11話 見上げれは口づけーー傲慢と誘惑。


 「キリアンしか、

  わたしを守ることはできないわ。

  お願い、助けて……」


 「でも父さんは、僕の言うこと

  なんて聞いてくれないよ……」

 

震える声でそう漏らしたキリアンの手が、ノアの袖をぎゅっと握った。


 「大丈夫よ。

  奥様に、あなたから頼むの。

  きっと、あなたのお願いなら、

  なんでも聞いてくれるわ……。」


ノアは、子供たちにとって優しく、

母のような温もりをくれた唯一の存在だった。


――狡猾で、ずる賢いノアが、父を手に入れるために自分たちを利用しているなど、夢にも思っていなかった。

声が裏返り、瞳には涙を溜めていた。


イネスは、実の母でありながら、幼い自分を傷つけた恐ろしい存在。

ノアは、その母から自分たちを守ってくれた。


キリアンの、ノアへの献身は――

深く、純粋だった。


 「イネスさん、お願いです……」

 「ち、父を説得してくださいっ

  心からのお願いです……。」


尊くて、可愛くて、触れたくてどうしようもない――

二人の息子からの悲痛な叫び。


視界が暗くなるように重く、イネスの心は悲しみで満たされた。


――口を開いても、思うように言葉が出てこない。

目には涙が溜まり、鼻がツンと痛くなった。


 「いい加減にしろ!

  俺の決定に

  大人しく従うんだ!」


ダニエルはその後、夕食を打ち切った。


ノアと息子たちを退席させ、真っ先にイネスを気づかった。


――けれど、その声は、もうイネスの耳には届かない。


泣きながら遠ざかるブラット。

肩をすくめ、静かに去ったキリアン。


二人に駆け寄り、慰めることも、叱ることも、寄り添うことも許されない関係性。


イネスは奥歯を噛みしめ、自らの無力を嘆いた。



――



部屋に戻ったイネス。

アリーナが湯浴みの準備をしてくれていたため、ゆったりと身体を洗い流すことができた。


香油の入った湯も、香りの漂う石鹸も、久しぶりの贅沢。


「……っ」


けれど、体に伝う熱も香りも、そのすべてが

どうでもよかった。

伯爵夫人としての待遇も、贅沢も――

何もかも望んでなんていない。

 

欲しいのは、キリアンとブラットの“心”。


  ――簡単ではないことは、

  わかっていた。

  回帰前の二人を見ていたから。

 

  けれど、浮かれていた。

  ――あの子たちの心を、

  蔑ろにしていた……。


幼少期の大事な時期を過ごした“ノア”の存在は、

想像よりもずっと大きいことを痛感した。


  わたしの一方的な気持ちを

  あの子達に押しつける…


  これは、"愛"と呼べるの?


イネスは、溢れる涙を湯で何度も洗い流した。


水面に散らされた花々が、湯に豊かな彩りを添えていた。

 

――それでも、涙がこぼれるたびに、その美しささえもどこか憎らしく、イネスの心をを、いっそう虚しくさせるのだった。 

 


――



消灯の時刻。

静まり返る屋敷内。


イネスの部屋も、深い静寂に包まれていた。

息子たちのことが頭を埋めつくし、今夜は眠れそうにもない。


 「あいつらとは、俺が話をする」


そう言って、息子たちの後を追いかけたダニエル。

イネスは、その後のことが気になって仕方がなかった。


 「……っ」


イネスは、ダニエルのもとへ行こうとガウンを羽織った。


――すると、


 コンコンッ。


 「俺だ。」


ダニエルの声。

イネスは、すぐに招き入れた。


 「きみの様子が気になって……」


黒い髪が、窓から覗く月明かりに照らされる。

自分を心配そうに見つめる夫に、イネスの心が揺れた。


すべての元凶は、この夫――ダニエル。


――それなのに…。


無駄に広い部屋に、この夫の存在がありがたく思えた。


  心細い。

  一人は淋しい。


暗い川中で、死の味を知ったイネスの心は、孤独に弱い。

寒さ、痛さ、愛への渇望――


イネスは僅かに震えていた。


  見放されるのは怖いわ……


子供たちの泣いてる姿が、頭から離れない。 


苛立ちと恐れが混在する中で、今、唯一頼れる存在の夫。


その矛盾が、イネスを可笑しくさせる。


  ――わたしが心を許せば……


  いっそ、体を許し、

  抱かれてしまえば、きっと、

  今以上にこの人を

  思いのままに――。

 

そんな打算と、縋りつきたい弱さが、胸の奥でせめぎ合う。

 

まるで、開け放たれた箱の中で思考が散らばるようだった。


 「大丈夫か、イネス?」


悲壮にまみれ、絹の夜着をまとい、仄かな灯りの中で、佇む彼女は、か弱くも美しい。


ダニエルは、ただ、イネスに見とれていた。


 「あの子たちの様子は?」

 

その視線から逃げるように、イネスは背を向ける。


 「話をした。

  大丈夫だろう。」


ダニエルは、ゆっくりとイネスとの距離を詰めていく。


 「容易く言うのね……

  ずっと母親のように

  彼女のことを慕ってきたのよ?

  簡単なことじゃないわ」


 「俺は五歳で母を失った。

  それでもこうして元気に

  生きている。」


母を病気で亡くしているダニエル。


 「それに……

  あいつらの母親は君だ」

 

ダニエルは一拍置いて、静かに続けた。

 

 「彼女は乳母にすぎない」

 

 「――よくも、そんなことが

  あなたの口から言えるわね!」

 

イネスに怒りが込み上げる。

 

 「あの子たちを苦しめる

  原因をつくったのは、

  他でもない"あなた"なのよ!」


イネスは、怒り任せに振り返った。

すると――すぐ後ろにはダニエル。


  近い、近すぎる……

  すぐ後ろにいるなんて。


目が合う二人。

 

 「ああ、そうだな……確かに。

  だが、しょうがないだろう?」


 「あいつらのために、彼女を

  ここに置いておくのか?

  俺が愛してるのは君なのに。」


月に照らされたダニエルの青い瞳は、灰みを帯び、真っ直ぐとイネスの瞳を捉えていた。


そして、淡々と落ち着いた声色。


開き直っている夫の声が、なぜか優しくイネスの耳に届く。

  

矛盾した思考と、身勝手で傲慢。


それなのに、ノアを乳母と言い放ち、自分を好きだと言い放つその言葉が、イネスを安心させた。


――同時に。

夫のねじ曲げられてしまった感情を、イネスは皮肉にも不憫に思えた。


 「彼女への思いなんて、

  微塵も残っていない。」


ダニエルは瞳の先を、イネスの唇へ落とした。


 「もう一度言う、

  俺が好きなのは君だ」


ダニエルの腕は、いつの間にか、イネスの細い腰回りを締め上げ、逃げ場を塞いでいた。

 

見上げれば――

ダニエルはすぐにでも、唇を奪いにくるだろう。


 「……す、好きとか

  嫌いの問題じゃないの」


逃げようと思えば、逃げられる。

しかし、

そうしなかったのは、ダニエルの腕の中が優しくて、居心地が良かったからだ。


  ――身を委ねたくなるのは、

  わたしが弱いから?


イネスは唇を固く結んだ。


 「イネス、愛してる……

  心から……

  今まで傷つけて、裏切って

  ごめん。」


心からの反省。

イネスの、許せない思いと、淋しさが交差する。


そして――

ダニエルの吐息が、肌をかすめると、甘く、理性が吹き飛んでいった。

 

イネスの喉が、熱に侵されたように鳴る。

わずかな警告音……波打つ鼓動。

 

  ――これは、いけない……

  ダメなのに……欲しくなる。

 

イネスは、見上げた。

 

 

 「ダニエル、わたし寒いの……

  ――抱きしめて。」




 ――次話予告

エンリケの光再び――それは罠?

イネスの進むべき道。

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