第10話 嘘と本音
その夜の営業は、いつもより長く感じた。
笑い声も、グラスの音も、
頭の奥で遠く反響しているようだった。
──美穂は来なかった。
「カイン、今日テンション低くね?」
優斗の軽口に、曖昧な笑みを返す。
「俺だっていつでも
テンションが高いわけじゃないよ」
そう言いながらも、
胸の奥には静かなざわめきが残っていた。
真田さんの言葉が、まだ離れない。
「境界線を越えたら、もう“この商売”が出来なくなる」
――それはわかってる。
開店してすぐのことだった。
内勤スタッフが俺の肩を叩いた。
「カインさん、A卓、新規のご指名。
“
その名前を聞いた瞬間、
手の中のグラスが止まった。
「…
「知り合いですか?」
「…いや、まさか」
でも、店の奥を見た瞬間、
記憶の奥に沈んでいた“声”が蘇った。
胸元が大きく開いた黒いワンピース。
不気味なほどに落ち着いた仕草。
あの頃と同じ、少し遅れて笑う癖。
髪も化粧もあの頃とは全然違う。
でも間違いなかった。
沙耶だった。
「久しぶり、海斗」
その呼び方を聞いて心臓が一瞬止まった。
この街で俺を“カイン”ではなく
“海斗”と呼ぶ女は、もう彼女しかいない。
「ここでは…カインだよ、俺は」
「ごめん。つい、昔の癖で」
彼女は微笑みながらも、
その目には何か読み取れない感情が滲んでいた。
「まさかあなたが
ホストになってるなんて思わなかった」
「人生いろいろ、ってやつかな」
「そうね。でも似合ってる。
昔より全然カッコイイし魅力的になったよ」
沙耶はタバコを咥えた。
俺は近付いてすぐにタバコに火を付けた。
昔の沙耶はタバコは吸わなかった、
まるであの時とは別人に見えた。
タバコの煙を吐きながら沙耶は呟く。
「あなたが最初からホストやってたらさ、
私、あなたと別れなかったかもしれない」
この一言に毛が逆立つほどの
苛立ちをおぼえた。
「…そうかもな。別れなかったかもな」
「でしょ?」
沙耶はグラスを持ち上げた。
彼女は俺の知っている沙耶ではなかった。
夜の流儀を知り、その中で生きる女。
当時の俺では理解出来るはずもなかった。
「でも…変わったね。
昔のあなたは、もっと真っ直ぐだった」
「そうかな?今も変わってないよ」
俺は仕事に徹した。
店内BGMさえ聞こえなかった。
沙耶がぽつりと呟いた。
「ごめんね。あの時、ちゃんと謝れなかった」
「何を?」
「あなたを傷つけたこと」
俺は笑おうとした。
でも、喉の奥で何かが詰まりかけた。
それでも無理矢理に笑ってみる。
「今が楽しいんだし過去なんてもういいじゃん」
そう言った瞬間、
胸の奥がひどく痛んだ。
思ってもないことを言うなんて
今に始まった事ではない。
でも…多分心は泣いていた。
沙耶はグラスの中の泡を見つめながら言った。
「あなたのこと、愛してたのは本当よ。
でも私は寂しさに勝つことの出来ない女なの。
今もこうしてフラフラと愛を探してる」
「寂しがるのは悪いことじゃない。
それから俺も沙耶のこと、愛してたよ。
だから…今日会えてよかった」
言葉が漏れた。
それは“海斗”ではなく、
“カイン”の嘘だった。
内勤スタッフの声が響く。
「カインさん、B卓ご指名です!」
俺が軽く会釈して席を立つと
沙耶は最後にこう言った。
「また、来てもいい?」
「…いつでも。待ってるよ」
そう言い残し、俺は笑顔を作った。
けれど、心の奥の自分は、
少しも笑えていなかった。
俺は過去の自分の気持ちさえ嘘にした。
──その夜。
営業を終えて裏口を出た俺は、
スマホを取り出した。
画面には、以前打ちかけたままの
言葉が残っている。
──「今日はありがとう」
指先が汗ばんでいた。
真田さんの声がまたよぎる。
「夜の中で本音を預けると
どっちの世界にも戻れなくなる」
それでも――押した。
小さな電子音。
一瞬の静寂。
静寂の中、
煙草に火をつけた時、
ポケットが震えた。
──「起きてる?」
美穂からだった。
思わず、息が止まる。
──「うん。眠れなくて」
数秒後、また震えた。
──「私も。今、外にいる」
「…外?」
まさか、と思いながら通りへ出ると、
街の角に白いコートが見えた。
美穂だった。
ネオンの光が髪に滲んでいる。
「やっぱり来た」
「なんで分かった」
「あなた、嘘つけないから」
彼女の言葉が、
一日の全てを溶かしていくようだった。
沙耶に対しては仕事に徹する事が出来た。
でも美穂といると仮面が剥がされる。
「…美穂に会うと、仕事の顔ができなくなる」
それが、この夜の本音だった。
美穂は少しだけ微笑み、
静かに言った。
「じゃあ、今夜だけは仕事やめてみたら?」
──深夜四時。
夜の底で、
過去と現在が交わるように、
静かに、心の音が落ちていった。
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