3話 愛され、愛したかった。
静寂の闇を引き裂く足音――。
森を駆ける女の呼吸が、夜気を震わせた。
…はぁ…はぁっ…殺される……っ…
布が裂かれ、走る全身の痛みに、イネスの顔が歪む。
こだまする、男たちの笑う声。
――もし、掴まったら……
きっと命はない。
呼吸は上がり、冷たい空気が肺を満たす。
「いや……やめてっ」
伸びる手は、あまりにも大きい。
男達は、イネスの頭を掴み、髪を引き上げた。
――イネスの悲鳴が森に響き渡る。
抵抗をしたところで、男達には適わない。
けれど、指輪を盗られるその瞬間
迫る悔しさに、自分でも驚いた。
可笑しい――。
あの人には、あんなにも
冷たくされたのに……
凍るような冷たい風――闇夜。
知らなかった。
暴力がこんなに痛くて怖いことなんて。
大事なネックレスまで奪われた。
何故家を出るとき、しっかりと
計画を練らなかった?
十七年も耐えたのに
結局、こんなことになってしまった…。
背中に鋭く刃が食い込む。
痛みは、ただ重く焼けるようだった。
抗えない力に支配され、川に捨てられた。
暗闇に視界は覆われる。
恐怖と、全身を包む痛み。
心を涙が満たした。
――ポチャンッ……
奪われたネックレス。
それは、男の手から滑るように落ち、イネスの手に渡る。
――その瞬間、世界が裏返った。
眩い閃光が走り、耳鳴りのような低い響きが、川底から空へと駆け抜けた。
光は筋となり、川に溶けこんでいく。
――わたしは、死んでしまうの?
意識は断片となり、現実と夢の境界が揺らぐ。
生きてきた足跡。
それが頭を巡った。
母の笑顔。
泣き崩れた父。
二人で分け合った、小さなパンの温もり。
それらが優しい幻となって流れた。
そこには、確かな愛情が――生きていた。
今、わたしは虚しい。
死にたくない。
幻想的な美しさの奥、底に沈むイネスを光が降り注ぐ。
――それは、
川面に映る朝日のような眩しさ。
心の奥にじんわり伝わる波動。
"石"の声がイネスに届く――。
『汝、吾の名は"エンリケ"』
意識の奥で、凍りついた恐怖と痛みが、ふわりとほどける。
――"エンリケ"?
聞いたことある……確か……
痛みもなく、軽くなる体。
プツリと思考が停止したよう。
『――汝、報復を欲すや。』
『嘲りし者どもに、
裁きを与えんと欲すか。』
イネスは涙をこぼした。
――報復?
そう、わたしは恨んでた。
綺麗に着飾り、夫の傍にいるあの女を……。
そんなに……
その人が良かったの?
私をなぜ、そこまで憎んだの?
なぜ、嫌ったの?
愛していたのに……
ずっと、あなたの心が戻ることを
心の底では願っていたのに……
どうして私を
見てはくれなかったの?
いっそ……いっそ……っ……
あの人たちを……
――しかし、心から沸き上がる思いは、別のことを考えはじめた。
子が生まれた時の感動。
夫からのキス。
死の際。
沸き上がる感情――。
そうじゃない……
私が求めていたのは……
ダニエルと心が通じ合った日。
小さな子を抱き、乳をあげる喜び。
裏切った夫を許せず、心を閉じてきた日々。
あの子たちから向けられた敵意――そして無関心。
美しい思い出を大事にしたい……。
悲しい思い出も、
すべてが、わたしの生きた
証だから……。
体を抱き締め、思う。
もっと踠けば……
なりふり構わずに……
心も体も。
涙は川に馴染み、胸の奥が熱を帯びる。
渇いた心が、温もりを求めて震えた。
――わたしは、愛されたかった。
そして、
愛したかったの……っ!!
死の縁に立たされた彼女の思いは、恨みでも復讐心でもない。
愛への渇望、憧れ――その無念だけ。
『吾に祈り、届きたり。』
『時を返す契り、ここに成れ。』
『心を裂きて愛を掴め。』
声が水面を震わせる刹那。
光は揺らめく。
『ふふ……
余興、愉しみにて候。』
笑う声と共にやがて散った。
残響だけが心に沁み渡り、精霊の気配は川の流れと共に霞む。
静寂の中、イネスの身体は光の余韻を抱き、ゆっくり闇へ落ちていった。
消えゆく命の灯火――
しかし、これは始まりにすぎない。
イネスはゆっくり目を閉じた。
――
夢とうつつの狭間で、イネスはうなされていた。
賊に襲われ、切りつけられた恐怖、孤独な死。
震える体は高熱か恐怖か、曖昧だ。
しかし、時折感じる温もりに、自然と頬を寄せる。
数日寝込み、目を開けてみれば、優しい光と、そっと自分を包む手があった。
それは、冷たく自分を突き放した――夫。
――でも、どうしてこの人が……?
そして、死んだはずの自分がここにいる。
これが現実なのか、境が曖昧で恐ろしい。
夫の手や声は自然で信じがたい。
涙が頬を伝うと、夫が優しく拭う。
静かで甘いーー。
胸の奥には、
"エンリケ"との余韻がくすぶる。
頭はズキズキと痛む。
けれど、この矛盾した状況をはっきりさせなければ――。
イネスは額の氷嚢を外し、ゆっくり体を起こした。
眉を下げ、イネスを気遣うダニエル。
肌は艶やかで、顎の線は柔らかく引き締まっている。
かつての若々しい姿を目の当たりにし、イネスは、胸が高鳴る自分に、少し戸惑いを覚えた。
そしてイネスは確信した――
本当に過去へ遡ってきたのだ、と。
「これは……持ち主を選ぶ石、
イネス、エンリケ様は、
"あなたを選んだ"のよ。」
祖母の顔と、ネックレスを受け継いだ記憶が、鮮やかに蘇る。
「エンリケの伝承」――これは、紛れもない事実だった。
「ダニエル、あの……」
言いたいことは山ほどあるのに、声にならない。
溜め息一つ、ダニエルから視線を外すと、おもむろに暦を確認した。
十年も前……?
華奢なイネスの手に、ダニエルはためらいながら自身の手をそっと重ねた。
「――っ!!」
意識がはっきりとした今、夫に触れられること自体が重く感じられた。
イネスの胸に、混沌とした、怒りが込み上げる。
うつむき、反応を見せないイネスに対し、ダニエルはもどかしさを感じた。
――そして、優しく囁く。
「イネス、大丈夫か?」
少し間を置き、イネスが顔をあげると、
そこには、今にも泣き崩れそうな男の姿があった。
――かつて愛した夫の、懐かしい眼差し。
涙で、イネスの視界がぐにゃっと歪む。
長男が生まれ、次男を腹に宿し、乳母のノアがこの屋敷に来て以来、ダニエルは変わり果ててしまった。
――今更どうして?
愛されたかったと、
わたしが望んだから?
これも、エンリケ様の力……?
とうに諦めていた、夫からの愛と献身。
そのあまりの複雑さに自然と涙が溢れた。
ダニエルの目にも涙が浮かぶ。
言葉を交わさぬまま、表せぬ心の揺らぎを抱え、時間だけが過ぎていく。
「ごめん……イネス」
先に口を開いたのはダニエル。
――イネスが生きている。
やり直す機会を与えられた……。
ダニエルは、イネスを看病し見守る中、これから妻にどのように尽くし、償っていこうか。
そのことを考えていた。
失った時間――信用。
すぐにとはいかないが、イネスには届く。
そう信じていた。
――しかし、
「何が、ごめんなの……?
ねぇ…っ?…教えて……」
イネスの声は震え、視線が絡み合う。
その瞬間、部屋の空気が張り詰めた。
嗚咽混じりのイネス声は、肩を震わせ、目には涙を一杯溜めていた。
そのあまりにも怒りに満ちた顔は、
「謝り、償いさえすれば。」
そう、容易く考えていた夫の浅はかさを、まるで見透かしていたかのようだった。
――次話予告
許せるはずもない!
死に戻った彼女の生きる道。
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