デンプンクエスト

低泉ナギ

デンプンクエスト


「かなこ、デンプンをひとっつ、買ってきてちょうだい」


おいしそうな匂いの向こうから、せっかちな声が飛んできた。


放課後におばあちゃんのお店に寄ったかなこは、ボウルと長箸を持って台所から出てきたおばあちゃんにおつかいを頼まれた。


まだ開店前だけど、常連さんが早く来るのかもしれない。


かなこは頷いて、バッグだけ入口近くの座敷に置くとそのまま外に出た。


デンプンって、なんだっけ?


そんなことを聞いてしまったら、おばあちゃんはきっと呆れ顔になって、「モノを知らない子だね」となじるに違いない。そしてそれに続く「あんた、女の子でしょ」という一言は、かなこには女子失格どころか、人間失格のように、重たくのしかかってくるのだ。




 十六歳は、たぶん微妙なお年頃だ。


中学生からすれば、夏服のシャツ姿で調味料なんて買うかなこは、立派なお姉さんに見えるに違いない。でも大人からすれば、制服を着ていればみんな子供なのだ。


――今だけは子供っぽく見えますように。

かなこはそう願いながら、じりじりする太陽から逃げるようにコンビニに入った。


 冷房の効いた店内には、思ったより人がいた。スピーカーからはアニメで流行った曲が流れてて、アイスコーヒーを持ったきれいなお姉さんと入れ違いになった。


肌寒さを覚えて、かなこは少し不安になりながら、調味料の棚を探した。


まず、デンプンは「デンプン」という商品名で売られていないことだけは確かだ。


スマホで調べようとして、ポケットが空なのに気づく。

お店に置いてきたバッグの中だった。


――どうしよう。


デンプンは白い粉、だったはず。


そう思いついたとき、カラフルな調味料の棚の下に、白い粉の袋が並んでいるのを見つけた。


ほっとして棚にしゃがむと、かなこはあることに気づいて固まった。

片栗粉と、薄力粉。

白い粉は二種類並んでいたのだ。


二つの袋を両手にとって、じっくり見比べてみる。

片栗粉のほうが、なんとなくデンプンっぽい気がする。袋の文字も、どことなく自信ありげだ。


 頭の中で、ボウルにお鍋に粉を入れる自分を想像してみる。台所に置いてあるのはどっちの袋だろう?首を傾げると、そこにおばあちゃんが来て、ボウルと袋をひったくっていく。

想像の中でも、おばあちゃんは嵐のようだった。


 顔を上げると、通路の先で店員さんが商品を並べていた。背の高いお兄さん、というよりは男の子で、歳はかなことそう変わらないように見えた。同じ学校の生徒かもしれない。

かなこは前髪をちょっと引っぱってそこから離れた。


見回してみると、赤いジャージの中学生たちがアイス売り場を漁っていて、小さな男の子は母親のかごにチョコをそっと滑り込ませていた。


みんなどこか幼く見えて、かなこは急にいたたまれなくなってきた。


大人に何かを尋ねるときは、なにも知らない子供の顔で聞けば、そんなに恥ずかしくない。でも年下の子たちのいる前で、子供のまねなんてできない。そんなの恥ずかしくて死んでしまう。


 中学生たちが飲み物コーナーに移動したのを見て、かなこはさり気なくレジに向かった。

聞いて、買って、すぐに出よう。


「あの、すみません」


レジで何かを書き留めていた店員さんが顔を上げる。かなこは両手の袋を差し出した。


「デンプンって、どっちですか」


まぬけな質問は声に出すと、もっとまぬけに聞こえた。


「デンプン?」


「片栗粉か小麦粉か、どっちか分からなくて」


店員さんが「ああ」と言って袋を見比べたので、かなこは少し安心した。

この人も、モノを知らない子なんだ。


「すみませーん、美原さーん!」


突然の大声に、かなこはぎょっとして両手を引っこめた。


「デンプンって片栗粉ですよねー」


「デンプンは片栗粉でしょ、知らないの?」


奥の扉から、見知ったおじさんの頭が、ぬっと現れる。


「いや、こちらのお客さんが聞いてきて」


おじさんの視線が向いて、かなこは憮然とした表情で両手の袋を掲げた。


「かなこちゃん、またおばあちゃんに頼まれた?」


「うん。デンプン買ってきてって言われて」


「そっかあ、デンプンって言われてもわかんないよね」


おじさんがレジまで出てきて笑った。かなこも、つられてちょっと笑ってしまって、思わずうつむいた。


知らない人たちの前で甘やかされてしまうと余計に恥ずかしい。背中に視線を感じて、かなこは思わず出口の方を見た。

いつの間にか、背後には親子連れが並んでいた。


「デンプンは片栗粉だよ。はい、百九十四円ね」


お礼を言って、レシートとおつりを受け取る。


そそくさとコンビニを出ようとしたら「おばあちゃんによろしくね」と声をかけられたので、やむを得ずふり返ってぺこりとお辞儀した。


 かなこは袋のつるっとした感触を指で確かめながら早歩きで帰った。

さっきよりも陽射しが強くて、うなじがちくちくした。


 おばあちゃんのお店に戻ると、入口近くにあるカウンター席に常連さんがどっしりと座っていた。

コイケさんだ。

コイケさんは入ってきたかなこに気づくと、人の良さそうな笑顔になって、明るい声をかけてきた。


「かなこちゃん!お手伝いかい?生中おねがいしていいかな」


かなこは一瞬、戸惑った。


「でも、まだサーバー開けてないんです」


「ママに言ってくれればいいからさ。おれは生じゃないと飲めないんだってわかってんだ、ママは」


コイケさんは自分の鼻を指さして、黒っぽい顔を丸くして、にかっと笑った。


 かなこはぱたぱたと台所に行って、おばあちゃんに片栗粉を渡した。おばあちゃんは「ありがとう、あとでお金払うからね」と言うと、あっという間に袋を切って中身をボウルにザッと開けた。


「コイケさん、生ひとつだってさ。わたしやるね」


中ジョッキと小さいボウルを取り出して、ビールサーバーの栓を開けようとすると、おばあちゃんが割って入ってきた。


「貸してごらん」


おばあちゃんはジョッキを持って台所に戻ると、冷蔵庫から銀色の缶ビールを取り出した。


「コイケさん、生ビールじゃないと飲めないって言ってたよ」


プシュっと、小さな音が狭い台所に響いた。

つい、かなこはのれん越しにカウンターの方を見やった。


「うっそだよ。いつもこれで飲んでるんだから」


なんでもないことみたいに言って、おばあちゃんは斜めにしたジョッキに缶ビールを注いでいく。


「いつも?」


「開店前はね。いっつも生飲ませてくれって言うけど、違いなんてわかんないんだから」


「そうなんだ……」


「ほんと、みっともないね」


おばあちゃんが笑って言った。ないしょ話をするみたいな声色だったけど、それでもおばあちゃんの声は大きすぎるから、カウンターまで聞こえてしまいそうで、かなこはどきどきした。


「はい。これ出してあげて」


差し出されたジョッキはずっしりしてて、いつもより重たく感じた。




 「おっ!悪いね、かなこちゃん!」


ジョッキを両手で受け取ると、コイケさんは目を細めて「生中」を飲んだ。


みっともない。

おばあちゃんはたまに、ちくっとする言葉を使う。


目の前でジョッキが傾けられていくのを見届けてから、かなこはどこか納得できない気持ちで、しょうゆの匂いがする台所に戻った。


おばあちゃんはフライパンに油を引いて、卵を入れるところだった。

湯気が昇って、おばあちゃんの大きな背中がちょっと霞んで見えた。

コイケさんの大好物の、しょっぱい玉子焼きだ。


 かなこはバッグから取り出したスマホでメモを開いて『デンプンは片栗粉!』と打った。


それからちょっと考えて、『みっともない ?』と打ってみた。


手の中が小さく振動して『メモを保存しました』という通知が出ると、ようやく安心して、スマホをポケットにしまった。


――デンプンは片栗粉。もう、ちゃんと覚えた。





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