第3話 明け方の音

 どれくらい時間が経ったのか、もう分からない。

 窓の外は、うっすらと灰色に濁っていた。

 夜が完全に死ぬ前の色。

 空気は湿って、冷たく、息を吸うたびに胸の奥で音がした。


 床に目をやると、少女は、丸くなって眠っていた。

 膝を抱え、頬を腕に埋めて。


 その姿勢があまりに小さくて、見てはいけないものを覗いている気がした。

 まるで、生きることそのものが罪であるかのように。柄にもなく、そう思った。


 冷蔵庫のモーター音が、止まっていた。

 聞こえるのは自分の呼吸と、外で鳴く鳥の声。

 まだ、朝でも夜でもない時間――どこにも属さない、余白のような時刻。

 砂時計の砂は流れない。ただ、溢れる。


 立ち上がり、カーテンを少しだけ開ける。

 光は細く膨らみ、少女の髪を照らす。

 黒い髪の一本一本に、光が刺さった。

 明るい黒が妙に痛い。


 机の上には空き缶と、おにぎりの包み。

 床にはコンビニの袋。

 どれも無言で、しかし俺を責めているように見えた。


 金木犀の香りはもうしない。

 代わりに古い部屋の埃と、冷めたビールの匂い。

 それがやけに現実的で、俺は思わず笑ってしまう。

 どうして笑ったのか、自分でも分からない。

 それでも、笑った瞬間に、涙が出た。


 笑って、泣いて、我に帰った。

 その涙が何のためのものか、やはり分からなかった。


 身動ぎの気配がした。

 少女が目を覚ましていた。

 まぶたの裏に夜を残したまま、ゆっくりとこちらを見る少女。


「おじさん、泣いてるの?」

「泣いてない」

「嘘つき、だね」


 少女はそう言って、再び膝に顔を埋めた。

 その声が、まるで、誰かの祈りみたいに聞こえる。


 外では、朝の匂いがし始めていた。

 けれど、俺たちの部屋だけは、まだ夜の底にいた。


 ****


 金木犀の香りは、もう完全に消えている。

 代わりに鼻につくのは、コンビニのおにぎりの海苔と、空き缶の金属臭、そして乾ききらない洗濯物の湿り。

 生活の匂い。そう言うには、まだどこか他人の部屋のような温度が残っている。


 キッチンで湯を沸かす。

 電気ケトルの唸り声が部屋の隅々に行き渡る。

 その音に、少女の寝息が重なって、奇妙に一定のビートを刻む。

 4拍子、8ビート。シンバルはない。ステアは気が抜けている。


 秒針のない時計みたいだ、と思う。

 時間を測れないのに、確かに流れている。


「……お湯、いるか?」


 声を掛けると、丸まっていた少女が少しだけ身を動かした。

 髪が肩から滑り落ち、光を掠める。

 寝起きの顔。まぶたに夜を一枚残したまま、こちらを見た。


「コーヒー?」

「インスタントだけど」

「じゃあ、いる」


 そう言って、少女は毛布を抱えたまま膝を立てる。

 足首が白くて、どこか痛々しい。

 湯気が立ち上る。マグカップの縁から、曖昧な朝が滲んでいく。


「今日、仕事?」

「ああ」

「……ふーん」


 少女は短く答えるだけで、それ以上何も聞かない。

 ただ、コーヒーをすする音が小さく響く。

 生活音。昨日まで沈黙だった空気が、少しずつ形を持ちはじめている。

 その変化が、なぜか息苦しかった。


「出るの?」

「七時には」

「私、ここにいてもいい?」

「……勝手にしろ。ただ、鍵は閉めとけ」


 少女はうなずく。その顔には、安心でも感謝でもない表情が浮かんでいた。

 俺が洗面所へ行くと、後ろで何かが動く音がした。

 振り返ると、少女がテーブルの上のゴミを丁寧にまとめていた。

 おにぎりの包み、ビール缶、コンビニのレシート。一枚の紙のように平らに、小さく丸める。


「そんなことしなくていい」

「別に。暇だから」


 短い会話。

 だが、その何でもないやりとりの中に、昨日までの空洞が少し埋まった気がした。

 湯気が薄くなり、ケトルの中の音が止む。

 静けさが戻る。

 不思議と、昨日の沈黙よりも重かった。


 外に出る前、玄関で振り返る。

 少女は窓辺に座っていた。

 足を抱え、外を眺めている。

 街の色はまだ冷たい。光も音も、すべてが眠気を引きずっている。


 コーヒーの湯気だけが、動いている。

 少女がこちらを見ずに言う。


「何も、起きなかったね。おじさん」


 それで十分だった。


「……ちゃんと鍵、かけろよ」

「うん」

「何かあったら警察呼べ」

「呼ばないよ。そういうの、嫌いだから」


 返ってきた言葉に、喉の奥が少しだけ詰まる。

 それ以上何も言えずにドアを閉めた。


 廊下の灯りはまだ白く、早朝の空気が冷たい。

 靴音が遠のくたび、背中の部屋がゆっくりと現実から離れていく気がした。

 外に出ると、風が頬を撫でた。


 マンションの駐車場を抜けると、街路樹が並ぶ通りに金木犀の影が残っていた。

 香りは薄く、ほとんど消えかけている。

 季節が遠ざかるのを感じる。

 だが、遠ざかるのは季節だけじゃない――そんな感覚が、胸の底で小さく燻っていた。


 歩きながらポケットの中のスマホを見る。

 メッセージの通知。

 同僚からの業務連絡。

 現実の声。

 画面を閉じると、まぶしさが目に刺さった。


 もう一度、振り返る。

 マンションの窓には何も映っていない。

 そこに、少女がいるはずなのに。

 俺は無意識に深呼吸をした。

 金木犀の香りはしなかった。

 ただ、冷たい空気だけが肺を満たした。

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