おととい来やがれ!
@Wahei71
第1話
向月(こうげつ)は昨日の酒の残りを感じながら不機嫌に起きた
あいも変わらず当たらぬ舟券を肴に復讐するかのようにしたたか呑んだ
そして呑まれて今である
寄席の帰りに着流しのままいつもの平和島に向かい
多額の寄付をするのがこの男の日常であり 勝っても負けても呑む
だから常に金は無く飲む打つ買うの三拍子揃った真性のクズである
唯そんな向月にも取り柄はある
こんなざまでも真打ちの落語家である
若い頃結婚こそしたがこんなザマなのであっという間に三行半を叩きつけられた
師匠の満月師匠にも破門こそされていないが半ば見捨てられてるそんな男である
しかし落語は一流であり落語マニアの間では「無冠の帝王」と呼ばれる
真打ち昇進の際も芸の実力こそ認めるもののその人となりで協会は紛糾
すったもんだの末の真打ちとなった
この破天荒な男は落語家というより落語の登場人物そのものであり 噺の説得力と納得感が尋常ではなく 知ってる噺なのにこの男が話すとまるで違う噺の様になりべらぼうに面白い
江戸時代からタイムスリップして来たかの様なきっぷのいい語り口は恐ろしく耳心地がいい
ゆえにファンも多くこの愚かな落語の権化は呆れられ愛されている
かの立川談志は「落語は人の業の肯定」であると言ったという
この業の塊に落語があったのは悪魔の仕業か神の差配か
45歳で一人やもめ
弟子を取っても弟子が耐えきれず出ていくか癇癪起こしてたたき出す始末で真打ちのくせに今や一人も弟子はおらず身の回りの事は全部自分でやらねばならない
ならないが……
この男に生活者としての能力は当然ない
全ての才能 能力を落語に吸い取られそれしかなくそれこそが男を唯一無二の落語家として輝かせている
「あ~クソッ頭痛てぇ 毒島の奴あんな所で捲られやがって」
短く刈り上げた頭をボリボリ掻きながら大きな欠伸をし酒臭い息と悪態を吐く
自宅は小さな木造アパートで六畳一間 風呂 トイレ 台所あり
裸電球とちゃぶ台 万年床の布団
周りにあるのは酒瓶 空き缶 大きな灰皿に山盛りの吸い殻 各種請求書……
昭和の貧乏人のステレオタイプをここまで精密に再現しているのはひとえに彼の業のなせる技である
「宵越しの金は持たない」
江戸っ子の粋を令和の世でも体現しているこの男
しかしながら冷蔵庫の中の酒は常に常備しており酒の宵越しは気にとめないらしい
冷蔵庫から発泡酒の缶を取り迎え酒を呑む
「昨日は行けると思ったんだけどな~」
最終レースまでは今年のツキが利子つけて巡ってきたかたと思う程勝った
そのまま帰れば近年稀に見る灼熱の懐でいられたのに欲をかいた
博打打ちの癖に最後はガッチガチの本命に灼熱を投じ見事にスった
「やっぱ欲かかねーであのまま帰ぇれば良かった」
「いや 博打打ちたるものあのまま帰ぇるのは美学に反する」
誰に聞かせるでもなく独りごち 極寒の懐をボリボリ掻きながら酒をチビチビ飲み今日の過ごし方を考えていた
今日は寄席も非番だし金もねぇ……
最近 廓噺ばっかりやってたから「死神」でもさらってみるか……
この男に美点があるとすれば落語にだけは真摯でありそうは見えないが稽古だけは真剣にやる
足元の我楽多を行儀悪く足で片付け 稽古用の座布団をポンと置くとその上に正座し穴の空いた襖に正対する
口元で噺のスジを独りごち 喋り出す直前
玄関のブザーが汚い音でブーっと鳴った
続けざまにノックの音がして
「ごめんください 向月師匠はおいででしょうか」
「お約束通り おとといに伺いました」
気の弱そうな若い男の声がした
「?」
「おとといに伺いましただ?」
大事な稽古の邪魔をされカッと頭に血が登ったが
玄関からの言葉に引っかかり少し気勢が削がれた
「ごめんください 師匠いらっしゃいませんか?」
少し泣くようなか細い声になり今にも消えそうな気配を感じ
「おう 居るよ お前さん誰でぇ?」
思わず返事をしてしまった
「弟子入りを希望しております藤枝慎吾と申します」
「師匠はご存知無いでしょうが本日より2日後弟子にして下さいとお願い致しましたらおととい来やがれとおっしゃられたので本日伺いました」
頭のオカシイ野郎が来やがった
チッと舌打ちし怒鳴りつけて追い返してやろうと立ち上がったが声は弱々しいものの狂ってるでもからかってるでもなく真剣さが伝わってくる
噺を生業にしてる為か人の言葉から人となりを鋭く感じる事のできる向月は少し興味が湧いてきた
玄関につかつかと歩み寄りカギを回しドアを開けた
と同時にガンと物の当たる音がして視線を下にやるとこざっぱりした格好の小柄で細身な男が尻もちを着いていた
頭を抑えながら顔を上げると不安そうな視線をこっちに向けてきた
はっとした表情になると勢いよく立ち上がり腰を90度に曲げてお辞儀をした
「初めまして いつも落語拝聴させていただいてます」
その勢いに少し気圧され 「おっ おう ありがとーな」と柄にもなく礼を言った
腰を曲げたまま微動だにしない男…藤枝と言ったか?
このまま腰曲げたままじゃねーだろうな…
しばらくほっとくかと思ったが
埒が明かねぇ
「おい」
呼びかけるとビクッと反応し恐る恐る顔を上げたその藤枝とかいう男はそれなりに整った顔ではあったが緊張の為か頬が少し引きつっていた
「玄関の前でいつまでも見合ってても始まらねー」
「とっ散らかっちゃいるがとにかく入えりな」
人を招き入れる様な場所では無いが玄関先で話すのもまた違う気がして渋々部屋に招き入れた
「失礼します」
客の座る場所など無い部屋の片隅を足で片付け稽古用の座布団を相手の場所に置いた
「これに座んな」
周りを落ち着きなくキョロキョロ見ていた藤枝はあっと思ったのか静静と座布団の上に正座して座った
「あの…師匠の座布団は?」
少し決まりが悪いのか藤枝が尋ねると
「この部屋に客なんか来るわけねーだろ」
「それひとつ切りだよ」
少し不機嫌そうに藤枝の正面で向月は胡座をかいて座った
少しの沈黙の後
「言っとくが茶なんかでねーぞ」
ぶっきらぼうに向月が言い放つと
「いいえ とんでもない こうして部屋に迎えて頂いて恐縮です」
「あの これ良ければ」
そっと差し出したのは手土産らしい
箱を見ながら
「菓子かい?」
尋ねると 「いいえ エビスの詰め合わせです」
「ビールの?」
「はい お酒が好きだと思ったので」
「気が効いてるじゃねーか 遠慮なく貰うよ」
手土産を気に入って貰えて嬉しかったのかやっと藤枝の顔に笑顔が浮かんだ
割といい笑顔じゃねーか
少しつられて顔が緩んだがイカンと思い直し顔を整え胡座ながら姿勢を正して問いかけた
「お前さん さっき変な事言ってたな おととい来やがれと言われたから2日後から来たと」
問い詰めるような責めるような口調でわざと言うと
「はい その様に申しました」
少し気圧されながらも以外にしっかりした口調で藤枝は答えた
「確かに俺ぁよく頭にきた相手にそういうがその通り来たやつは1人も見たことがねぇ」
「でも お前さんが俺をからかってる様にも見えねぇ」
1拍間を置いて 念を押す様に向月は聞いた
「本当なんだな?」
藤枝も慎重に
「信じられないかも知れませんが本当です」
互いの間に少し緊張した空気が流れた後
破顔して向月が笑いだした
「俺に弟子入りする為にそんな話仕込んでくるたぁ中々見上げた根性だ」
「見かけに寄らず度胸あるじゃねーか」
ケラケラ笑いながら向月が言うと気まずそうに藤枝が頭を掻きながら言った
「いえ あの 作り話では無く本当の事なんです」
腹抱えながら笑っていた向月に申し訳なさそうに藤枝は言った
笑っていた顔がみるみる正気に戻り向月は少しカチンときたようで
「ほー? するってぇと本当に2日後から来たってのかい?」
「こっちが笑い話で収めようってのに突っかかるじゃねーか」
真顔に戻った向月の険しい視線に藤枝は間違いなく縮み上がっているものの尚真剣な面持ちで
「信じて貰えませんよね? 僕自身も信じられないんですが」
「2日後から来たのは本当なんです」
つまづきながらも真剣に言葉を紡ぐ目の前の男…
この態度と言葉にどうも嘘の匂いを感じない
このまま笑い話で気に入って貰う方が弟子入りの可能性は高いはずなのに敢えて俺の機嫌をとらない
「腹には落ちねえが 仮に2日後から来たとして」 「どうやって来た」
もう真相を探るしかないと腹を括った向月は藤枝の目をじっと見据えて尋ねた
「方法はお教えする事は出来ません」
「とある方との約束なので」
気弱な癖にこっちの視線を外さず真っ直ぐ見つめたまま答えた藤枝にすっかり呆れた気分で向月はつぶやく
「どうやって2日後から来たと証明する?」
ここは乗っかるのが吉だと判断し出方を見るか
さてどう答える?
少し意地悪な気分と純粋な興味で問うた
そう言われてはっとなったのか藤枝は言葉に詰まり
頭を下げて動かなくなってしまった
「おいおい ただ2日後から来たって言われても はいそうですかってなるわきゃねーだろ?」
「そもそもお前さんだって立場が逆なら信じるかい?」
「この俺を笑わせて感心させたんだから作り話ってことでもいーじゃねーか」
半分本気でこの話を収めようと助け舟を出したつもりの向月であったが突然藤枝は頭を上げて大声でこう言った
「競艇!」
いきなりの言葉に心臓が飛び出そうなくらいびっくりして崩れるように倒れた向月はその言葉を理解するのにしばらくかかった
「バカ コノヤロウ大声出しやがって心臓が止まるかと思ったじゃねーか!」
「競艇って言ったか? 競艇がどうした?」
藤枝の顔は明らかに興奮していた
「師匠が競艇お好きなのは知っていたのでお話合わせるために少し勉強したり舟券買ったりしておりました」
若い未来ある男がこんなクズの話に合わせる為に競艇で舟券って……
こんな真面目な奴に落語家なんて務まるのかい?
いや落語家なんぞに身を落とすなんざダメだろ
向月の思いをよそに高揚した顔で鼻息粗く藤枝は捲し立てた
「師匠にお会いするからには話をあわせねばと二日前……いや今日か!」
「僕平和島で第1レースから最終レースまで居たんです!」
「レースの結果を全部ケータイに記録してます!」
いきなり上着のポケットをまさぐりケータイを取り出し興奮しながら画面を差し出した
目の前に突き付けられた画面の日付は確かに今日 最終レースの結果までスクショされている
半信半疑のままぼーっと画面を見つめていると最終レースの結果に目が止まり脂汗が滲んだ
「おいおい 最終レース 万舟出てるじゃねーか!」
もしこれが本当ならただ事じゃない
昨日の負けも楽勝で取り返せる
「そーなんですよ 最終レース100円でも買ってれば良かったんですけどね」
満面の笑顔で藤枝も答えたが向月はもう万舟の事しか頭に無いようで
「おい! 今から平和島行くぞ!」
「この結果が本当ならお前を弟子にしてやる!」
この未来予想が本当なら有り金全部賭けてもお釣りが来る
2日後から来た弟子なんて噺のマクラに最高じゃねーか
とりあえずサイフの中身を確認して今から行っていくらになるか皮算用で頭がいっぱいの向月は気づかなかったが藤枝の顔は複雑な笑顔であった
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