第2話 沈黙の部屋

 部屋に着くまでの道のりを、ほとんど覚えていない。

 途中で何を話したのかも思い出せない。


 ただ、少女の靴音だけが、一定の間隔で背後に響いていた。

 死んだ時間に拍子木を打つような、乾いた音。


 マンションのエントランスを抜け、エレベーターに乗る。

 蛍光灯の白々しさが、やけに目に刺さる。

 鏡に映る自分と少女を見比べて、少しだけ笑いそうになった。


「親子に見えるかな」


 口の中で呟いたが、声にはならない。


 少女はスマホの画面を見つめたまま、無表情に立っている。

 指先が震えていた。寒いのか、それとも。


 ****


 部屋の鍵を開けると、湿った空気が流れ出た。

 一人暮らしの男の匂い――カビと洗剤と、古い夢の混じったような匂い。

 少女は何も言わず、靴を脱いで部屋に入った。


 コンビニの袋をローテーブルに置く。

 中のビール缶がかすかに転がって、アルミの音を立てた。


「狭いけど、まあ座れ」

「思ったより、綺麗じゃん」

「そうか?」

「もっと汚い部屋想像してた」


 少女はそう言って、床に腰を下ろした。

 冷蔵庫のモーター音が微かに唸っている。


 テレビはつけなかった。


 俺はビールを一本開け、少女はコンビニのおにぎりを開いた。


「ねえ、おじさんって、どうしてそんな顔してるの?」

「どんな顔だ?」

「何にも興味なさそうな顔」

「お前こそだろ」


 少女は笑わなかった。

 食べかけのおにぎりを手に、じっとこちらを見ていた。

 その黒い瞳の奥で、何かが沈んでいく。

 ふと、金木犀の香りを思い出した。

 あの夜道の、甘くて気持ち悪い匂いを。

 部屋にも、同じような濁りが漂っている気がする。


「帰る場所、ないのか」

「……うん。おじさんは?」

「知らん。もう分からん」


 少女はそれを聞いて、ほんの少しだけ、笑ったように見えた。

 その笑みが消える前に、俺は目を逸らす。

 ビール缶を傾ける。苦味が喉を刺す。

 どうしてか、酔えない。


 外では風が電線を揺すっている。

 その擦れ合う音が、誰かのすすり泣きに聞こえた。


 ****


 夜が深まるほど、部屋の中の空気は重くなっていく。

 時計の秒針、規則正しく死んだ時間を刻んでいた。

 外からは風の音も聞こえない。電線の震えさえ止まり、世界が息を潜めているようだった。


 少女は、さっきまで食べていたおにぎりの包みを丸めて、テーブルの端に置いた。

 その動作が妙に丁寧で、無駄がなかった。

 どこでそういう癖を覚えたのか。家庭か、施設か、それとも路上か。


 どうでもいいと思いながら、俺はビールをもう一本開ける。

 プルタブの金属音が、やけに甲高く響く。


「ねえ、おじさん」

「なんだ」

「こういう夜、よくあるの?」


 少女は床に座ったまま、顔を上げずに聞く。

 膝を抱えて、スマホの画面を見つめている。

 明かりを反射して、彼女の頬が淡く照らされていた。


「こういうって、どういう?」

「誰か拾うとかさ。女の子とか」

「……あるわけないだろ」

「ほんとに?」


 わずかに挑発的な声。

 嘘だ、と言いたげなその響きに、胸の奥がざらついた。


 俺は一瞬、彼女の顔を見る。

 黒い瞳の奥に、光がなかった。

 見つめ返されると息が詰まる。

 そこに何かを見た気がして、すぐに視線を逸らした。


「……おじさんって、なんでそんなに疲れてるの?」

「働いてるからだよ」

「ふーん。じゃあ私も働いたら、そうなるのかな」

「どうだろうな。ならない方がいい」

「でも働かなきゃ、生きてけないじゃん」


 言葉が詰まった。

 真っ当な返しだ。

 それ以上、何も言えなかった。


 ビールを飲み干す。苦い。

 それでも喉の奥に、何も通らない。

 生ぬるい液体が胃に落ちていく感触だけが、現実だった。


 少女は立ち上がり、部屋を見回した。

 テレビ、冷蔵庫、古いカーテン。

 そのどれもを一瞥して、何かを確かめるように視線を止めた。

 やがて、窓際に立って外を見た。


「……暗いね」

「ああ」

「夜って、怖いね」

「慣れれば平気だ」

「慣れたら、もう終わりだよ」


 少女の声が、硝子越しに跳ね返った。

 外灯の光が、窓の縁に細く滲んでいる。

 その光の中で、彼女の肩がかすかに震えた。

 俺は立ち上がらない。


 何かを言おうとしても、言葉が見つからなかった。

 慰めることも、止めることも、もうできなかった。



 代わりに、机の上のビール缶を指で弾く。

 空っぽの缶が転がり、金属音を立てて止まる。


「ねえ、おじさん」


 少女が振り返る。

 その顔は笑っていたが、目は笑っていない。


「もし、明日が来なかったらどうする?」

「別に。そんな日があってもいい」

「そっか。じゃあ、ちょっとだけ羨ましいかも」


 そう言って、少女は隅の床に座り直す。

 部屋の中が、より深く沈黙に包まれる。

 その沈黙の中で、ふと気づいた。

 金木犀の香りが、また漂っている。

 窓も閉まっているのに、どこからか、あの匂いが忍び込んでくる。


 甘ったるく、胸が詰まるような香り。

 思わず深く息を吸うと、涙腺がじんと熱を帯びる。


 少女は目を閉じ、膝に顔を埋める。

 その肩がゆっくりと上下していた。

 泣いているのか、眠っているのか分からない。

 ただ、その背中が小さすぎて、壊れそうだった。


 静かに立ち上がり、部屋の灯りを落とした。

 闇の中で、少女の白い腕がかすかに光った。

 その輪郭を見ているうちに、胸の奥に微かな痛みが生まれた。

 名前をつければ壊れる類いのものだった。


 それは、まだ人でいるために残された、数少ない感覚のどれか。

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