サトリを成仏させるには

日笠しょう

訪れる変態

 童謡『おばけなんてないさ』は臆病者にとって一種の祝詞のりとと同じである。

 歌い出し「おばけなんて ないさ」でまずは己を鼓舞する。おばけなんていない。いないんだ。気を強く持つ。

 続く「おばけなんて うそさ」でより強く否定する。そもそも存在しないのだ。怖がる必要なんてない。

 「ねぼけたひとが みまちがえたのさ」。そう。何事も科学的根拠を持ってすれば怖いものなどない。寝惚けた人の見間違い。これほどまでに確固たる証拠はない。

 「だけどちょっとだけどちょっとぼくだって怖いな」。ブレるな、頑張れ。いないんだから。怖くない、怖くない。

 「おばけなんてないさ おばけなんてうそさ」。ここまで来ると震えながら強がっている風にもみえるかもしれないが、俗に言う武者震いというやつである。


 あれは忘れもしない小学5年生のこと。我が母校では5年生になると林間学校が開催される。子供たちは親元を離れバスでドナドナされること約2時間。気づけばどこの県とも知れぬ山の中に放り出され、やれカレーを作れやれ火をおこせ、しまいには知らない爺の畑を耕せだと自然との触れ合いどころか裸のどつきあいをさせられるのだが話の趣旨はそこではない。


 ナイトウォーク。それは一夏のアバンチュール。いわゆる肝試し。ただし男女2人1組。


 お母さんとおばあちゃんしかしらない男子が! 女の子と! 手をつないで! さんぽ! 何も起きないはずがない。夜の闇に、森の深さに、風の音に、獣の気配に、動じることなく男を魅せれば気になるあのコもたちまちトリコに。やたら言い回しが古いのは親父が歌謡曲を好きだったせいであるが話の趣旨はそこではない。


 11歳のころ、俺には好きな人がいた。100人に聞けば100人が美人と答える、まさに高嶺の花。でも、きっかけはもっと単純だった。夕暮れに染まる放課後の教室。忘れ物を取りに帰った俺は、オレンジの光のなかに、彼女を見た。風で膨らむカーテンと、小説に目を落とし物静かに読みふける彫刻のような横顔。まるで一枚絵のような美しさに目を奪われた。結局美しさじゃないかと言うかもしれないが、俺を他の奴と一緒にしないでほしい。俺はもっとこう、彼女のこう、なんというか、綺麗な心的な……そうだよ一目惚れだよ悪いかよ。


 すったもんだのすえ勝ち取った彼女とのナイトウォーク。震える手。横を見れば彼女の顔は酷く青ざめていて。


 どうしたの? お化けが怖いの。僕、お化けが怖くなくなる方法知ってるよ。


 過去を振り返れる俺だから言える。いけー! 抱きしめろー! そこだー! 気分はビール片手に野球観戦をするおじさんである。おじさんかな? そろそろ覚悟した方がいいのかもしれない。


 話を戻すと、まあ、そんなことはできなかったわけで。できたらいまここにはいないわけで。ここっていうのは少女の幽霊が出るという噂の廃映画館なわけです。


 もう少しだけ詳しく話すと、当時の俺も彼女と同様、臆病者だった。恋の臆病者だったし、普通にお化けも怖かった。


 僕、怖くなくなる方法知ってるよ。


 そう言うだけが精一杯だった。次の展開?


 ではご唱和ください。


「おばけなんてないさ! おばけなんてうそさ!

 ねぼけたひとがっ! みまちがえたのさっ!

 だけどちょっとだけどちょっと僕だって怖いな!

 おばけなんてないさっ! おばけなんてうそさっ!」


 大声で歌う俺を彼女が森に置き去りにしたのは無理もないことだった。


 さて、それがトラウマになったのかなってないのかは知らないが、怖い物が2つになりました。


 1つはお化け。俺の青春をねじ曲げた存在です。恨みそねみが一周回って恐怖心になったのか、普通になんかもう体が拒絶する。

 2つは人間の女。当時の情けない姿(顔がぐしゃぐしゃになるほど泣きながら森の中を絶唱し泥まみれで帰ってきたところ、なんか女子グループに指差されているあの状況)を思い出すからできるだけ近づきたくない。


 ではなぜ、俺は幽霊屋敷と称される廃病院に潜入しているのか。ちなみに潜入というと夜に忍び込んでいるイメージかもしれないが、名誉のために伝えておく。昼である。ホラー映画とかなんでわざわざ夜に行くのか気がしれない。いけよ、明るいうちに。


 ナイトウォークのトラウマが、変なスイッチを押したらしい。


 白い目って、いいなって。名工が石から掘り出したような、一寸違わぬ完璧な顔立ちから放たれる氷のように冷ややかな目線、いいなって。


 こう、怖いんだけど、そのゾクゾクが、いいなって。


 22歳ともなると己の内のリビドーとの付き合い方も分かってきて、日中は俺、夜中はリビドーみたいに喧嘩中の夫婦みたいに上手いこと立ち回れるようになる。これが理性ってわけ。ときどき理性が家出して日中もリビドーになりかけるけれど公園を全力疾走することでいつも事なきを得ている。子連れのママさんからの冷ややかな視線、いいなって。


 ただリビドー君も可哀想なやつである。


「僕はただ、快楽に溺れたいだけなんだ」


 それを理性たる俺がたしなめる。


「人に迷惑をかけちゃいけないよ」


 おばあちゃんの教えだ。今も心に深く刻んでいる、俺の人生の指針であり呪いである。


「このままじゃ爆発しちゃうよ」「じゃあ、人に迷惑をかけなきゃいいんじゃないかな」「どうやって?」


 色々考えた。法に触れず、誰も不幸にせず、俺も幸せ、みんな幸せ。とりあえず妄想を捗らせることにした。自室の押し入れには俺と三十路団地妻のむせ返るような熱い日々を描いた自作小説が大学ノート10冊分ある。物語は旦那にバレて修羅場って最中で、絶賛次の展開を思案中だ。


 リビドー、どうだい?


「逆効果だよ。代えって燃え上がってきちゃったよ」「どうしよう」「人じゃなきゃいいんじゃないかな」


 法の穴を付く悪徳ベンチャー企業のようなリビドーである。我が欲求ながら恐ろしい子。


 若さを武器にいろいろなところへ出向いた。出したことはない。捕まるし、迷惑だから。いつも頭の中であれやこれやをしていた。山、森、崖、洞窟、孤島、海岸、海上。スカイダイビングもしてみたけど、高度1000m辺りから「空は違うな」と思った。廃墟、廃屋、廃村、廃ビル。かつて人の営みがあったところは、やはり何かがある。恐怖、背徳感、よくわからない興奮。それらがないまぜになって感情はしっちゃかめっちゃかだった。


 そんな折に聞いたのがこの廃映画館である。古くからある建物らしく、何度か取り壊しの話が出たがその度に担当者が不慮の事故に遭い中止になったという。まさに曰く付き。一時期は頻繁に出入りする者もいたという噂だが、本当かどうか怪しいものだ。


 廃映画館は封鎖されておらず、ガラス戸が俺を招くかのように半開きで止まっていた。ガラス戸は酷く汚れており、周囲の薄暗さも手伝って中の様子はまったく見て取れない。


 雰囲気バッチリ。こんなことで怖じ気づく俺ではない。今までどれだけの心霊スポットに足を運んだと思っている。一番怖かったのは普通に人が住んでいたパターン。生きている人間が一番ダメだって。


 中に入ると、不思議なことに埃っぽさはなく。床の絨毯や壁の素材が音を吸収するのか、しんと静まりかえっているほかは特筆すべき所のない、ただの古びた映画館だ。


 入り口を抜けるとフロントになっており、チケットカウンターと思しきデスクの向こうに、色あせたポスターが飾ってある。女が横たわっているデザインだ。洋画のポスターってやつはだいだい女が横たわっているに違いない。


 左手に通路があり、奥にシアターがあるようだった。


 少女の霊は、俺に冷ややかな視線をくれるだろうか。そもそも少女の霊なんているのだろうか。

 

 恐怖と期待でドキドキしながらシアターの扉に手をかけて、動けなくなった。


 音が聞こえる。


 足音さえ奪われるような静けさだったのに、なにかの擦れるような音が鳴っている。ずずず、ずずず、と、扉の向こうから聞こえてくる。


 肩が重くなった気がした。急に辺りが暗くなって、空気が湿る。視線を感じる。後ろに何かとてつもなく大きな存在が立っていて、俺が振り返るのを待っている。そう感じた。


 進むことも、戻ることもできない。飲み込むのを忘れていた唾が喉に降りてきて、思わずむせそうになった。音を立ててはいけない、と本能が命令する。苦しみを生唾ごと飲み込んで、覚悟を決めた。


 扉を開ける。


 ——映写機が回っていた。


 「おばけなんてないさ! おばけなんてうそさ!

 ねぼけたひとがっ! みまちがえたのさっ!

 だけどちょっとだけどちょっと僕だって怖いな!

 おばけなんてないさっ! おばけなんてうそさっ!」


「うっさいんですよ!!!!」


「ああああああああああああああああああああああああ!!! ないさ! うそさ! みまちがえたました! すみません!」


 聞こえない。聞こえないふりをして踵を返す。いたか? 今いたか? いや見えていない。声がしてすぐに振り返った。いや声なんてしてない。いないから。いないもん。いないわけで。


 ——ちょっと待ってよ。


 お前は……リビドー?


 ——やっと。やっと会えたんじゃないか。


 違う、あれは生きた人間に違いない。映画館に住む少女はあれだ、新宿の東横を拡大解釈した勘違い系都市伝説だったんだ。そういうことにしておこう。


 ——君ならわかるはずだ。あれだけ心霊スポット、パワースポットを巡った君なら……。


 厄介なことに、長い長い心霊スポット巡りで俺は"わかっちゃう人"になっていた。なんとなく、いるかいないかがわかる。でも姿形は見えない。だから何もうれしくない。見せたいのに、見せたい相手は見えないのだ。見えたところで見せるかどうかは状況による。見せているところを絶対に誰かに見られないなら、見せるのもやぶさかではない。むしろそれが当初の目的だった。


 繰り返すが断じて露出狂ではない。法は犯せない。見せるのは奇行だ。奇妙な行動と書いて奇行である。俺はただ、冷ややかな目で見られたいだけなんだ……。


 そしてこの映画館には、いる。声の主は、きっと俺が探し求めてきた幽で霊なもの。


 恐怖のトラウマと、トラウマが押した変なスイッチ。二律背反、ダブルバインドの感情が、俺を新しい明日に連れていってくれる。


 だけどちょっとだけどちょっと僕だって怖いな……怖いけれど、男を魅せろ!


「おばけなんてうそさっ!」


「嘘じゃないんで一回黙っててもらえますか?」


 銀髪長髪の、ちんまい女の子が煙草をふかしながらこちらを見ていた。


「映画、いいところなんで」

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