。本当に橘友加里であれば横断歩道を渡り終えた子の中には顔見知りの子もいたはず。しかし子ども達は無反応だった。見えていないのだ。 目をそらしたままじっと耐える。その場を立ち去ることもできたが、何かについてこられるような不安感があった。強く目を閉じる、そして――
「……大丈夫ですか?」
声をかけられ目をあけると、目の前に顔見知りの住民がいた。無意識に歯を食いしばっていたのか顎にしびれがある。目を閉じ歯を食いしばる初老の男、心配されて当然だろう。
「あ、大丈夫です」と返事をしながらちらりとあちらを見ると、すでにベビーカーも少女も姿はなかった。 ほっとすると、自分が真夏のようにびっしょりと汗をかいているのがわかった。心配してくれた人にお礼をいい、わざと元気を装って自転車に跨がりその場を離れる。
帰宅してさっそく妻に報告する。妻は励ますように言ってくれた。
「……やっぱりね。でも、見ないように無視したんでしょ。なら大丈夫よ。」
「なあ、やっぱりゆかりちゃんは死んでるんだろうか?」
「そうね」
妻は否定しなかったが、この話題を避けたい様子で、これ以上は言えなかった。
その数日後、小学校教諭の事故死のニュースが流れた。死んだのは岡本先生である。市郊外の国道で路側のコンクリート塀に激突したのだ。まだ黄昏時で比較的明るく、付近を走っていた車や歩行者から多くの証言が集まった。
「いやあ、車の動きがおかしかったね。ごく普通に走ってたのが突然急ハンドルきってね。何かよけようとしたようにも見えたけど」
「自分は反対車線を走ってたけど、びっくりしました。いや、道路には何もなかったですよ。確かに何かをよけようとしたみたいだったね。猫でも渡ったのかな?」
事故車にも他の車にもドライブレコーダーがあり、警察はそれらを集めて確認したが確かに急ハンドルで回避しなければいけないようなものは記録されていなかったという。後日、例の桐山巡査長が私に話してくれた。
「岡本先生、すぐに病院へ運び込まれてしばらくは意識もあったらしいんですが、ずっと周囲に、『ベビーカーは大丈夫でしたか? 自分がはねてしまったような気がするんですが……』と最後まで言い続けていたようなんです」
私はぞっとした。私に見えるものは先生にも見える可能性があったのだ。警察署の駐車場での先生との通話が思い出された。私には妻という助言者がいたが先生にはいなかった。私が彼に注意を喚起していれば――まだまだ前途ある若い先生の訃報に、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
それからも緑のベビーカーと少女はしばしば私の周囲に現れた。と言っても見えたと思った瞬間目をそらすので、しっかり見てはいない。大抵はそれでうまくいった。視線をそらすことが難しい車の運転などは、ほぼ妻が変わってやってくれるようになった。こうしたことは慣れてくるとさほど難しくはないが、その度に感じる背筋がしびれるような恐怖感は変わらない。
春はあっという間に過ぎ、夏。そして今日は長い休みが終わって二学期の始業式だ。まだまだ響く蝉の声の中、私はいつもの交差点で旗を持ち集団登校の子ども達を待った。やがて市道の側から子ども達の声がして最初の登校班がやってくる。集団がいつもより少し大きく見えるのは、手に手に夏の工作や宿題を抱えているからだ。おはようと声をかけると元気よくあいさつを返す子、口の中でなにやらごにょごにょ言う子、これもいつものことである。みな夏休みの楽しかった思い出の情報交換に忙しいようだ。
その中に、緑色のベビーカーを押す橘友加里が無言で混じっていた。
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