​【破】最後の希望「クロノス・ジャンプ」

 ​第1セクター。アルカディアの中枢。

 評議会室は、都市の頂上に位置していた。そこは、アルカディアで唯一、シールドの「外」――汚染された本物の空を、遮蔽ガラス越しに覗き見ることができる場所だった。

 赤黒く澱んだ雲と、乾ききった大地の灰色。アカリは、その光景に息を呑んだ。アーカイブで見る「青い空」とは似ても似つかない、死の風景。

 ​部屋は、円形だった。

 中央に、巨大なレンズ状のコアが鎮座している。AI「マザー」の物理インターフェースだ。

 そして、そのコアを取り囲むように、アルカディアの最高指導者たちが並んでいた。

 その中心に立つ男が、アカリに向き直った。

 評議会議長、K(ケイ)。年齢不詳。その瞳は、生きている人間のものとは思えないほど、冷たく、深く、あらゆる感情を拒絶していた。

 ​「ミヤベ・アーキビスト。よく来た」

 K議長の声は、合成音声のように抑揚がなかった。

「君を呼んだのは、他でもない。人類の未来のためだ」

 ​アカリは、背筋を伸ばして直立した。隣には、護衛のレオが微動だにせず立っている。

「私に、何ができるというのでしょうか」

 ​「君の専門知識だ」K議長は言った。「君は、誰よりも深く、旧文明――21世紀の歴史に精通している。特に、『大崩壊』のトリガーとなった時代に」

「……それは、業務ですから」

 ​「その知識を、今こそ人類のために使う時が来た」

 K議長は手を広げた。すると、中央のAI「マザー」のコアが起動し、部屋の中央に巨大なホログラムを投影した。

 それは、信じられない光景だった。

 複雑な数式と、時空のトンネルを描いたシミュレーション映像。

 ​「『クロノス・ジャンプ計画』」

 K議長は、厳かに告げた。

「我々は、時間を跳躍する技術を、ついに完成させた」

 ​アカリは、自分の耳を疑った。タイムトラベル。それは、旧文明の記録(フィクション)の中でしか存在しない、荒唐無稽な夢物語のはずだった。

 ​「物理的な跳躍ではない」K議長が続けた。「精神と情報の量子転送だ。過去の特定の時代に、一人の『観測者』を送り込む」

「観測者……?」

 ​「そうだ。目的は、『大崩壊』の正確な原因を特定すること。アーカイブの記録は、あまりにも不完全で、矛盾が多い。我々は、なぜ人類があの時、滅びかけたのか、その『真実』を知る必要がある」

 K議長は、アカリを真っ直ぐに射抜いた。

「そして、その『観測者』――我々が『オラクル』と呼ぶ適格者に、君が選ばれた」

 ​「……私が?」

 血の気が引いていくのが分かった。

 なぜ、私が。一介のアーキビストが。

「適性テストの結果だ」AI「マザー」の無機質な合成音声が響いた。「ミヤベ・アーキビスト。あなたの脳の量子パターンは、クロノス・ジャンプの負荷に耐えうる、唯一の適性を示しました」

 ​「お待ちください!」

 沈黙を破ったのは、アカリではなく、レオだった。

「議長! クロノス・ジャンプは、まだ理論段階のはずだ。動物実験でも、帰還率はゼロに近いと聞いている!」

 K議長は、冷たい視線をレオに向けた。

「レオ・ガーディアン。発言は許可していない」

「しかし!」

「この計画は、片道切符だ」

 K議長の言葉に、アカリは息を呑んだ。

 ​「帰還の保証はない」K議長は淡々と続けた。「いや、むしろ、帰還は想定していない。オラクルの任務は、過去で観測した『真実』のデータを、量子通信でアルカディアに転送すること。それだけだ。我々はそのデータを受け取り、『大崩壊』を回避するシミュレーションを行い、未来(アルカディア)を救う」

 ​アカリは、全身が冷たくなっていくのを感じた。

 つまり、自分は「観測」という名目で、過去に「捨てられる」のだ。

 大崩壊が迫る時代に、一人で。

 ​「拒否、します」

 アカリは、震える声で言った。

「私には、そんな……」

 ​「拒否権はない」K議長は遮った。「これは、人類の存続を賭けた決定だ。君一人の感傷で覆るものではない」

「だが!」レオが再び声を荒げた。「彼女は兵士ではない! ただの学者だ! こんな任務、到底……!」

 ​「だからこそ、だ」

 K議長は、初めて微かな笑みのようなものを浮かべた。

「彼女の『感傷』こそが、適性の源だ。旧文明への過度な憧憬。それが、過去の時代と最も強く同調(シンクロ)する要因となっている」

 アカリは、愕然とした。

 自分が心の支えにしてきた、旧文明への郷愁が、自分を絶望的な任務に追いやる理由になったというのか。

 ​「ミヤベ・アーキビスト」K議長が言った。「君は、ずっと『本物』の世界を見たがっていた。そうだろう? アーカイブの記録ではなく、本物の空を、本物の風を」

「……」

「我々は、君の願いを叶える。君は、憧れた21世紀の東京で、その最期を見届ける『最後の観測者』となるのだ」

 それは、悪魔の囁きだった。

 ​「……分かりました」

 アカリは、諦めたように、しかし、どこか決然とした表情で顔を上げた。

「やります。私が、オラクルになります」

「アカリ!」レオが絶叫に近い声を上げた。

 ​「レオ・ガーディアン」アカリは、彼を真っ直ぐに見つめ返した。「私は、記録の中でしか生きられなかった。偽物の空の下で、偽物の人生を生きてきた。……でも、もし、最期に『本物』に触れられるなら。それが、未来(アルカディア)を救うことに繋がるなら」

 彼女は、小さく息を吸った。

「アーキビストとして、これ以上の名誉はありません」

 ​レオは、何かを言おうとして、唇を噛み締めた。

 その瞳に宿っていたのは、怒りか、絶望か、それとも……。

 ​K議長は、満足げに頷いた。

「賢明な判断だ。ジャンプは72時間後。それまで、オラクルを厳重に隔離、調整する」

 そして、彼はレオに向き直った。

「レオ・ガーディアン。お前には、オラクルがジャンプするその瞬間まで、護衛についてもらう。……いや、監視だ。彼女が『人類の希望』から逃げ出さぬよう、万全を期せ」

 ​それは、レオにとって、最も残酷な命令だった。

 自分が守るべき対象を、生還不能な任務へと送り出す、その最後の見張り役となれ、というのだから。

 ​ジャンプまでの72時間は、瞬く間に過ぎた。

 アカリは、第1セクターの最下層にある、クロノス・ジャンプ施設に隔離された。

 真っ白な、無菌室のような部屋。彼女の身体は、過去の時代(21世紀)のウイルスや細菌に耐えられるよう、強制的な免疫調整と、肉体改造に近い薬物投与を受けた。

 激しい嘔吐と高熱。意識が朦朧とする中、アカリは自分が人間ではなく、未来のための「部品」になっていくのを感じた。

 ​レオは、その部屋のガラス越しに、ずっとアカリを見守っていた。

 任務(監視)だから、という顔をしながら、その視線がアカリから外れることはなかった。

 ​「……気分は、どうだ」

 調整が終わり、ジャンプまで残り数時間となった時、レオが初めて部屋に入ってきた。

「最悪よ」アカリは、ベッドの上で弱々しく笑った。「でも、死にはしないみたい」

「……」

 レオは、ベッドサイドに立ち、アカリに栄養剤のパックを手渡した。

 その手が、アカリの腕に触れた。

 アカリは、びくりと身体を震わせた。アルカディアでは、許可のない身体的接触は厳しく禁じられている。

 レオの手は、ガーディアンらしく硬く、分厚かったが、不思議なほど温かかった。

 ​「なぜ、引き受けた」

 レオが、低い声で尋ねた。

「K議長の言う通りだからよ」

「『本物』が見たい、などという感傷で、命を捨てるのか」

「……あなたには、分からない」アカリは、目を伏せた。「あなたは、ガーディアンとして、『本物』の任務(・・)を生きている。でも、私はずっと、アーカイブという『過去の死体』を眺めてきただけ。……生きた証が欲しいのよ」

 ​レオは、アカリの腕に触れたまま、しばらく黙り込んだ。

 彼の指が、アカリの左腕に装着される銀色のブレスレット――過去からのデータ転送装置――に触れた。

 ​「アカリ」

 彼が、初めて彼女を名前で呼んだ。

 アカリは、驚いて顔を上げた。

 ​「必ず、生き延びろ」

 レオの瞳は、命令でも、監視でもなく、ただ必死な光を宿していた。

「……無理よ。片道切符だって」

「それでもだ」

 レオは、アカリのブレスレットを強く握った。その動きは、K議長の監視カメラからは、機器の最終チェックをしているようにしか見えなかっただろう。

 だが、アカリには分かった。彼が、何かを(・・)した。

 ​「任務は『観測』だ。危険を冒すな。データを送ったら、ただ生き延びることだけを考えろ。いいな」

「レオ……?」

 ​「時間だ」

 レオは、名残を惜しむように手を離し、いつものガーディアンの顔に戻った。

「ジャンプ・チェンバーへ移動する」

 ​クロノス・ジャンプ装置は、巨大な金属の棺桶のようだった。

 アカリは、21世紀の基準では「少し古風な旅行者」に見えるようデザインされた、灰色のパーカーとジーンズに着替えていた。左腕には、銀色のブレスレット型転送装置。腰には、最小限のサバイバルキット。

 ​「オラクル、転送シークエンス、スタンバイ」

 AI「マザー」の無機質な声が響く。

 ​アカリは、チェンバーに入る直前、レオを振り返った。

「レオ」

「……なんだ」

「ありがとう。……監視、ご苦労さま」

 皮肉のつもりだったが、声が震えた。

 ​レオは、アカリの前に進み出た。

 そして、監視カメラの死角になるよう、わずかに身体を傾けながら、アルカディアではあり得ない行動に出た。

 彼は、アカリの身体を、強く、短く、抱きしめた。

 ​「!?」

 アカリは、硬直した。

 レオの胸は硬く、彼の制服越しに、速い鼓動が伝わってきた。

「必ず、守る」

 レオは、アカリの耳元で、そう呟いた。

「……何を?」

「君の『生きた証』をだ」

 ​彼は、すぐに身体を離した。

 アカリが何かを言う前に、チェンバーのハッチが閉まり、内部が冷たい冷却ジェルで満たされていく。

 ​「クロノス・ジャンプ、起動。カウントダウン、開始」

 ​アカリは、ジェルの向こうで、ガラス越しに立つレオの姿を、最後のアルカディアの光景として目に焼き付けた。

 彼は、敬礼をしていた。

 だが、その瞳は、任務の遂行者ではなく、守るべきものを失おうとしている男の目をしていた。

 ​(……ああ、そうか)

(私も、あなたともう少し、話がしたかった)

 ​次の瞬間、アカリの意識は、時空の激流に飲み込まれ、引き裂かれた。

 肉体はアルカディアに残り、彼女の精神(データ)だけが、500年以上もの過去へと、量子的に「撃ち出された」のだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る