夜の青を駆ける
三角海域
夜の青を駆ける
一
佐久間悠は、深夜二時になると決まって死にたくなった。
それは予告もなく訪れる。
まず、息が浅くなる。次に、部屋の壁が少しずつ迫ってくるような錯覚に襲われる。
悠は寝巻きのまま立ち上がり、玄関へ向かった。スニーカーに足を突っ込む。靴紐は緩んでいたが、それを直す気力もなかった。
どうしようもないこの夜をやり過ごす術を、悠は知っていた。
散歩だ。
二
深夜二時の町は、眠りの深部に沈んでいる。街灯の光だけが規則正しく並び、自販機がところどころで足元を照らす。
悠は歩く。まるで「死にたい」という衝動を靴底で踏み潰すかのように。歩くことで、暗闇が少しずつ薄れていく。完全に消えはしないが、息ができるようになる。
散歩には順路がある。それは儀式といってもいい。
コンビニの前を通り、古びた床屋の角を曲がり、坂を下りて、川沿いの道へ出る。途中、明かりのついた家を見つけるたびに胸が少し緩む。
「まだ、誰かが起きている」
その事実だけで、自分が世界から完全に排除されていないと感じられた。
自分だけが孤独に闇の中を彷徨っているわけではない。
コースの終点はいつも同じだ。
川を渡った先にある、一軒の家。二階の窓が、彼の到着に合わせるように灯っている。誰が住んでいるのかは知らない。ただ、毎晩同じ時刻に光が灯っており、しばらくすると消える。
悠はその家の前で立ち止まり、窓を見上げる。
やがて、光が消えた。
その瞬間、悠の胸にひとつの秩序が戻ってくる。
「今日も、生きていい」
言葉にはしない。ただ、胸の奥でそう確認してから、家路へと向かうのだった。
三
両親との仲は悪くない。けれど、良いとも言えなかった。
一年前のある朝、駅のホームで突然足が動かなくなった。そうして、そのまま悠は会社を辞めた。理由は説明できない。「合わなかった」としか言いようがない。
辞めると告げたとき、母は「そう」とだけ言った。父は何も言わなかった。
その年の夏、三人で温泉に行く予定だった。母が半年前から楽しみにしていた旅行だ。けれど悠は、その直前に体調を崩した。正確には、旅行に行くことが怖くなった。
「自分の分はキャンセルしてほしい」と告げたとき、母は「悠をひとりにしていくわけにもいかないし、仕方ないね」と笑い、全員分をキャンセルした。
その時も、父は黙って頷いただけだった。
以来、父は夜中に悠の靴音が聞こえると、寝室で小さくため息をつくようになった。壁越しに届くその音は、悠にとって呪いのようだった。
自分は両親から何かを奪い続けている。
喜びを、希望を、安心を。
心配してくれることが苦しかった。
優しくされる度、自分が欠けた存在だということを思い知るからだ。
まともに働けない息子。社会に適応できなかった息子。深夜に家を出ては戻る、不安定な息子。
自分は両親にとって、災難なのだ。
四
帰路の途中、東の空がわずかに青みを帯びていく。
夏の夜明けは早い。夜と朝の境目。世界がまだどちらにも属していない時間。
悠はその色を「死に損ないの色」と呼んでいた。
生きるには暗すぎる。死ぬには明るすぎる。どちらでもない中途半端な青。
それでも、その青は美しかった。
空の色が少しずつ変わっていく。暗い紺色が藍色になり、やがて淡い青へと溶けていく。世界はゆっくりと目覚めようとしている。
悠は坂道の途中で立ち止まった。
この散歩は、結局のところ何なのだろう。
死にたい気持ちから逃げているだけではないのか。明かりを探し、他人の生活に救いを求め、あの家の灯りが消えるのを待つ。それは儀式などではなく、ただの逃避ではないのか。
胸の奥で、暗闇が再び蠢く。
五
そのとき、東の地平から太陽が顔を出した。
淡い青が、一瞬にして金色に染まる。夜は否応なく終わりを告げる。
悠は息を呑んだ。
夜明けは、彼の意志とは無関係に訪れる。死にたいと思おうが、生きたいと思おうが、世界は回り続ける。太陽は昇り、夜は明ける。
それは冷酷な事実だ。
けれど同時に、救いでもあった。
自分が何を思おうと、世界は続いていく。ならば、自分もその流れに身を委ねていいのではないか。
生きようと決意しなくても、死のうと決意しなくても、ただ流されるままに存在していてもいいのではないか。
六
ふと、遠くで物音がした。
早起きの誰かが、家の戸を開ける音だ。新聞配達のバイクの音も聞こえる。町が目覚め始めている。
悠は走り出した。
スニーカーの緩んだ靴紐が不安定に揺れる。それでも足は前に進み続ける。
走ることは、何かに向かっているようで、何から逃げているようでもあった。
家へ向かっている。けれど同時に、どこか遠い理想へと向かっているようにも思えた。
生きようとは思えない。
けれど、死のうともまだ思えない。
今は、それでいい。
悠は、薄明の青を背に、家へと駆けた。
東の空は、もう完全に明るくなっていた。
淡い青は消え、新しい一日が始まろうとしている。
悠は走る。
靴音が、静かな住宅街に響く。
その音は、訴えのようだった。
ここにまだ、生きている者がいる、と。
夜の青を駆ける 三角海域 @sankakukaiiki
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