君が風を追いかけた日

神田 双月

君が風を追いかけた日

 春の風が、制服の袖をくすぐった。

 放課後の屋上。僕――**橘湊(たちばな・みなと)**は、フェンスにもたれて空を見上げていた。


 この学校の屋上は、立ち入り禁止。

 だけど、古い鍵のかかっていないドアを知っている生徒は、僕の他にも少しだけいる。

 その中のひとりが――**結城澪(ゆうき・みお)**だった。


 「やっぱりいた」


 ドアが開く音。風に乗って、透き通るような声が届く。

 振り返ると、長い黒髪をなびかせた澪が立っていた。

 手には小さな紙袋。中には、コンビニで買ったコーヒーが二つ。


 「またサボり? 生徒会の仕事は?」


 「ちゃんと終わらせてから来たもん」


 「真面目だな、結城は」


 「真面目じゃない橘くんが言うと、ちょっとムカつく」


 口ではそう言いながらも、澪は笑って僕の隣に腰を下ろした。

 風が二人の髪を揺らして、桜の花びらが遠くで舞っていた。


 「はい、カフェラテ。砂糖なしね」


 「お、覚えてたのか」


 「そりゃ、もう三回目だもん」


 「……三回目?」


 「放課後、屋上で一緒にサボる会。ね?」


 「そんな会、俺知らないけど」


 「今できた」


 澪がにやっと笑う。

 その笑顔が、春の光よりも眩しく感じた。


 ***


 しばらく無言で、風の音と遠くの部活の声を聞いていた。

 誰もいない屋上は、まるで世界が二人きりになったみたいで心地よい。


 「ねえ、橘くん」


 「ん?」


 「どうしていつも、ひとりでここに来てるの?」


 澪の声は、柔らかくて、でもまっすぐだった。

 僕は缶を指先で転がしながら答える。


 「別に理由なんてないよ。ただ……ここだと、なんか楽なんだ」


 「楽?」


 「下にいると、周りがうるさくてさ。誰かに合わせるの、けっこう疲れるんだよ」


 「ふうん。分かるかも」


 「お前も?」


 「うん。私、生徒会とか委員会とかいろいろやってるけど、本当はそんなに得意じゃないんだよね。

 人の前に立つの、怖いときもあるし」


 「……そうなのか」


 「うん。でも、“しっかりしてるね”って言われると、つい頑張っちゃう。

 で、頑張りすぎて、気づいたらここに来てるの」


 彼女はそう言って、少し照れたように笑った。

 ――その笑顔は、少しだけ泣きそうにも見えた。


 「……結城ってさ、意外と頑固なんだな」


 「なにそれ、褒めてる?」


 「まあ、半分くらい」


 「じゃあ、半分は貶してるね」


 そう言って、澪が指で僕の腕を軽くつつく。

 その距離が、ほんの少し近づいた気がした。


 ***


 日が沈み始める。

 西の空がオレンジ色に染まって、校舎の影が長く伸びていた。


 「橘くん」


 「ん?」


 「卒業したら、ここ来れなくなっちゃうね」


 「……そうだな」


 「なんか、もったいないね。この場所、好きだったのに」


 「じゃあ、卒業する前に、あと何回か来ればいいだろ」


 「うん。……そのときも、橘くんと来たいな」


 不意に、澪がこちらを見上げて微笑んだ。

 夕陽が彼女の瞳に映り込んで、金色にきらめいていた。


 「なあ、結城」


 「なに?」


 「もしさ、俺が卒業しても、まだ“屋上でサボる会”やってたら……入ってもいい?」


 「……うん。歓迎するよ」


 「俺以外の会員、できたら?」


 「そのときは、会長がちゃんと選ぶ」


 「会長?」


 「私が会長だもん」


 「勝手に決めたな」


 「今決めた」


 そう言って、澪は笑った。

 風が彼女の髪を揺らし、頬に光が差し込む。

 その瞬間――僕は思った。

 この時間を、ずっと覚えていたい。


 ***


 チャイムが鳴った。

 下の階では部活が終わる音。

 僕らの時間も、そろそろ終わりに近づいていた。


 「そろそろ帰ろっか」


 「……ああ」


 立ち上がると、澪がスカートを押さえながら言った。


 「ねえ、橘くん」


 「ん?」


 「風、好き?」


 「急にどうした」


 「今日みたいに、優しい風の日が好き。……なんか、心が自由になる感じ」


 彼女の横顔が風に吹かれて、少しだけ遠くに見えた。

 僕は、答える代わりに小さく頷いた。


 「じゃあ、また風が吹いたら、屋上で会おうね」


 その言葉を残して、澪は階段へと消えていった。


 風が頬を撫でる。

 空は淡い夕暮れ色に染まり、僕はそっと目を閉じた。


 ――きっとまた、ここで会える気がした。

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君が風を追いかけた日 神田 双月 @mantistakesawa

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