第4話 岐路
「バイト、あと2回出勤したら辞めるから」
9月に入ってすぐに双郷くんから突然言われた。
確かに夏休みの後半から彼の顔色はすっかり青くなり、誰が見ても心配になるものだった。だから彼は体調を整えたいから辞めるのだと話す。
二人きりの帰路で、双郷くんはポケットに手を突っ込みながら話した。私は頭上から聞こえる声にただ不安になった。
また、私の前からいなくなるのか……。
「バイト辞めてもさ、連絡取っていいかな」
私は思いきって聞いてみた。双郷くんとの繋がりを、無くしたくなかった。
彼に視線を向けると、彼もまたじっと私を見てくる。その青い瞳は、何を考えているのかわからない。
「……それはダメだ」
「どうして?」
「……」
双郷くんは唇を噛むと、しばらくの間黙り込んだ。普段は自信満々に話す彼が歯切れの悪いときは、相当緊張しているときだった。
「もう、逃げねぇって決めたんだ。誰かに甘えたりもしないって。だから、しばらくそっとしといてほしい」
「逃げたっていいじゃない。どうしてそこまで一人で頑張ろうって思うの?」
どうしてそこまで自分を追い込もうとするのだろうか。もう、充分に頑張ったのだから、そんなに苦しむ必要はないのではないか。
「小芦、俺はお前が思ってるよりずっとズルくて、酷くて、汚い人間なんだ」
「え」
「でも、お前にとって俺がそうじゃねぇんなら……お前の思い出の中の俺のままでいさせてくれ」
「何、それ」
私の知っている自分のままで、いたいの?
それって、やっぱり私の前でも本心じゃないってことだよね?
「どうして!? どうしてそんな悲しいこと言うの!? 私はこれからも双郷くんといたいよ!! 思い出だなんて、勝手に私たちの関係を過去にしないでよ!!」
頼ってもらえないこと以前に、そもそも私の前で本心を見せることすらしてくれない。
そんな双郷くんに私は虚しさと怒りでいっぱいだった。
「俺はお前といたかねぇんだよ」
双郷くんは低い声でハッキリと私を拒絶する。
「どうして」
「さっき言っただろ。俺は、汚い人間なんだって」
双郷くんはそう言うと、私の右腕を強引に引っ張った。
「痛い! ねぇ!!」
私が何を言っても彼は離さない。そのまま、近くの公園まで行って私を乱暴にトイレの壁に背中をぶつけた。
背中がコンクリートに打ち付けられて痛みが広がる。抗議しようと双郷くんを見上げるが、途端に彼の顔が近付いてくる。
「んん!?」
訳もわからないうちに双郷くんの唇が私の唇に強引につけられる。キスをされたことに気付いて慌てて彼の背中を叩いてみるが私の右腕を掴む彼の手の力は変わらない。
「ちょ、な」
口が離れて抗議を始めようとするが、それもまたキスをされて塞がれる。
話し合いたくない。
察してほしい。
非言語で彼から伝えられる気持ちは、自分の心に踏み込んで欲しくないと言うことだった。
双郷くんにとってキスをするということは、好きだとかそういうことではなかった。ただ、何かを隠したかったり、何かを確かめたいときの行動の一つだった。
離れたいと言うのに、彼は寂しがり屋だから本当は離れたくないのだと思う。今までだってそうだったはずだ。小学生の頃の私の知らない友だちも、中学生の頃の一緒に過ごした友だちも、きっと……彼が求めているはずの家族も。誰からも離れたくなかったはずだ。
「そ、うご、く……」
「喋んな」
ようやく口が離れ、私は彼を呼んだ。双郷くんは晴天のようにきれいな目を細めながらまた触れるだけのキスをして私に黙るように伝える。
私はもう体が熱いのに、双郷くんの手はすっかり冷えたままだった。顔色も一つも変えない彼にとって、キスもただの所作のひとつなのだとはっきりとわかる。
「俺はな、お前以外の奴ともこうやってやってんだ」
「……」
耳元で告げられる低い声は、震えていた。
「俺は、ずっとこうやって生きてきた」
「……」
首に僅かに痛みが走る。一瞬の痺れは、双郷くんの歯が離れるとすぐに無くなった。
「お前と付き合ってたときだって、一途にお前を思っていた訳じゃない。お前の体が欲しかっただけだった。他の女だって同じだ」
「でも、貴方はできなかった」
耐えきれず私も声を出すと、双郷くんは私の耳を優しく噛んだ。ビクッと思わず体が反応すると双郷くんは優しく笑った。
見たこともないくらい、優しく穏やかな顔だった。それが、あまりにも双郷くんらしくなくて背筋が凍る。
「俺はきっと、これからも誰かを好きになることはないと思う」
「……双郷くん」
「俺は、本当に人が幸せそうにしているのを見るのが嫌いなんだ。……それから、お前みたいな奴に哀れまれるのも、嫌だ」
優しい声色で、双郷くんは告げる。
きっと、本心だと思う。
幸せそうな人を妬む気持ちも、あるだろう。
幸せそうに生きる人間に心配されたら、自分が滑稽になるのだろう。
「今ならハッキリ言える。俺は、お前が嫌いだ、小芦」
嫌いと言いながら、双郷くんは優しく私の体を抱き締めた。私よりも大きくてたくましいはずの体は、小刻みに震えている。
「私は、双郷くんが好きだよ」
彼の胸の中で、私はハッキリと言った。告白すれば彼が傷付くのだとわかっていたけれど、やめられなかった。
「知ってる」
双郷くんの声が頭上からする。私は、双郷くんの顔が見たくてゆっくりと顔を上げた。
泣きそうに目を細める彼は、それでも笑っていた。優しく笑う彼は、やっぱり美しかった。
また、双郷くんが私にキスをする。
彼の舌が入ってきて、私は思わず彼の背中を叩いた。それでも、彼はやめない。舌で私の口の中を味見している。
双郷くんのこの行為が愛情表現なのか、それとも嫌悪を表しているのか、私にはわからなかった。
今、双郷くんは何を確かめているのだろうか。
それがわかれば私も双郷くんの隣にいる意味があるのだろうが、やはり私にはこの行為が何を意味しているのかわからなかった。
「はぁっ、……あの、双郷くん……」
口が離れ、唾液が落ちる。私は恥ずかしくて顔が熱かったが、双郷くんはどこか慣れきっていて平然としていた。
「もう、これでいいか?」
「何が?」
「俺は相手の許可も得ないで勝手に口づけをするような人間だってわかったか?」
「え……っと、でも、別に私は嫌じゃないというか……双郷くんの方が嫌なんじゃ……」
「そうだな、そうかもしれない。……何か、もうよくわかんねぇんだよ」
「双郷くん……」
「頼むから今は放っておいてくれねぇか。自分でも整理がついたら、お前とまた前みたいに話せるかもしれない……でも、今は本当に無理なんだ」
双郷くんはそう言うと、私から一歩離れた。
私が近付こうとすると、彼は「小芦」と私を呼んで制止した。
「じゃあ」
双郷くんと私の間の壁が大きくなる。高くて、分厚くて、どうしようもないくらいの障壁が、確かに見えた。
背を向け歩き出す彼を追いかけたかった。今度は私から抱き締めて「大丈夫」と伝えたかった。
でも、今の私にそれはできない。
何故か震える足はうまく力が入らなかった。追い付きたいのに、双郷くんの背中はどんどん遠ざかる。
「私、諦めないから!!」
絞り出した声に、双郷くんが足を止める。それでも、彼は振り返らなかった。
「双郷くんが私のこと嫌いでも、でも、絶対私は諦めたりしないから!!」
「……お前は本当に救い用のないバカだよな」
双郷くんの小さい声が返ってくる。でも、もう視線も交わらない。
そして、彼は一人で帰路についた。
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