穢(わい)の娘

海青猫

第1話

 風を切る音がした。

 頭に衝撃が伝わる。

 熱さの後で疼くような痛みが伝わってくる。

 

 鼻の奥で、鉄の匂いがした。

 赤い血が額から滴り落ちて、視界を赤く染めた。

 

 ぶつけられた石は地面に転がり落ちた。


「やーい。わいの娘、この村から出ていけ」


 子供たちの声が遠く聞こえる。

 視線を向けた。


「うわぁ、呪いの目だ」

「気持ち悪い。こっちを見るなぁ」


 胸が苦しい。

 視界が涙で滲む。


「逃げろ~」


 はやし立てた子供たちは足早に逃げ去っていった。


 空には虹色の雲が見える。

 雲の隙間から見下ろす視線を感じた。


 お父さんが……私を見ている。

 

 頭に手をやり、ぬるりとした――

 

「――大庭おおばさん。じゃなかった葵ちゃん 今日も来たの?」

 司書の綾乃さんの声で、過去から現実に引き戻された。

 昔の傷がわずかに疼く。

 

 早かった心臓の音が少し落ち着いた。

 ここは御坂登大学みさかとだいがくの図書館だった。


 大学には、お父さんのために来た。

 

「暗号解読? クリュベルの『暗号学』がおすすめ。どう?」

 綾乃さんは身を乗り出して来る。

 

 青い瞳が輝いて見える。

 

 憐憫?

 

 違う。

 

 何なの?

 綾乃さんから、生まれた村で受けた排斥の色は感じない。

 

 眼鏡のレンズを通して、少しだけ見上げて綾乃さんを見た。

 

 綾乃さんの見た目は二十代半ばだろうか? 


 ハーフと聞いているけれど、腰までの長い金髪と、碧眼で日本人には見えない。

 身長が百五十半ばの私よりは頭一つ背が高い。


 金と黒のメッシュの髪になっている私の方も日本人離れしているかもしれない。

 ツートンカラーの前髪が嫌でも視界に入ってしまう。

 肌もアルビノの母に似て色素が薄い。


「暗号……ですか? 何故そんなものに興味を?」

 前につい暗号解読のことを話してしまったことがあった。

 頓禍村とんかむらではそんなこと話せる相手はいなかったから。

 なぜか盛り上がって、今に至っている。

 

「私、色々、解読したいの。謎とか、秘密とか――貴女のこととかね」


 心臓の音が一つ跳ねた。


 どういう意味だろう?

 不思議な人だ。

 

 綾乃さんは口角を上げて微笑む

 その真意はわからない。

 

 聞くところによると綾乃さんは……いくつも博士号を持っているこの大学のOGだとか。

 そんな人が何故、私を知りたいなどということをいうのだろう?

 

 今日の講義はすべて終わっている。

 二年通っただけで、大学で教わることはみんな理解してしまった。

 受ける意味もないけど。


 夕暮れの赤い光が図書館に差し込んでいた。


「死霊秘法、あの『アル・アジフ』の訳本が見たいのよね?」

 耳元まで顔を近づけてくる。

 思わず、一歩下がってしまう。

 

 受付には……綾乃さんしかいないのだから、

 そんなに近づかなくてもいいのに。

 

 金の髪からわずかに甘い香りがする。

 

 生前の祖父の言葉を思い出す。

 父についての手がかりが記載されている本――死霊秘法がここにはある。

 父は擁愚外門ようぐそともんという存在で――神らしい。

 その父を呼ぶ方法が死霊秘法に記されている。

 

「それで、なんで見たいの?」


「それは、卒論で使おうと……」


「嘘ね。以上。暗号解読終わり。言いたくないなら聞かないわよ」

 綾乃さんは、白い指を立てて横に振る。

 

 見透かされている?

 でも、不思議と嫌な気分じゃない。


「どうして暗号解読が好きなんですか?」


 綾乃さんは私を静かに見つめた。

 静寂が図書館に満ちる。

 

「昔ね」

 綾乃さんが私から視線を外す。


 そのまま、本棚の上を見つめた。

 その体はわずかに震えていた。

 

「助けられなかった子がいるの――血は繋がってなかったけど妹みたいな子」


 唾液を飲み込む音が耳の奥で響く。

 綾乃さんの蒼い瞳が少し揺らいで見えた。

 

 ――妹。

 名前も付けられなかった。妹。

 生きていたら、どんな子だったのだろう?

 奇妙な親近感が芽生えた。

 

「私の血筋は――知識はたくさんあるわ。でも――」

 綾乃さんが瞳を閉じた。

 

「あの子のことはわかってあげられなかった」

 

 視線が私に戻る。


「だからね」

 綾乃さんに笑みが戻る。

 

「葵ちゃんの暗号が解きたい――なんてね」


 胸の奥が熱い。

 鼓動が少し早くなった。

 

「じゃあ、着いてきて」

 

 綾乃さんは、立ち上がると、図書館の奥に向かう。

 少し迷ったけど、慌てて、後をついていく。


 傾きかけた陽の赤みがかった光が窓から差し込んでくる。

 舞い散る埃が光の中できらめいて見えた。


 このまま閲覧できなかったらこっそり忍び込んで本を借りるつもりだった。

 少しだけ安心感が浮かぶ。

 

 綾乃さんが古びた銀色の鍵を取り出すと、奥にある扉の鍵を開ける。

 軋む音を立てて扉が開いた。

 黴と紙の臭いが次第に感じられていく。

 長い年月を閲した本の独特の匂いだ。

 

「そこに腰かけて」

 促されるままにどこか生々しい手触りの皮椅子に座る。

 しっとりと肌にまとわりつく感触だ。

 

「ここ、いつも閉まっているから空気悪いけど我慢してね」

「大丈夫です」

 

 綾乃さんが奥から一冊の本を取り出して、目の前の机に置いた。

 革の表紙の古びた本だ。

 苦悶の表情を浮かべた顔――そう見える装丁になっていた。


 表紙をめくる。


 指に吸い付くような感触――これは、皮?

 人間の?

 いや、考えるな。


 書いてある内容に目を通した。


 綾乃さんも隣に腰かけて、こちらをのぞき込んでくる。

 少しだけ落ち着かない。

 

「その眼鏡、度がないんでしょ?」


「そうです。瞳の色を隠すためだけのものですから」

 祖父が亡くなってから、私の後見人になった黒影時彦さんからもらった黒いスクエアフレームの眼鏡だ。

 あの人はどこにでも現れる。

 神出鬼没だ。


「ちょっと貸してみて、貴女の瞳が見たいから」


 眼鏡を外す。

 震える指で手渡す。

 心臓の音がうるさい。


 綾乃さんが気づいたのかはわからない。

 ただ、静かに机に置いた。

 

 瞳を覗き込まれた。


「アースアイというのかしら、虹色の綺麗な瞳ね」

「…………そうですか」


 生まれた村では呪われた子の証と言われた瞳だ。

 信じられない。

 

 未だに石を投げつけられた痛みが、頭にも背中にも残っている。

 

「気に障った? ごめんなさいね」

 

 少しだけ赤い舌をだして、綾乃さんは笑う。

 

 やっぱり、排斥の色はない。

 この人のことが――わからない。

 

 レンズ越しでもそうでなくても視界はあまり変わらない。

 澱んだ世界の色が見えるだけ。


 でも今は、不思議な気分だ。

 

 わずかに視線をあげる。

 綾乃さんの視線と私の視線が絡まった。


 青い瞳の奥には――好奇の色がみえる。

 でも、それ以外も何かある気がした。


 視線を本に戻した。

 漢字だらけの文は読みづらい。

 おそらくラテン語ならまだわかったはず。


 七百五十一頁を開く。

 擁愚外門についての記載がある。

 逆に漢字で書かれているから読解が難しい。

 これでは意味は完全にわからない。


 ページをめくりながら、祖父の言葉が頭に甦る。

 あの夜――祖父が亡くなった時のことは、今も鮮明に覚えている。

 『俺をまた生き返らせろ。外の門を開け……方法は完全な版なら……七百五十一ページに書かれている……』


 祖父が亡くなった夜に聞いた夜鷹の鳴き声が未だ記憶に残っている。

 魂を持ち去るという伝承がある夜鷹だ。

 

 祖父の魂は今どこにいるのだろうか?

 夜鷹に持ち去られてはいないだろうか?

 

 双子の妹の魂は?

 呪いと恨みをまき散らして亡くなった母の魂は……


「葵ちゃん。どうしたの? 怖い顔して」


 少しだけ視線をそらした。


「――なんでもないです。少し、その、難しくて。綾乃さん。この本、お借りしていいですか?」


「無理無理、持ち出し不許可よ。葵ちゃんだから特別に見せてあげているんだから」

 

「どうしても、ですか?」


「葵ちゃんの頼みでもそればかりは駄目。いつでもみせてあげるから。ね?」


 外は夜の闇に染まりかかっている。

「もう、遅いわ。今日はこれくらいね」


 綺麗に整えられた爪先が、皮の装丁の本に添えられた。

 読みかけの本が取り上げられる。

 

「綾乃さんは、この本の読解は……」

「う~ん。難しいわね。日本語ならではの難解さもあるわ。ちょっとラテン語に翻訳はしてみているんだけど」

 

 ラテン語なら私でも読める。

 持ち出せないなら盗みに入る必要がある……かもしれない。

 本当は嫌だけど……仕方ない。

 

「ここは防犯カメラ以外に、夜は番犬を放しているから忍び込んだら駄目よ」


 綾乃さんが釘を刺す。

 私の心を読んだみたい。


 犬の鳴き声が遠く聞こえる。

 あの生き物とは相性がよくない。

 陰鬱な気分になった。

 

 右足には村で噛みつかれた傷跡が残っている。

 あえて私に犬をけしかけた子供もいた。


 肝心の擁愚外門の召喚方法はわからない。



 綾乃さんと別れた後、迷ったけど図書館に忍び込んだ。

 

 防犯カメラの位置はすべて把握している。

 映ることはない。


 なぜかこの図書館は番犬がいる。

 綾乃さんが言うにはカメラより犬の方が適しているとか。

 何に対して犬が防犯しているのかはわからないけれど。

 

 眼鏡をはずして懐にしまった。

 父譲りの瞳はわずかにずれた時の位相が見える。

 少し未来が見えるくらいだが犬が現れる時間くらいはわかる。

 

 鋭角から煙とともに現れるあの猟犬なら、逃げるのは難しい。

 けれど、ただの犬なら何とかなる。

 

 本当に盗むつもりはないけど。

 カメラで撮影するくらいなら大丈夫のはず。

 

 視界を確認するが、犬が現れることはなさそうだ。

 息をひそめて図書館を進むと、奥の部屋までたどり着いた。


 微かな疑念を抱いたが極力音を立てず中に入った。

 

「やっぱり、来たわね」


「綾乃さん……」

 無意識に取り出した眼鏡をかけた。


「そのままの瞳の方が綺麗でいいのに」

 綾乃さんの金髪に部屋の差し込んだ月光が照り返している。

 

「擁愚外門を呼び出すつもり?」


 心臓の音がうるさくなった。

 目的が――ばれてる?


「どうして? そう思うんです?」


「あんなに熱心に、擁愚外門のページを見てればね。以上、暗号解読終わり」


 この人は……私以上に私を見てる。

 旧知の友人のように……。

 

 でも、心の奥から何かが浮かび上がる。

 

 綾乃さんは……不俱戴天の仇。

 

 相反する感覚が全身を駆け巡った。


 別の時間軸では、綾乃さんとは敵として対峙したのかもしれない。

 今の時間の流れでは過去、未来のどちらに流れても到達しえない事象だろうけれど。


 綾乃さんはここで消し去った方がいい。

 未だ相まみえぬ父ならそう伝えるだろう。


 ――でも。

 そんなこと……。

 

 遠くから低いうなり声が聞こえた気がする。


 部屋の扉が開く。


 漆黒の番犬がなだれ込んできた。

 唸り声をあげ、白い牙は正確に私の喉笛を狙って迫ってきた。

 犬に全身を食いちぎられる未来が幻視される。


「葵ちゃん!」

 綾乃さんが犬を止めようとこちらに駈け寄ろうとした。

 

「控えろ」


 低い声が室内に響いた。

 次の刹那、犬は突然這いつくばり短い尾を丸めた。

 

「貴女なら噛まれたくらいじゃ平気でしょうけど」


 空気が一瞬、重くなった。

 闇から背の高い男性が姿を現した。


 いつから隠れていたのか?

 いつのまに入ったのか?

 私の目でも全く不明だった。

 

「と、時彦さん?」


 漆黒の司祭平服カソックを着て、やや色黒い男性が月光を浴びて全身を露わにした。

 堀の深い顔立ちが月光に浮かび上がる。


 時彦さんは、無謀の神だ。

 父の親類。そう聞いてる。

 表向きは祖父の親類ということになっているけど。

 祖父の言葉を思い出す。

「あいつは、神々の中でも最も狡猾なやつだ。信用するな」


 時彦さんが一にらみしただけで、情けない声を上げて犬が部屋の外へ逃げ去っていった。

 

 綾乃さんの表情が変わる。

 仇敵を見るような目で時彦さんをにらんだ。

「這い寄る混沌――アンタがどうして? ここにいるのよ!」


 時彦さんの手には死霊秘法があった。

「しばし、お借りしますよ。さあ、葵さん。帰りましょう」


 時彦さんがこちらに歩み寄る。丁度綾乃さんと私の間に移動した。


「こいつに対抗できる存在なら、火の神性――空紅炎くうこうえんくらいしかない」


 綾乃さんが拳を握りしめる。

 拳は震えていた。

 時彦さんを強くにらみつけた。


「でも――今は炎の星が地平線上にはないから呼び出せない」


 時彦さんは私の味方の……はず。

 少なくとも現時点は。

 未来では――わからないけど。

「葵ちゃん。そいつとかかわったら駄目」


「では、綾乃=アーミテッジ博士。今宵はこれくらいで、また星の巡りが合えばお会いしましょう」


「すぐに返すから」

 それだけ言うと図書館から飛び出した。


「待ちなさい!」

 背中から、綾乃さんの声が響いた。

 その声が――胸に刺さった。




 御坂登大学がある神岡町から御坂登川を上流にさかのぼり、逢泉街道(ほうせんかいどう)を進むと頓禍村につく。

 昔は、山道を登るのが大変だったみたいだけど、今は車で数時間で行ける。

 

 助手席で死霊秘法のページをめくる。

 一枚紙が落ちた。

 七百五十一ページがラテン語訳されている。

 綾乃さんの字だ。


 あの人は私を止める立場のはず。


 何故?


 うまく訳されている。

 日本語よりはわかりやすい。

 

 私は紙に書いている一文を無意識につぶやいていた。

 どこか遠くから、夜鷹の嫌な鳴き声が聞こえた。


 時彦さんが運転する車で私は生まれの村に戻ってきた。

 

 大学に通うようになって神岡町に暮らしている。


 今は午後一時くらい。

 爽やかな陽光が降り注いでいる。

 相変わらず排他的な嫌な雰囲気が漂っていた。


 私の生まれた村にいい思い出は何もない。

 祖父から教わったうわ言のような知識。

 この世界は間違っているといつも毒づいていた母の言葉が記憶に残っているくらい。

 

 石をぶつけられた痛みも克明に思い出せる。

 母が言っていた。『この世界……この時は間違っている』という言葉……共感できる部分もあった。

 

 大澄さんがやっている雑貨屋さんの前を通る。

 わずかに刺すような視線を感じた。

 明らかにかかわりたくない雰囲気が肌に伝わってくる。


 江馬さんの家はなくなっていた。

 私に石を投げてきたり、犬をけしかけていた人だったけど。

 いついなくなったのか記憶を探っても思い出せなかった。


 見張り丘と呼んでた丘を見上げた。

 不安がそこに渦巻いているような気がする。


 望みをかなえるためには、場所も大事だ。

 死霊秘法に書かれた内容によればこの村に適した場所はある。


 山頂にある環状列石が適している。

 目的の場所にたどり着くと冷たい風が頬をなぜた。

 不揃いの形の石が環状に配置されている場所の中心に立っていた。

 

 祭壇状に石が並んでいる。

 

 私は眼鏡をはずし時彦さんに渡した。

 月光を照り返し、レンズが虹色に輝く。

 

「時彦さん。私のお父さんのこと教えて」

 

 時彦さんはわずかに口角を上げた。

 少し考えると口を開く。

 堀の深い顔立ちが、月光に浮かび上がる。

 石像だった。

 

 風が止んだ。

 空がわずかに虹色に見える。


「あれは」

 時彦さんは空を仰いだ。

 

 風が止まった。

 

 世界から一瞬音が消えた。

 

 口の中が乾く。

 唾液を飲み込んだ。


「最極の空虚」

 声が低く響く。

 

「外なる門といえる存在」

 

 心臓が跳ねた。

 

 空を見上げた。

 雲の隙間から、何かがこちらを見ている。

 

 生暖かい風が頬をなぜた。


 呼吸の音がうるさい。


「貴女なら」

 時彦さんがこちらを振り向く。

 歪んだ笑みを浮かべて。

 

「時の門番の問いに答えずとも。銀の鍵がなくとも。召喚できる」


 嘲笑している?

 優しく微笑んでいる?

 どちらにも見えた。


 背筋が寒くなる。

 何か間違っている?

 

「何故」

 声が震えた。


「時彦さんは、何故、私を助けてくれるんですか?」

 

 その問いに答えはない。

 変わらぬ笑みがあるだけだ。

 

 きっと時彦さんの目的は、世界を――

 

 でも、もう引き返せない。


 お父さんをここに呼び出せば、自身の都合で世界を置き換えることができる。

 世界が図書館で、私たちの人生が本に記載された内容とするなら、すでに書かれているページを書き換えることができるようなものらしい。

 

 図書館みたいな存在が父とはにわかに想像できない……けれど。

 そんな存在がどうやって人の間に子供を作れるのかは私にもわからない。

 

 父――擁愚外門を召喚するには、色々な手続きがある。

 

「一にして全、全にして一、最極の空虚、無、概念の超越者。来てお父さん」


 呪文を唱える。

 雲一つない空に暗雲が広がってくる。

 

 雨が数滴落ちてきた。風向きが変わった。いずれ大雨になりそうだ。

 

 全身に緊張感が走る。

 空気の味が変わっていく。

 

 呼びかけを続ける。

 視界が金色に染まる。

 巨大なシャボン玉みたいな球体が一つ虚空に浮かんでいた。

 

 私が生まれた瞬間。

 村で育った時、今が同時に合わさって見える。

 おそらくこれからの未来も重なって見えるはずだ。

 父の力で私の未来視の力が拡張されている。


 唐突に聞きなれない呪文が響く。

 死霊秘法に書かれていた退去の呪文だ。

 声は綾乃さんだろう。

 

 追いかけてここまで来たのか……。

 虹色の視界が元に戻る。

 空は曇天模様に戻っていた。

 

「はぁはぁ、やっと追いついたわ」


 どうやら、全速力でこの山道を駆け上がってきたらしい。

 かなり息が乱れている。


 時彦さんが眼鏡を渡してくれた。

 眼鏡をかけて声の方に視線を向けた。


 剣呑な雰囲気が漂ってくる。


「葵さん。どうします? アーミテッジ博士に邪魔されては儀式はうまくいきませんよ」


 綾乃さんの方に視線を移す。


「話がしたい。聞いてみたいことがあるから」


「わかりました。貴女の意思に従いましょう」

 そういうと、時彦さんは一歩下がった。


「どうして、ラテン語訳の紙を死霊秘法にはさんだの?」

 綾乃さんがあらかじめはさんでおいてくれたのか、それとも時彦さんが持ち去った際に……。

 

「……貴女は父を……外なる神の召喚を止める側ではないの?」

 ここではない時間軸では敵対していたこともある。

 記憶にない記憶だ。


「貴女のこと――信じてるから」

 視線をそらさず、綾乃さんははっきり答えた。


 ここで引き返した方がいいのかもしれない。

 そんな疑念が胸をよぎる。

 

 でも。

 

 眼鏡をはずした。

 もう一度時彦さんに手渡す。

 

「召喚を続けます」


 呼びかけを続けた。

 腐臭が混じった風が吹き荒れる。

 

 私の目の色と同じ球体が一つ、二つ、虚空に顕現した。

 脈動する血管を思わされる筋が空に張り巡らされた。

 家一つありそうな虹色の球体の周りに金色の雲が渦巻く。

 

 まだ本体そのものではない。

 煮沸する混沌の元にあるとも、原形質の粘液で永久に泡立っているとも言われている。


 生き物の体内にいるような嫌な生臭さが伝わってくる。

 空気に体温を感じる。吸い込む息も生暖かい。

 

 金属、肉、色々な臭いが混じって伝わってきた。

 山頂に登る過程の道、登った後、それらの時空が同時に展開された。

 時の流れが一点に集約されていく。

 

 同時に複数の本を読んだかのように、情報が頭に流れ込んできた。

 めまいがする。


「今回は子供の呼びかけに答えて現れるか。この国の名前では擁愚外門」


「この球体がお父さん?」

 私の前髪が……金色の箇所が虹色に煌めきだした。


 空に見知らぬ星がいくつも重なって見える。

 星座の動きが定点観測しているように線を描いた。

「ええ、葵さんはどちらかというとお母さん似ですね」


 綾乃さんがきらめく粉を投げつけた。

 虚空に粉が舞い散る。

 

「さすが。面白い粉をもっていますね。この粉は見えぬものを見えるようにするだけですがね」


 辺りが虹色に煌めく。

 一瞬、視界が遮断された。

 

「目くらましで十分。これでどう?」


 火薬のにおいがする。

 並んだ石の一部にダイナマイトが投げつけられた。

 爆風が巻き起こる。


 爆発で石の並びが変わった。召喚はまだ終わっていない。

 

 空が曇天模様にもどった。

 雨が肌を濡らしていく。


 寒さは感じない。


 綾乃さんが退去の呪文を唱える。

 私の召喚の呼びかけと声がまじりあった。




 一瞬、世界が金色に染まった。


 果てしなく続く図書館の中にいた。

 上を見ると虹色に輝く空がみえる。


 血が流れるような音が聞こえる。

 生ぬるい空気に包まれていた。


 先ほどの山頂の上にいた時と同じ感じだ。

 空気を吸い込むと、鉄のような味がする。

 ここは父の内部なのか? 私にもわからない。


 綾乃さんの退去の呪文は効果があった。

 ただ、父だけでなく、私も含めて現世から退去させてしまった。

 

 時彦さんはどこにいるのだろう? あの山頂に綾乃さんと残っているのだろうか?

 あの人ならひょっこりその辺から現れそうだけど。


 書架から本を一冊引き抜くと手に取った。

 生ぬるい感触の嫌な手ごたえの表紙だ。

 わずかに虹色に輝いていた。


 父から受け継いだ虹色の瞳があれば……本の内容を理解できるはず。

 数ページめくる。

 

 書かれている過去、現在、未来が同時に読み取れた。

 文字は見たこともない言語だった。

 読めないけれど、頭に染み込むように様々な情景が目の前に複数同時に展開される。


 この本が世界なら好きなように書きかえれば、どんなことでもなしえる。

 生まれたこと、育ったことも、すべて書き換えられる。


 母も、祖父も死ななかったことにもできる。

 そもそも、人類を最初からなかったことにだってできる。

 

 でも私は人間の血が濃い。

 人類が消えて、父の……外なる神々が君臨する世界に居場所はあるのだろうか?

 

 視界がにじむ。

 胸に穴が開いたような、そんな気分だった。

 

「これが過去、現在、未来が同時にあるということ?」


 頓禍村(とんかむら)のことを記載されている本の場所もわかる。

 

 あえて、自分が見ないようにしていた。

 いや、興味がなかった未来のことが脳裏をよぎった。


 過去が書き換わると、今の私は……。

 祖父が、母が、生きていたらこの時間軸はどうなるんだろう?


 すべての時はここにあり、おそらく過去、現在、未来のどこの時間に行きつくことができる。


 私が望めば……本を改変すれば過去からそうだったことになるだろう。


 頓禍村(とんかむら)での人生も一冊の本に収められていた。

 手に取ると軽い。

 書き換えることはできる。


 それが私の望みだった……。どう書き換えればよかったのだろう。

 肝心なところが抜け落ちていた。


 私の髪で金の部分が虹色に輝いた。

 わずかに全身が虹色に輝いていく。

 

 おそらくこのままとどまると、父の体の一部になる。


 過去、現在、未来が同時に存在する場所は、逆に言えば過去、現在、未来のいずれでもない場所ということ。

 全てであるということは、あらゆるものに合致しないということ。

 ここは全てはあるが、同時に何もない虚無だということ。


「お父さん」


 一言つぶやいた。

 つぶやきには何も返らない。

 知りたいことは何でも知れる。


 が、同時に何もわからない。

 無知と全知が同時に存在していた。


 頓禍村(とんかむら)の本をとる。

 

 ページをめくる。

 

 狂乱する母の姿。

 

 父を呼べという祖父の姿。

 

 子供の声が甦ってきた。

 石を投げつけられた頭がうずく。

 

 痛い。

 視界があの時のように深紅にそまった。

 

「呪いの目だ」

 子供の声が耳元に甦る。

 

 逃げ出している子供たち。

 

 視界がにじむ。

 涙が一滴、無機質の床に落ちた。

 

 この瞳は本当に呪われている。

 彼らの言うとおりだった。

 もっと早く、つぶしておけば。

 

 消えないといけなかったのは、きっと私……。

 

 こんなに痛いなら――もう。

  

 でも。


 この瞳を綺麗って言ってくれた人がいた。

 

 その人にもう一度、会いたい。

 

 綾乃さんの声を思い出す。

「葵ちゃんの暗号が解きたい」


 ああ――

 

 過去を消したかったわけじゃなかった。

 

 誰かに読んでほしかった。

 私自身の本を――

 この痛みもこの瞳も全部。

  

 頓禍村の本を書架に戻した。

 

「綾乃さん……」

 閑散とした図書館に言葉がこだまする。


 綾乃さんのことが書かれている本を手に取った。

 思ったより重かった。


 もう一度、話をしてみたい。

 綾乃さんにも、私のページを読んでほしい。


 私は生暖かい床にへたり込んだ。


 寝転ぶと空を見た。

 極彩色に渦巻く空はあらゆる時空に通じている……はず。


 綾乃さんの声が聞こえた。


 死霊秘法に記載されていた召喚呪文だ。

 このまま、ここにいることもできる。


 わずかに逡巡すると立ち上がった。

 声がする方に一歩踏み出し……虹色の闇に視界が満たされた。

 

「葵ちゃん」

 聞きなれた声が響いてきた。


 頭にかかっていた靄が晴れてくる。

 視界には雨上がりの晴れ渡った空が見える。


 環状列石の真ん中に私は寝そべっていた。

 堅い地面の感触が背中に伝わってきた。

 ふらつきながら立ち上がる。

 

 父の気配ももうない。

 環状列石は綾乃さんがあらかた爆破してしまっていた。

 原型がとどまっていない。


 時彦さんの姿はない。

 いつ消えたのかもわからない。

 

 あの人の目的は――果たされたのだろうか?

 

 それとも、果たされなかったのだろうか?

 

 わからない。

 

「私に外なる神の召喚呪文をつかわせるなんて」


 青い瞳には涙がにじんでいる。

 声がわずかに震えていた。

 

「でもうまく行ってよかった」


「何故?」

 絞り出すようにそれだけの言葉で問いを投げた。


「まだ、貴女のことを全然聞けてない。暗号はまだ解けてないし」


 髪をかき上げて、綾乃さんが視線をこちらに向けた。

 冷たくなった頬に綾乃さんの指先が触れる。

 

 体温が少しずつ伝わってきた。


「私も」


 声がわずかに震えている。


「綾乃さんのことが知りたい」


 綾乃さんが笑った。


「暗号を解いてみたい」


「時間、かかるわよ」


「わかってます」


 眼鏡を外した。


 綺麗だと言ってくれた瞳を、綾乃さんに向ける。

 

 虹色の光が、雨上がりの空に溶け込むように、綾乃さんの瞳を輝かせる。

 

 そこには、私の虹色の瞳が映り込んでいる。

 

 呪いはない。

 

 綾乃さんの手が、私の頬に触れた。

 

 体温が静かに流れ込んでくる。

 

 「じゃあ」

 綾乃さんがわずかにほほ笑んだ。

 

「図書館で、ゆっくりと話そうか」


 頷いた。

 

 空を見上げる。

 

 雨上がりの空は、澄み渡っていた。

 

 未来が輝いて見えた。

 


終了






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