28話 静かな献身--騎士達の証言。




 「父さん……ママの髪、美味しい?」


下から覗き込むブラットの大きな瞳。

イネスは反射的にダニエルを突き飛ばした。


 「…うっ……結構効いた……」


甘ったるい二人の空気に、手伝いに来ていた騎士も鉄鋼職人も頬を赤らめて視線を外した。


 「……お、お掃除しないとね!

  綺麗にする前に、家具が届い

  たから……」


慌てて掃除具を手にとったイネスを、すかさず騎士たちが制した。


 「ここは、私共にお任せください」


遠慮するイネスから掃除機を取り上げるダニエル。


 「せっかく名乗り出てくれたんだ。

  厚意に甘えたらどうだ?

  一階は書店だろう。

  ゆっくり見てくるといい」


 「ママ、兄さんへのお土産を

  見に行こうよ!」


キリアンは本が好き。

イネスの顔がぱっと華やぐ。

彼女は丁寧に礼を告げ、ブラットと手をつないで出ていった。



---


鉄鋼職人は窓枠や扉の寸法を細かく測り、三人の騎士は埃を払い、石床を磨く。

塵一つ残すまいと、誠意の込もった働きぶりだった。


  まさか、堅物のこいつらから

  掃除を名乗り出るなんて……


  それに、あの時の涙も、今にして

  思えば、どう考えてもおかしい……


川で無惨な死を遂げたイネス。

その時、鍛え上げられた男たちが揃って涙していた。


 「お前たち、これは任務外だろう?」


騎士たちは視線を交わし、控えめに口を開いた。


 「……我々、実は、奥様には

  以前より大変お世話になって

  おりまして……」


話はこうだ。


騎士たちは領地の見張りとともに、イネスの行動監視も担っていた。

子どもとの接触制限、本邸への立ち入りを防ぐのも役目。


ある日、騎士の一人が森で負傷した。

そこへ偶然居合わせたイネスが現れ、無言で薬を差し出した。


後日礼を述べに行った彼に、彼女は追加の薬と煎じ薬を持たせた。


 「毒が入ると危険です。

  追加の薬もどうぞ。

  ――それと、夫には内緒で……

  お互い様ですものね。ふふ」


それから彼女は、騎士たち全員とその家族に薬をそっと届けるようになった。

 

“これくらいしかできなくて、心苦しいわ”


薬を届けるたび、彼女は必ずそう言った。


冷遇された妻。

けれど彼女の言葉には、伯爵家へ嫁いだ者としての務めを静かに背負う強さが宿っていた。


  「祖母は、『この薬なしでは冬の

   水仕事はできない』と……」


  「うちは、娘が重い熱病にかかった

   とき、奥様の煎じ薬で

   命をとどめました……」


次々に語られる感謝。

それに、聞くところによると、イネスに救われたのは三人だけではなかった。


 「……知らなかった……」


ダニエルが把握していたのは、イネスが野草を売って生活費にしていたことだけ。


“惨めで見苦しい女”


なぜそんなふうに思えたのか。

離縁状を置いて出ていったあの日、

彼は酷い罵声を浴びせた。


“使用人のような手”


懸命に生きた痕跡を、俺はあざ笑った。

その手をそうさせたのは――他でもない、自分なのに。


あのとき、彼女はどんな顔をしていた…?


思い出そうとしても、頭は痛むばかりで、記憶の断片はまばら……


大事なことなのに…

ダニエルは、バケツの取っ手をぎゅっと握った。


 


 「……命令に背き、申し訳ありません

  でした。」


騎士の謝罪に胸が痛む。


  「……いや、謝るな。

   お陰で彼女の心を知れた……」


   あの時の俺は、狂っていた……



  「我々は、嬉しいのです。

   少しでも奥様のお役に立てる

   なら、と……。」


伯爵夫人として、彼女に許された数少ない“献身”。

自分の知らないところでイネスは、騎士達からの熱い信頼を得ていた。


ダニエルは静かに息を吸う。


  「イネスが戻る前に終わらせよう」


その言葉に、騎士たちは小さく息をつく。

控えめな、けれど確かな安堵だった。


主の冷たい視線に従うしかない。


――奥様はあれほどお優しいのに。

――主はなぜ、それを見ないのか。


愛人の前では、まるで別人。

その姿に痛みながらも、従うしかない騎士たち。

夫人の悲しみから目を背けるしかなかった。


それが今――主が膝をつき、雑巾を握った。


爵位を持つ当主が身をかがめて床を磨くなど、本来あってはならない。


だが、誰も止めなかった。


これこそが――

彼らがずっと願っていた“変化”だったからだ。


石床の冷たさが指先に沁み、

泥水の重みが腕を伝う。

汚れは力を込めなければ落ちない。



  ……ここは罰部屋を思い出す……

   本来、イネスには着飾り、

   貴婦人として……


  「……イネスが過ごす場所を、

   少しでも快適にしてやる……」


こぼれた一声に、張りつめていた空気がほどけ、騎士たちはようやく息を吐いた。



あれほど夫人を遠ざけていた主の口から出た“変化の兆し”。

長く積もった痛みが、ほどけていくようだった。


その時、扉が開く。


  「……い、いったいどうしたの?」


ダニエルの頭にはクモの巣。

上等な衣は埃だらけ。

騎士たちの雰囲気もどこか柔らかい。


  「もう、帰ってきたのか……」


拍子抜けしたダニエルの声に、イネスは目を丸くし――


  「……ぷっ あはははっ」


思わず吹き出した。


  「ま、まさかあなたまで掃除を!?」


膝をつき雑巾を握る夫の姿に、笑わずにいられない。


 「ダニエル、本当に酷い姿よ!

  鏡を見た方がいいわ、ふふふ」


イネスのエクボ。

それは心の底からの笑い。


  ――俺を見て、こんな顔……

  いつぶりだ……?


彼女は駆け寄り、クモの巣を払う。


 「……イネス、愛してる!!」


 「きゃっ……!」


ダニエルは彼女を強く抱き締める。

溢れる思いが止まらない。


 「ちょ、ちょっとやめて!」


 「ダメだ、一生離さない!

  愛してる!」


騎士たちは、優しい眼差しで二人を見守った。


 「ちょっとっ……!

  わたしたちがいない間に……

  な、何があったっていうのよ……!」


困り顔の母。

その母を抱く父。

笑う騎士たち。


そして傍らのブラット。


小さな胸いっぱいに両親への想いを抱き、にこりと笑う。

 

  「父さんも、ママのことも大好きだ!」


  


 ――次話予告。

イネスには、思いがけない家族の時間。

閉ざされる大地に一人残されノア。

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