第4話 黒い依頼書


美咲が事務所を出て行った後、私は一晩中眠れなかった。

7年前の記憶が、断片的に蘇ってくる。

倉庫。鎖に繋がれた女性たち。榊原透の顔。

そして、拓海の声。

「玲奈、これは仕方ないんだ」

私は、何を「仕方ない」と思ったのか?


翌朝、私は事務所のファイルキャビネットを開けた。

3ヶ月前の案件を探す。

そして、ある依頼書を見つけた。

私はそれを取り出し、デスクに広げた。

「調査依頼書」

依頼内容:榊原透の現在の居場所を調査すること。

依頼人:水瀬玲奈。

私は、依頼書を凝視した。

これは、私の筆跡だ。

印鑑も、私のものだ。

だが、私はこの依頼書を書いた記憶がない。

なぜ?

私は、自分で自分に調査を依頼したのか?

それとも――。

誰かが、私の名前を使って、この依頼書を偽造したのか?

私は依頼書の日付を確認した。

3ヶ月前。

ちょうど、美咲が拓海に近づき始めた時期だ。

偶然ではない。

すべては、計画されていた。


私は依頼書をスキャンし、筆跡鑑定の専門家に送った。

そして、自分の過去の書類と比較してもらうことにした。

結果が出るまで、数日かかる。

その間、私は何をすべきか?

その時、事務所のドアが開いた。

私は振り向いた。

そこに、美咲が立っていた。

昨夜と同じ、黒いコート。

彼女は、冷たく微笑んだ。

「おはよう、水瀬さん」

私は立ち上がった。

「あなた、なぜここに?」

「話があるの。座って」

美咲は、招かれざる客のように椅子に座った。

私は、デスクを挟んで彼女と向き合った。

「昨夜は、少し感情的だったわね」

美咲は、まるで昨日の天気を語るように言った。

「今日は、もっと冷静に話しましょう」

私は黙っていた。

美咲は続けた。

「7年前の事件について、あなたはどこまで覚えているの?」

「すべて」

私は嘘をついた。

美咲は笑った。

「嘘ね。あなたの目を見ればわかる」

私は目を逸らした。

美咲は、デスクの上の依頼書に気づいた。

「それ、見つけたのね」

私は息を呑んだ。

「これ、あなたが?」

美咲は頷いた。

「ええ。あなたの筆跡を真似て、作ったの」

「なぜ?」

「あなたに、榊原を探させるため」

私は混乱した。

「なぜ、私に?」

美咲は私を見た。

「あなたは、榊原を逃がした。だから、あなたが捕まえるべきだと思った」

私は言葉を失った。

美咲は続けた。

「でも、あなたはこの依頼書に気づかなかった。だから、私は別の方法を選んだ」

「拓海に近づいた」

美咲は頷いた。

「ええ。あなたの夫に近づき、不倫関係を装い、そして――柏木瑞希の遺体を使って、私の死を偽装した」

「なぜ、そこまで?」

美咲の目が、冷たくなった。

「あなたを、この事件の中心に引きずり込むため。あなたに、7年前の罪を思い出させるため」

私は深呼吸をした。

「7年前、私は――」

「あなたは、私たちを見捨てた」

美咲の声は、静かだった。だが、その言葉は重かった。

「7年前、私たちは榊原に監禁されていた。私と、柏木瑞希と、川島ひかり。3人の女性が」

私は、その名前を聞いて、記憶が鮮明になるのを感じた。

美咲は続けた。

「あなたは、救出作戦を指揮していた。いえ――指揮するはずだった」

「違う――」

「でも、失敗した」

美咲は私の言葉を遮った。

「いえ、失敗したふりをした」

私は立ち上がった。

「私は、全力で――」

「本当に?」

美咲も立ち上がった。

私たちは、デスクを挟んで対峙した。

「あなたの上司――水瀬拓海が、榊原から賄賂を受け取っていた。そして、あなたはそれを知っていた」

私は、否定できなかった。

なぜなら、それは真実だったから。

美咲は続けた。

「拓海は、榊原に証拠を揉み消すことを約束した。その代わりに、金を受け取った」

私は、拳を握りしめた。

「そして、あなたはそれを黙認した。保身のために」

「違う――」

だが、声が震えた。

美咲は、私の目を見た。

「あなたは、倉庫に来た。私たちを見た。助けを求める私たちを見て――そして、去って行った」

私は、涙が込み上げてくるのを感じた。

「なぜ、助けなかったの?」

美咲の声に、初めて感情が滲んだ。

「なぜ、私たちを見捨てたの?」

私は、答えられなかった。

なぜなら、私自身も知りたかったから。

なぜ、私はあの時、彼女たちを見捨てたのか?


沈黙が、部屋を満たした。

美咲は、ゆっくりと椅子に座り直した。

私も、座った。

「その後、何が起きたか知ってる?」

美咲は、淡々と語り始めた。

「榊原は釈放された。そして、私たちは――地獄に残された」

私は、黙って聞いた。

「瑞希は、拷問の末に死んだ。ひかりは、精神が壊れた。そして私は――」

美咲は言葉を切った。

「私は、3ヶ月後にようやく逃げ出せた。でも、その時にはもう――」

彼女は、自分の腕を見た。

袖をまくると、無数の傷跡があった。

「私は、壊れていた」

私は、息を呑んだ。

美咲は袖を下ろした。

「瑞希の遺体は、榊原が山中に埋めていた。私が逃げ出した後、榊原は姿を消した。そして、瑞希の遺体は7年間、土の中にあった」

「どうやって、遺体を――」

「見つけた。3ヶ月前に」

美咲は答えた。

「榊原を追っていて、偶然見つけた。そして、思いついたの。この遺体を使って、あなたを罠にはめようと」

私は、言葉を失った。

「瑞希の遺体を掘り起こして、多摩川の河川敷に運んだ。そして、あなたの夫を現場に呼び出した」

「拓海を、どうやって?」

「簡単よ。『あなたの妻の秘密を知っている』とメッセージを送っただけ」

美咲は冷たく笑った。

「彼は、すぐに来た。そして、遺体を見て、パニックになった」

私は、拓海の顔を思い浮かべた。

あの夜、河川敷で震えていた彼の姿を。

「あなたは、拓海を犯人に仕立てようとした」

「ええ。でも、本当の目的は別にあった」

美咲は私を見た。

「あなたを、事件の中心に引きずり込むこと。あなたに、7年前の罪を思い出させること」

「それで、満足?」

私は、声を絞り出した。

美咲は首を横に振った。

「まだよ。あなたは、まだ選択をしていない」

「選択?」

「真実を告発するか、また嘘に逃げるか」

美咲は立ち上がった。

「あなたには、まだ時間がある。榊原を見つけて、捕まえることができる」

私は、美咲を見上げた。

「なぜ、あなた自身で捕まえないの?」

美咲は、悲しそうに笑った。

「私には、もう力がないの。7年間、復讐のことだけ考えて生きてきた。でも――」

彼女は、窓の外を見た。

「復讐しても、瑞希は戻ってこない。ひかりも、元には戻らない」

私は、何も言えなかった。

美咲は、ドアに向かった。

そして、振り返った。

「次に会う時、あなたは真実を選べるかしら?それとも、また嘘を選ぶ?」

彼女は、事務所を出て行った。


私は一人、デスクに座っていた。

真実を選ぶか、嘘を選ぶか。

私には、選択肢がある。

拓海の賄賂を告発すれば、彼は破滅する。

そして、私も――刑事時代の罪を認めることになる。

だが、それが正しいことなのか?

私は、自分に問いかけた。

正しさとは、何か?

7年前、私は保身のために彼女たちを見捨てた。

それは、間違いだった。

では、今、私は何をすべきか?


その日の午後、私は7年前の事件ファイルをすべて見直した。

榊原透の情報。

彼は、事件の後、姿を消した。

だが、完全に消えることはできない。

どこかに、痕跡があるはずだ。

私は、パソコンで検索を始めた。

榊原透。神奈川県。運送会社。

そして、ある記事を見つけた。

2年前の記事。

「静岡県で運送会社経営者が交通事故」

記事には、被害者の名前があった。

佐々木徹。

だが、写真を見ると――榊原透だった。

名前を変えて、静岡県で暮らしていた。

私は、記事をさらに読んだ。

「被害者は軽傷。現在も静岡県内で暮らしている」

榊原は、生きている。

静岡県に。


私は、すぐに静岡に向かう準備を始めた。

だが、その前に、確認しなければならないことがあった。

私は、藤崎刑事に電話した。

「藤崎さん、榊原透について、新しい情報があります」

「どんな?」

「彼は、名前を変えて静岡県にいます」

藤崎は驚いた様子だった。

「本当ですか?」

「ええ。でも、警察が動く前に、私が確認したいんです」

「水瀬さん、それは危険です」

「わかってます。でも――」

私は言葉を選んだ。

「これは、私の責任です」

藤崎は、沈黙した。

そして、言った。

「わかりました。でも、何かあったらすぐに連絡してください」

「ありがとうございます」

電話を切った。


翌日、私は静岡に向かった。

新幹線の中で、私は7年前のことを考えていた。

あの日、倉庫で何が起きたのか。

なぜ、私は彼女たちを見捨てたのか。

そして――。

今、私は何をすべきなのか。

真実を選ぶのか、嘘を選ぶのか。

新幹線が、静岡駅に到着した。

私は、深呼吸をして、立ち上がった。

榊原透を見つける。

そして――。

すべてに、決着をつける。


静岡県内の運送会社を、一つずつ調べた。

そして、3軒目で見つけた。

小さな運送会社。看板には「佐々木運送」とあった。

私は、会社の前に立った。

中には、数人の従業員が働いていた。

そして、奥の事務室に――。

榊原透がいた。

7年前より老けているが、間違いない。

私は、会社の中に入った。

「すみません」

従業員の一人が、振り向いた。

「はい、何か?」

「佐々木さんに、お会いしたいんですが」

従業員は、奥の事務室を指さした。

「あちらにいますよ」

私は、事務室に向かった。

ドアを開けると、榊原が振り向いた。

彼は、私を見て、一瞬、表情を変えた。

「あなたは――」

私は、彼の前に立った。

「久しぶりですね、榊原さん。いえ、佐々木さん」

榊原は、立ち上がった。

「何の用だ?」

「話があります。7年前のことについて」

榊原の顔が、強張った。

「帰ってくれ」

「帰りません」

私は、彼を見据えた。

「あなたは、7年前、3人の女性を監禁した」

榊原は、黙っていた。

私は続けた。

「そして、私と取引をした。証拠を揉み消すことと引き換えに、被害者の居場所を明かすと」

榊原は、目を逸らした。

「だが、あなたは嘘をついた。被害者の居場所を明かさず、姿を消した」

「それが何だ?もう時効だ」

榊原は、冷たく言った。

私は、一歩近づいた。

「殺人に、時効はありません」

榊原の顔が、青ざめた。

「柏木瑞希を、あなたは殺した」

「証拠はあるのか?」

私は、スマホを取り出した。

「美咲――相馬絵里が、すべて証言します」

榊原は、震えた。

「絵里が――生きていたのか?」

「ええ。そして、彼女はあなたを許さない」

私は、スマホで録音を開始した。

「今から、あなたは自白します」

榊原は、椅子に座り込んだ。

そして――。

彼は、すべてを話し始めた。

7年前の事件。3人の女性の監禁。拷問。

そして、柏木瑞希の死。

私は、黙って聞いた。

榊原の自白を、すべて録音した。


録音が終わった後、私は警察に通報した。

榊原は、その場で逮捕された。

私は、静岡駅に向かった。

新幹線の中で、私はスマホを見た。

榊原の自白。

これで、7年前の事件は動き出す。

だが――。

私自身の罪は、どうなる?

拓海の賄賂。

私の黙認。

すべてが、明らかになる。

私は、窓の外を見た。

真実を選んだ。

だが、それは正しかったのか?

わからない。

ただ、一つだけわかることがある。

私は、もう逃げない。


東京に戻ると、美咲から電話があった。

「榊原を捕まえたのね」

「ええ」

「よくやったわ」

美咲の声は、以前より柔らかかった。

「これで、瑞希も少しは報われる」

私は、何も言えなかった。

美咲は続けた。

「あなたは、真実を選んだ。それは、評価するわ」

「でも――」

「でも、許すわけじゃない」

美咲の声が、再び冷たくなった。

「あなたは、7年前の罪を償わなければならない」

私は、頷いた。

「わかってる」

「次に会う時――」

美咲は言葉を切った。

「次に会う時、すべてが終わる」

電話は、切れた。


(第4話 終)


次回:第5話「夫の嘘、妻の罪」

拓海の賄賂が明らかになり、玲奈は選択を迫られる。真実を告発するのか、それとも――。美咲との最後の対決が始まる。

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