夜の青を駆ける

三角海域

夜の青を駆ける


佐久間悠は、深夜二時になると決まって死にたくなった。


それは予告もなく訪れる。

まず、息が浅くなる。次に、部屋の壁が少しずつ迫ってくるような錯覚に襲われる。


悠は寝巻きのまま立ち上がり、玄関へ向かった。スニーカーに足を突っ込む。靴紐は緩んでいたが、それを直す気力もなかった。


どうしようもないこの夜をやり過ごす術を、悠は知っていた。


散歩だ。



深夜二時の町は、眠りの深部に沈んでいる。街灯の光だけが規則正しく並び、自販機がところどころで足元を照らす。


悠は歩く。まるで「死にたい」という衝動を靴底で踏み潰すかのように。歩くことで、暗闇が少しずつ薄れていく。完全に消えはしないが、息ができるようになる。


散歩には順路がある。それは儀式といってもいい。


コンビニの前を通り、古びた床屋の角を曲がり、坂を下りて、川沿いの道へ出る。途中、明かりのついた家を見つけるたびに胸が少し緩む。


「まだ、誰かが起きている」


その事実だけで、自分が世界から完全に排除されていないと感じられた。

自分だけが孤独に闇の中を彷徨っているわけではない。


コースの終点はいつも同じだ。


川を渡った先にある、一軒の家。二階の窓が、彼の到着に合わせるように灯っている。誰が住んでいるのかは知らない。ただ、毎晩同じ時刻に光が灯っており、しばらくすると消える。


悠はその家の前で立ち止まり、窓を見上げる。


やがて、光が消えた。


その瞬間、悠の胸にひとつの秩序が戻ってくる。


「今日も、生きていい」


言葉にはしない。ただ、胸の奥でそう確認してから、家路へと向かうのだった。



両親との仲は悪くない。けれど、良いとも言えなかった。


一年前のある朝、駅のホームで突然足が動かなくなった。そうして、そのまま悠は会社を辞めた。理由は説明できない。「合わなかった」としか言いようがない。


辞めると告げたとき、母は「そう」とだけ言った。父は何も言わなかった。


その年の夏、三人で温泉に行く予定だった。母が半年前から楽しみにしていた旅行だ。けれど悠は、その直前に体調を崩した。正確には、旅行に行くことが怖くなった。


「自分の分はキャンセルしてほしい」と告げたとき、母は「悠をひとりにしていくわけにもいかないし、仕方ないね」と笑い、全員分をキャンセルした。


その時も、父は黙って頷いただけだった。


以来、父は夜中に悠の靴音が聞こえると、寝室で小さくため息をつくようになった。壁越しに届くその音は、悠にとって呪いのようだった。


自分は両親から何かを奪い続けている。


喜びを、希望を、安心を。


心配してくれることが苦しかった。


優しくされる度、自分が欠けた存在だということを思い知るからだ。


まともに働けない息子。社会に適応できなかった息子。深夜に家を出ては戻る、不安定な息子。


自分は両親にとって、災難なのだ。



帰路の途中、東の空がわずかに青みを帯びていく。


夏の夜明けは早い。夜と朝の境目。世界がまだどちらにも属していない時間。


悠はその色を「死に損ないの色」と呼んでいた。


生きるには暗すぎる。死ぬには明るすぎる。どちらでもない中途半端な青。


それでも、その青は美しかった。


空の色が少しずつ変わっていく。暗い紺色が藍色になり、やがて淡い青へと溶けていく。世界はゆっくりと目覚めようとしている。


悠は坂道の途中で立ち止まった。


この散歩は、結局のところ何なのだろう。


死にたい気持ちから逃げているだけではないのか。明かりを探し、他人の生活に救いを求め、あの家の灯りが消えるのを待つ。それは儀式などではなく、ただの逃避ではないのか。


胸の奥で、暗闇が再び蠢く。



そのとき、東の地平から太陽が顔を出した。


淡い青が、一瞬にして金色に染まる。夜は否応なく終わりを告げる。


悠は息を呑んだ。


夜明けは、彼の意志とは無関係に訪れる。死にたいと思おうが、生きたいと思おうが、世界は回り続ける。太陽は昇り、夜は明ける。


それは冷酷な事実だ。


けれど同時に、救いでもあった。


自分が何を思おうと、世界は続いていく。ならば、自分もその流れに身を委ねていいのではないか。

生きようと決意しなくても、死のうと決意しなくても、ただ流されるままに存在していてもいいのではないか。



ふと、遠くで物音がした。


早起きの誰かが、家の戸を開ける音だ。新聞配達のバイクの音も聞こえる。町が目覚め始めている。


悠は走り出した。


スニーカーの緩んだ靴紐が不安定に揺れる。それでも足は前に進み続ける。


走ることは、何かに向かっているようで、何から逃げているようでもあった。


家へ向かっている。けれど同時に、どこか遠い理想へと向かっているようにも思えた。


生きようとは思えない。


けれど、死のうともまだ思えない。


今は、それでいい。


悠は、薄明の青を背に、家へと駆けた。


東の空は、もう完全に明るくなっていた。


淡い青は消え、新しい一日が始まろうとしている。


悠は走る。


靴音が、静かな住宅街に響く。


その音は、訴えのようだった。


ここにまだ、生きている者がいる、と。

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