クロノス・レガシー:最後の観測者

まちゃおいし

【序】未来の閉塞

 西暦2582年。

 人類最後の都市、「アルカディア」の空は、いつも同じ色をしていた。

 鉛色のナノ・シールドが、ドーム状に都市のすべてを覆い尽くしている。その向こう側には、数百年前に「大崩壊(グレート・フォール)」によって汚染し尽くされた、死の世界が広がっているはずだった。だが、アルカディアに生まれた者たちは、本物の空の色を知らない。本物の雨の匂いも、土の感触も知らない。

 ​すべては、都市管理AI「マザー」の完璧な制御下にあった。

 空気は浄化され、温度は常に快適な23度に保たれる。市民は割り当てられた区画(セクター)で目覚め、割り当てられた栄養素(ニュートリエント・ジェル)を摂取し、割り当てられた業務(タスク)をこなす。

 そこには飢えも、争いも、病もない。

 ただ、圧倒的な「生」の希薄さだけが、無菌室の空気のように澱んでいた。

 ​主人公、アカリ・ミヤベ(28歳)は、その澱んだ空気の中で息をしていた。

 彼女の職場は、第7セクターにある「中央アーカイブ局」。彼女の任務(タスク)は、「アーキビスト(記録保存官)」として、大崩壊以前――21世紀の旧文明のデジタル記録を修復し、分類・保存することだった。

 ​冷たい光を放つホログラム・スクリーンが、アカリの無表情な顔を照らしていた。

 彼女の細い指が、空中に浮かぶキーボードを神経質に叩く。

 いま彼女が修復しているのは、21世紀初頭の、日本の「花火大会」と呼ばれる祭りの映像データだった。ノイズだらけの低解像度データだったが、アカリは数週間をかけて、その色彩と音声を復元していた。

 ​『……タマヤァ……』

 ​劣化した音声と共に、暗い夜空に巨大な光の花が咲き乱れた。赤、青、緑、金。

 そして、それを見上げる夥しい数の人々。浴衣(ユカタ)と呼ばれる奇妙だが美しい衣服をまとった彼らは、一様に空を見上げ、歓声を上げ、笑い合っていた。

 男も、女も、老人も、子供も。

 汗をかき、飲み物を飲み、焼きそば、という油とソースの匂いがしそうな食べ物を頬張っている。

 ​(……なんて、無駄で、非効率で、美しいんだろう)

 ​アカリは、映像の中の人々が発する「熱」に、いつも眩暈に似た感覚を覚えていた。

 彼らは生きている。管理されず、制御されず、ただ「生きている」。

 汚れた空気を吸い、不衛生な食べ物を食べ、予測不能な感情に振り回されている。

 ​それに比べて、今のアルカディアはどうだ。

 人々は整然と歩き、会話は常に論理的で、感情の起伏は「非効率」としてAIによるカウンセリング対象となる。

 アカリは、自分の隣で同じように作業をする同僚に視線を送った。彼もまた、表情筋の動きを最小限に抑え、淡々とスクリーンを眺めている。

 ​(私たちは、生きていると言えるのだろうか)

 ​このアーカイブ局は、アルカディアの中でも特殊な場所だった。

 旧文明の記録は、市民の精神衛生に「悪影響」を及ぼす可能性があるとして、閲覧は厳しく制限されている。アカリのような一部のアーキビストだけが、その「毒」に触れることを許されていた。

 皮肉なことに、その「毒」こそが、アカリがアルカディアで生きる唯一の理由になっていた。

 ​「ミヤベ・アーキビスト」

 低く、静かだが、有無を言わさぬ声が背後からかかった。

 アカリは、映像から引き剥がされるように振り返った。そこに立っていたのは、レオ(30歳)だった。

 アルカディアの秩序を守る「ガーディアン」と呼ばれるエリート兵士。黒一色のタイトな制服は、彼の鍛え上げられた肉体の輪郭を隠すことなく示していた。無駄のない動き、常に周囲を警戒する鋭い視線。彼はアカリの護衛、というよりは「監視」担当だった。

 ​「レオ・ガーディアン。定時報告ですか?」アカリは無表情を取り繕って答えた。

「いや」レオは短く答えた。「君のバイタル・サインに軽度の乱れを感知した。AI『マザー』からの警告だ。心拍数が基準値を15%上回っている」

 彼はアカリの顔をじっと見つめた。その視線は、機械のように冷たいはずなのに、なぜかアカリの心の奥底を見透かすような熱を帯びている気がした。

 ​「……古いデータのノイズに驚いただけです。問題ありません」

「そうか」レオは納得したのかしていないのか分からない声で言った。「旧文明のデータは、時に精神を汚染する。過度な没入は推奨されない」

「分かっています。それが私の仕事ですから」

 ​アカリは、彼が苦手だった。

 彼は、アカリが愛する「無駄」や「非効率」の対極にある存在。アルカディアの秩序、そのもののような男。

 だが同時に、アカリは彼から目が離せない自分にも気づいていた。

 管理されたアルカディアの男性市民は、皆一様に痩せていて、肌は青白く、表情に乏しい。

 しかし、レオは違った。ガーディアンとしての過酷な訓練が、彼に「生」の証を刻み込んでいた。日に焼けた肌(ドーム内の紫外線訓練によるものだろう)、時折見せる険しい表情、そして何よりも、その瞳の奥に宿る、AIの管理下には収まりきらない何かの光。

 ​「……ミヤベ」

 レオが、不意に声のトーンを落とした。

「何を、見ていた?」

「業務記録です。開示権限はあなたにも……」

「そうじゃない」

 レオは一歩近づき、アカリが今しがた閉じたスクリーンを一瞥した。「花火、か。非効率なエネルギーの浪費だな」

「……そうですね」アカリは冷たく返した。「だから、滅びたのかもしれません」

「……」

 レオは何も言わなかった。

 ただ、彼の視線が、一瞬だけ、映像の端に映っていた、手を取り合って笑う若い男女の姿に留まったのを、アカリは見逃さなかった。

 ​(この人にも、感情が……?)

 ​その時、アーカイブ局全体に、柔らかな電子音が響いた。

 AI「マザー」からの召喚シグナル。

 そして、それはアカリ・ミヤベ個人に向けられた、最上級の召喚だった。

 ​「私に……? 評議会から?」

 アカリは目を見開いた。末端のアーキビストでしかない自分が、アルカディアの最高意思決定機関である「評議会」に呼ばれるなど、あり得ないことだった。

 ​レオの表情が、初めて険しく歪んだ。

「ミヤベ・アーキビスト。私が同行する。評議会への召喚だ」

 彼の声には、いつもの冷徹さとは違う、明確な緊張が走っていた。

 ​アルカディアの空気が、確実に変わりつつあることを、アカリは肌で感じていた。

 ドームを維持するエネルギーは枯渇寸前だった。シールドの老朽化は深刻で、浄化システムも限界に近い。

 AI「マザー」の完璧な管理は、緩やかな「死」の先延ばしに過ぎなかった。

 アルカディアは、袋小路に入り込んでいた。

 ​そして、その袋小路の中で、アカリ・ミヤベという歯車が、今、大きく動き出そうとしていた。

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