第3.5話 午後の光

 午後の光が、世界の余白を削る。

 細い光の線が、灰色を静かに切り分けていた。


 部屋には音がない。

 ケトルの残り湯が、かすかに呼吸しているだけだった。


 それでも、少女はその音を聞きながら、テーブルの上のマグカップを指でなぞる。

 縁に乾いたコーヒーの跡がある。


 部屋の隅に、古びたスーツの上着が掛けられていた。

 肩の縫い目が少しだけほつれていて、そこから糸が一本、光を掠めて揺れている。

 少女は無意識にそれを引こうとして、やめた。


 窓の外で風が鳴る。

 耳の奥で、時間がゆっくりと反転していく。

 光は薄くなり、空気の中に金木犀の香りが、ふと混じった。


 少女は顔を上げた。

 まるで、名前を呼ばれたような気がした。

 けれど、誰もいなかった。


 テーブルの上に、男が置き忘れた名刺が一枚あった。

 印刷の掠れた会社名と、丸まった端。

 その紙片を指先で押さえる。心臓の奥が小さく跳ねた。


 西陽が室内を覗き込んでいる。

 かび臭い埃が、賑やかしとばかりに、少女の周りを舞っている。


 名刺を、持ち上げてみる。

 軽くて、重い。知らない重み。

 それで良いと思った。


 立ち上がった少女は、自らの着るジャージの裾を陽にかざす。

 綿埃が白く光る。


 匂いを嗅ぐ。僅かに、汗の匂い。


「シャワー、借りて良いかな……」


 郵便配達のカブの排気音。

 それだけが、少女の影に答えた。


 ****


 終業間際のオフィスは、清浄機の風が書類の角だけをめくる。音はないのに、紙の縁だけが忙しい。


 書類をめくる指先が、キーボードの隙間に引っ掛かる。

 蛍光灯の白い明かりが、冷めたコーヒーに光輪を浮かべる。


「先輩」

「ん?」

「部長が、今夜も飲みに行こうって」


 そう告げる奴の顔は、微妙に歪んでいる。

 片側の口角だけが引き上がり、目尻は垂れ、そのくせ眉が怒り眉間に皺が出来ていた。


「あっそう」

「……毎日毎日。好きですよね、あの人も」


 そう言って、隣のデスクに付く青年をチラと見やる。

 夕方というのに、整った横顔。永久脱毛でヒゲも生えないと以前話していた。


「……好きじゃないさ」

「……え?」


 俺の小声は、島の境目で崩れて消えた。

 声は届いて、意味だけ落ちる。それが職場の距離らしい。


「嫌なら、俺が上手く断っとくぞ?」

「……うーん。大丈夫です。

 まあ、なんだかんだありがたい、らしいんで。評価面談も近いんで、顔だけ出して三十分で逃げますよ」

「……そうかい」


 モニタの光を顔に貼りつけたまま、彼は笑った。

 結局、いつもの会話。いつもの結論。


 ふと、あの少女を思い浮かべる。


 彼女は今も、あの部屋にいるのだろうか。

 それともまた、あの世界の縁を漂っているのだろうか ――


 金木犀の、香りのように。


― 第1章 終 ―

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誰も帰らない ― 金木犀の夜 ほらほら @HORAHORA

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